CODE R.I.P. 2 プライドと偏見 ※サンプル

     一

 高邑真琴は自分のデスクに着くなり、辺りを見渡した。
 始業開始十五分前。デスクの三分の二は埋まっている。刑事部屋全体に視線を一周させたのち、すぐ右隣の机に落とした。
 まだ出社していないらしい。もともと朝一番でも遅刻すれすれでもない、普段ならそろそろ来るはずだ。
 席に着こうと椅子を引いたとき、スニーカーの紐がほどけかかっているのに気付いた。机の下にもぐりこむようにして結び直す。
 刑事になって五年、仕事着はいつもジーンズにスニーカーというラフな格好だ。もう何年スカートをはいていないだろう。覚えている限り、巡査部長に昇任した際の式典で、正装を着用したのが最後のはず。
 真琴が元の体勢に戻ったと同時に、廊下につながる扉が開いた。大柄な身体がドアをくぐるように入ってくる。警察官は職業柄体格のよい者が多いが、ドアをくぐらねばならないほど長身となるとそうはいない。
 黒いコートのボタンを外しながらこちらへ向かってくる男に、真琴は声をかけた。
「おはよう、羽柴くん」
「ん、ああ。おはよう」
 最後のボタンを外した羽柴秀明は、何気ない調子で答えた。
 はじめて紹介されたとき、四歳上だと聞いたので敬語を使おうとしたのだが、高卒の真琴とは警察学校の入校期が同じで階級も一緒ということが分かったため、彼の方からタメ口でいいと言われたのだ。
 コートの前を完全にはだけた羽柴は、いったんバッグを自席に置いてからロッカールームへと向かう。聞きたいことがあったが、戻ってくるまで待つとしよう。
 真琴は席を立ち、給茶器の置いてあるコーナーへと足を向ける。紙コップをプラスチック製のホルダーにセットし、ホットコーヒーのボタンを押す。甘いものは嫌いではないが、コーヒーはブラックと決めていた。
 湯気の立つカップを手に戻ったと同時に、コートを置いてきた羽柴もまた自席に着いた。
「どうだった、昨日の試験は?」
 並んで立ったときの身長差は、約二十五センチ。むろん測ったわけではないが、きっとそれくらいはあるだろう。
 かといって座ってもやはり見上げねばならない。はじめは首が痛くなったが、最近ではもう慣れっこだ。
「なんとも。とりあえず埋めるべきところは全部埋めといた」
 苦虫を噛みつぶす、とまではいかない、さしずめ目の前に突き出された程度の微妙な顔つきで、彼は答えた。
「まあ、引っかかるとしたらまずは面接だな」
「なるほど」
 真琴はとくにフォローも入れず、うなずいた。
 なんとなく分かる。面接官におもねったり、自分をよく見せようとする柄ではなさそうだから。
 湯気の立つコーヒーをすすったとき、始業開始のベルが鳴った。


 平凡な一日は、あっという間に過ぎた。
「羽柴くん、きょうなんか用事ある?」
 おととい管内で起きたちょっとした傷害事件の調書を上司に提出してきた真琴は、同じように書類を片づけていた羽柴に問うた。
「いや、とくには」
「せっかく試験終わったんだし、飲みに行こうよ」
 声が上ずらないよう、ごく自然に誘った。つもりだった。別にはじめて誘うわけじゃなし、今さら緊張するのもヘンなのだが。
「そうだな……」
 羽柴は考えるような素振りを見せる。しかしそれも束の間、
「いいよ。ただし、あんま金ねえから鶏吉でな」
と、北都署の面々がひいきにしているリーズナブルな焼鳥屋の名を出して応じた。
「じゃあ、あたし上着取ってくるから……」
 そう促しかけたとき、たまたま通りがかった後輩の紺野巡査が首を突っ込んできた。すでに帰り支度は万端だ。
「あれ、鶏吉行くんスか」
「おう。紺野も行くか?」
「いいっスか。あそこ、新しいメニュー出たみたいで行きたかったんスよー」
 真琴が口を開く間もなく、羽柴は勝手に紺野を誘ってしまった。
「そうと決まれば、残業入る前にとっとと行きましょうよ」
 万事において調子の良い紺野は、憮然とする真琴と羽柴をせき立てた。
 ──まあ、ふたりっきりよりはいいけどさ
 口数の少ない羽柴とでは、きっと間が持たないだろう。自分もそれほど饒舌なほうではない。
 小さく嘆息しつつ、真琴もまた帰り支度をはじめた。


 今日は十二月四日、世間一般で言う給料日は終わったばかりだが、年末ということもあってか鶏吉はほぼ満席だった。三人は運良く奥まった個室席を陣取ることが出来た。
「これ受かったら、羽柴さん警部補か。いやー、雲の上っスよ」
「まだ合格って決まったわけじゃねえよ。それに雲の上ってのは、警視とか警視正とかその辺のレベルだろうが」
「でも二月には捜一に戻るんでしょ? やっぱ俺から見たらすげーことですよ」
 おしゃべりな紺野相手だと、普段ぶっきらぼうな羽柴もつられて口が軽くなるらしい。真琴との会話の十倍くらいは話している。
 真琴は二杯目のビールを飲みつつ、ふたりの会話を聞いていた。
「俺も捜一行ってみたいなー。羽柴さん、引き上げてくださいよ」
「悪いが、俺には人事権はないんでな。自分がいつまでいられるかもあやしいとこだ」
 冗談めかした紺野の台詞に、羽柴は苦笑する。 
「紺野さ、あんた捜一行きたかったの? 初耳だよ」
 真琴が横やりを入れると、紺野はたちまちふくれっ面を作った。すでに三杯目の酎ハイを手にした彼の頬は、赤く染まっている。
「そうっスよ。高邑さんこそ、一回話蹴ってるじゃないスか。俺なんて完全スルーだったのに」
「だって面倒じゃん。休みもろくに取れないって聞くしさ」
 それに出世争いに興味ないし、と言いかけたが、いずれ戻る人間が同席していることを思い出し先を飲み込んだ。
 真琴に捜査一課への異動の話が持ち上がったのは、去年のことだ。
 捜査一課と言っても羽柴のいた強行犯捜査係ではなく、誘拐・人質立てこもり・企業恐喝などに対応する特殊犯捜査係、通称SITと呼ばれる部署である。
 特殊犯捜査係は伝統的に女性捜査員が在籍する割合が多いという。ひとたび立てこもり事件が起こった際、犯人との交渉窓口に女性を指名されることが多々あるからだ。また、誘拐事件だと被害者の母親役を務めたりすることもある。
 異動の話を聞いたとき、真琴はまず強行犯捜査係でないことに落胆した。刑事としての自分を求められているわけではない、多少肝の据わった女なら誰でもいいのだ、と解釈した。
 もちろん、特殊班に在籍する女性刑事がみなそうだとは言わない。しかし、誘拐や立てこもりにたずさわった経験のない真琴に話が来るということは、やはり能力を買われた訳ではないと思うのだ。
 それに、生まれ育った北都署管内にも愛着があった。
 強行犯係とは名ばかりで、事件といえばケンカや器物損壊などが大半で、むしろ盗犯係の出番の方が多い。それも強盗みたいな物騒なのではなく、置き引きや車上荒らしのようなケチな事件ばかり。当然大事件とも無縁で、捜査本部なんて十年単位で開設されていない。きっと二十三区内でも指折りの平和な地域だろう。
 それでも、真琴はこの町が好きだった。
 平和なこの町を離れたくなかった。
 むろん、いつかは定期人事異動でよその所轄へ異動になる。それは仕方がないし、その場合は精一杯仕事をしようと思っている。
 しかし今、別に自分じゃなくてもよい部署へわざわざ行く気にはなれなかった。
「面倒って、そんなレベルの話じゃないですよ。だって捜一は特別なんだから。高邑さん、欲なさすぎっス。あーあ、俺なら二つ返事でオーケーしてがんばるのになー」
 紺野は唇をとがらせる。
 凶悪犯に日々立ち向かう捜査一課は警察の花形、若い刑事なら誰でも夢見る。
 まだ二十七歳で血気盛んな紺野もまた、エリート集団「捜一」に憧れるのだろう。
 その心意気をバカにするつもりはない。
 ただ、真琴にはその気がないというだけだ。
 なおも絡もうとする紺野を、羽柴は制しかけた。
「紺野、おまえちょっと落ち着け──、っと」
 言い終わらないうちに、羽柴の携帯が鳴った。色気も素っ気もない、携帯内蔵のアラーム音。
 真琴に目配せすると、彼は席を立った。ふすまを閉める寸前で通話ボタンを押し、「もしもし」と応じる。
 残された真琴と紺野の間に、わずかながら沈黙が降りた。見計らったように、店員が焼き鳥の盛り合わせの皿を持ってきた。
 先に沈黙を破ったのは紺野だった。
「仕事ですかね?」
 羽柴に出動の電話が入ったのならば、ふたりとも出なければならない。
 しかし、真琴は先ほどの目配せの意味を正確に汲んでいた。
「違うと思う。たぶん──」
 いったん言葉を切り、ビールを流し込んだ。ややぬるめの感触が喉を滑り落ちる。
「彼女でしょ」
「羽柴さん、彼女いたんスか」
「あんまりくわしく聞いてないけど、いるっぽい」
 実は真琴も直接訊ねたわけではない。
 たまに電話やメールのやり取りをすることや、そのときの微妙な表情の変化などから、なんとなく察しをつけただけだ。
「へえー、どんな人だろ。写真見ました?」
「見てない」
 つい、声音がつっけんどんになってしまう。
 いけない、真琴は我に返った。
 しかし紺野は気付かないらしく、ネギマの串をかじりながら続けた。
「羽柴さんっていくつでしたっけ? 三十は超えてますよね」
「たしか三十三だったと思う」
「ふうん。結婚しないのかなあ」
 もっともな疑問を紺野は口にする。
 真琴は答えず、ジョッキを空にした。テーブルの隅に押しやると、トートバッグからタバコ入れを取り出し、中から一本抜いた。
 ライターで火をつけたのと同時に、羽柴が席に戻ってきた。
「羽柴さん、今の電話って彼女からですか?」
「あ?」
 直球すぎる紺野の質問に、羽柴はやや戸惑いの色を見せた。
 なんて答えるのだろう。真琴の中に、好奇心が真夏の積乱雲のようにわき上がる。
「まあ、そんなとこだ」
「名前は? 職業は? どこで知り合ったんですか? 芸能人で例えると誰に似てますか?」
「──そんなの、どうでもいいだろ」
 羽柴は右手で口許をおさえ、あさっての方を向いた。
「写真とかないんですか?」
 紺野はあきらめず、彼がまだ手にしていた携帯のディスプレイをのぞこうとする。こいつは基本的に遠慮というものを知らない。
「ねえよ、そんなの」
 若干あわてたようすで、羽柴は携帯をポケットにしまった。照れ隠しか、代わりにタバコを取り出す。
「じゃあ歳だけ」
 なにが「じゃあ」なんだか。真琴は煙を細く吐き出しながら呆れた。
 紺野のしつこい追求に負けたのか、それとも年齢くらいならいいと判断したのか、羽柴は、
「……二十九」
と、ぼそりと答えた。
 同い年か。真琴の胸にいかんともしがたい感情が起こった。
 ここ数ヶ月間、霞のようだった存在が、急に生々しい形を取ったように思える。
 女性誌のグラビアを飾りそうな、パステルカラーのワンピースにふわふわロングヘア。さもなくば、男受けしそうな可愛らしい制服姿のOL。そんな映像が、何パターンも浮かんでは消えた。
 身だしなみなど無縁な自分とは正反対な、いかにも女らしい、可憐な女性。
 なぜそんな女性像が思い浮かんだのかは分からない。
 分からないがきっと、普通の男が付き合いたがる女は、自分のような男女ではないはずだ。だから、おのずと正反対のタイプを思い浮かべたのだろう。


 真琴はこれまで、仕事一本で生きてきた。
 もともと身を飾ることに興味が薄かったのもあり、ろくすっぽ化粧もしなかった。あまりの色気のなさに、たまに帰省すると実家の母親が嫁ぎ先の心配をするくらいである。コンプレックスが全くないと言えば嘘になるが、女扱いされないことの方がずっと楽だった。
 しかし、これでよいのだ。
 男と同等に刑事稼業をするのに、“女”という性は必要ない。むしろ、邪魔なくらいである。
 姿形で媚を売るような真似は、絶対にしたくない。これまでもそうしてきたし、今後もそうしていくつもりだった。
 だから、羽柴の彼女がどんなタイプであろうと、自分には関係のない話だ。
 自分は、羽柴の“相棒”だから。
 そう割り切っていたつもりだったが、やはり気にはなる。目の前を通り過ぎる女性像を追い払いつつ、ふたりの会話に聞き耳を立てた。
「へえー。どこで知り合ったんですか?」
 紺野はさらに追求の手を伸ばそうとしたが、羽柴はその手を巧みにすり抜けた。
「ヒミツ」
「いいじゃないですか、ちょっとくらい。もしかして、言えないような相手なんスか?」
「それじゃ聞くが、おまえの考える『言えないような相手』ってどんなんだよ」
「えー……、なんだろ。行きつけのキャバクラのねえちゃんとか?」
「そりゃ彼女って言わねえだろ。つーか、おまえは俺をなんだと思ってんだ」
 いつの間にか、すっかりペースが逆転している。さすがに一筋縄ではいかない。
 あわよくば、と考えていた真琴も、あきらめることにした。半分以上吸ったタバコをアルミの灰皿の上でもみ消し、
「そろそろ出よっか。明日も仕事だしさ」
 先ほど想像した顔のない女性像が、またしてもふんわりと真琴の脳裏をよぎった。

     二

 藤井祐希は、通話の終わった携帯の液晶ディスプレイをぼんやりと眺めていた。
 小さくため息をつくと、祐希は携帯を折りたたんだ。ジャケットの内ポケットに突っ込み、人気のない廊下にかかとを踏み出した。
 明かりが漏れるドアを押し開き、同僚と額を付き合わせていた上司に向かい声をかける。
「嶋元主任、お先に上がらせてもらってよろしいですか?」
 行儀悪く長机に腰を下ろしていた嶋元聡警部補は、こちらに向けて首をねじった。
「ああ、お疲れさん。気ィつけてな」
「はい。お先に失礼します」
 机の隅に置いていた荷物とコートを手にし、祐希は残った同僚たちにも軽く頭を下げた。
 薄暗い廊下に、自分のたてる足音が響く。階段を降りかけたとき、下から登ってきた男と目があった。
「藤井さん、上がるの?」
「ええ」
「もう遅いから駅まで送ろうか。女の子の一人歩きは危ないよ」
 男は今回の捜査本部でコンビを組むことになった、日本橋署の若手刑事・佐武巡査部長だった。見上げてくる視線には、心配よりも別種の色が浮かんでいるように思えた。
「いえ、平気です。大通りなら安全ですし」
「でも……」
「失礼します」
 まだなにか言いたげな男の横をすり抜け、祐希は足早に階段を降りた。
 ロビーを抜け、重いガラス戸を開けると、十二月の寒風が容赦なくぶつかってきた。


 師走の永代通りは、さすがに夜の十時近くなってもヘッドライトであふれていた。
 祐希はトレンチコートのポケットに両手を入れ、地下鉄の駅へと向かった。佐武のことを考える。
 ──“女の子”って言うなっての、まったく……
 彼は、祐希がもっとも苦手とする部類に属した。
 捜査本部が設置され、本庁と所轄の捜査員でコンビを組むのは慣例であるが、多くの場合ベテランと若手という組み合わせになる。所轄のベテランと本庁の若手、もしくはその逆。
 しかし今回の事件は年末の忙しい時期でどこも人手不足ということもあり、人員の確保が不十分だった。そのため、本来ならベテランと組むはずが、若手同士のコンビとなってしまったのである。
 なにも若いから苦手というわけではない。自分に対する佐武の態度が、勘に障るのだ。
 組んですぐ、たまたま前を通りかかった日本橋署の刑事部屋で、佐武が同僚と『捜査本部が設置されている間に、本庁の女刑事を落とせるか』と賭けているのを耳にした。
「四六時中一緒だし、連絡用にとちゃっかり携帯番号も聞き出した。ヤれるところまでは無理でも、お近づきにはなれるかも」などと、笑いあっていた。
 それ以降、祐希は佐武に対して防衛線を張ることに決めた。なにかにつけ接触を試みる相棒に、肘鉄を食らわせ続けた。
 仕事だからコンビは続ける。しかし、いい結果は期待できそうにもなかった。
 事件のことだけに集中したいのに、こんなよけいなことに煩わされるなんてバカらしい。
 ぽっかりと口を開けた地下鉄駅への入り口を足早に降り、乗車カードを自動改札機にやや乱暴に叩きつけた。表示された残高を見て、もうそろそろチャージしないと、と思いつつ、ホームへと降りるエスカレーターに乗った。
 真っ暗なひとりきりの部屋に帰りたくなかった。かといって、呼び出すわけにもいかない。さっきの電話で、彼が飲んでいる最中であることは承知していた。
 しばらく考えたのち、祐希はある場所へ寄り道することにした。
 この時間なら、まだ宵の口だろう。


 重厚な木のドアを開ける。来る途中までの猥雑さが嘘のような、穏やかな空間が凍えた身体を包み込んだ。
 ほっと一息つくと、祐希はコートを壁に掛け、空いていたカウンター席に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ、藤井さん」
 耳に心地よいアルト。甘くて強い酒のような美貌の女バーテンダーが、にっこりと迎えてくれた。
「こんばんは」
「急に冷え込みましたね、お身体、大丈夫ですか?」
 バーテンダーは温かいおしぼりを手渡す。受け取った指先に、熱い血が急速に流れるのを感じた。
「そうですね……。今はまだ気力でなんとか」
 そう答えると、バーテンダーはふふっと笑い、
「では、当店オリジナルのモスコミュールはいかがです? とてもクセのある味ですけど、ショウガがたっぷり使われてるので風邪の予防にはもってこいなんですよ」
と、カウンターの内側に置かれた大きな広口瓶に視線を向けた。
 少し色づいた液体が満たされ、底にいくつものショウガが丸ごと沈んでいる。ちょうど、梅酒の梅がショウガになったような感じだ。
 祐希の飲んだことがあるモスコミュールは、甘いジュースのようなものだ。好奇心に惹かれ、注文してみる。
 やがて、鈍く光る銅のマグカップが目の前に置かれる。
「グラスじゃないんですね」
「ええ、これが本式なんです」
 取っ手部分までキンキンに冷えたカップを手に取り、鼻を近づけた。強烈なショウガの香りにたじろぎつつ、一口含む。
 舌を灼くような、甘さのかけらもない刺激。
 思わずむせてしまった祐希に、バーテンダーは「大丈夫ですか?」と声をかけた。
「すごい……。今までのと全然違う。たしかに風邪に効きそうですね」
「そうでしょう? 氷で薄めながらゆっくりお召し上がりください」
 おだやかな会話。来て良かった。祐希はそう思った。
 ミックスナッツが盛られた皿に手を伸ばしつつ、さっき切った電話のことを考える。
 彼──羽柴は、北都署の同僚と飲んでいた。おそらく、試験が終わった祝いかなにかだろう。
 昨日、試験が終わってすぐにメールはもらっていた。お疲れさま、と返したら、「近いうちに行く」と返事が来た。
 さっきもそうだ。「近々そっちへ行くから」と。
 祐希が捜査本部入りしていることは、彼も知っている。集中捜査のため捜査員が所轄に泊まり込む最初の二十日間、通称一期の間は遠慮しているのか完全に音信不通になるのだが、それが解けて祐希が自宅に帰るようになると様子見の連絡を入れ、寄ってもいいか打診してくる。
 分かっている。体調を崩していないか、心配してくれているのは。
 でもどこかで、ただ会いたいだけなのでは──もっと有り体に言うと、セックスしたいだけなのでは──と、勘ぐってしまう。
 羽柴は変わった。
 あれほど貪欲に事件の真相を追い求め、現場をはいずるように捜査をし、ストイックに自分の意志を貫いてきた彼が、いつしか机にかじりついて昇任試験の勉強に明け暮れ、試験の結果に気を揉み、そして祐希の“女”を求めるようになった。
 夏の盛り、羽柴は「昇任試験に受かったら、正式にプロポーズするつもりだ」と打ち明けた。照れ屋な彼が真っ赤な顔で言ってくれ、最初はうれしかった。しかし結局は、祐希の“女”の部分が欲しいだけだと気付いてからは、素直に喜べなくなった。
 決して彼が嫌いになったわけではないが、どこかにわだかまりが残るのだ。
 プロポーズを受けるべきなのか、否か。
 結婚したいのか、したくないのか。
 それは祐希の心に、常に重石のようにのしかかっていた。
「……さん。おねえさん」
 ふいに呼ばれ、祐希ははっと顔を上げた。自分のことかと声がした方を向く。
 そこには、明らかに酔っぱらったふたり組のサラリーマンらしき姿があった。年の頃なら三十代半ばだろうか、薄暗い店内でもそれと分かるほど、首から上が真っ赤だ。
「ひとり? よかったら俺らと一緒に飲もうぜ」
「……けっこうです」
 全身で拒絶を示し、祐希は彼らから視線を逸らせた。
 せっかくひとりで飲んでいるのに、邪魔をされたくない。
「いいじゃん、ちょっとくらい」
「なんだったら場所替えてもいいしさ」
 男たちは勝手に隣に座り、肩を抱こうと手を伸ばしてくる。
「ちょっと、やめてって……」
 ぶしつけな態度に、くすぶっていた苛立ちが一気に沸騰する。振り払おうとしたとき、
「お客さま、ここではそういったことはお断りしていますのよ」
と、落ち着いた声がカウンターの中から聞こえた。
 見ると、バーテンダーが口許だけで笑いながらグラスを拭いていた。意志の強そうな黒目がちの瞳が、男たちを見据える。
「ほかの方のご迷惑にもなりますし、ご遠慮いただけますかしら」
 言外に出て行け、というニュアンスを含ませ、バーテンダーは微笑んだ。店内にいた客たちの視線がこちらに注がれているのを、肌で感じる。
 ピシャリと叩かれた態の男たちは、なにやらぶつぶつ呟きながら勘定を済ませ店を出て行った。
 ドアのベルが鳴り止んでから、祐希はバーテンダーに礼を言った。
「ありがとうございました」
「とんでもない。こちらこそ、至らなくて申し訳ありません」
「そんな……」
「たまにはひとりきりで考え事をしたいときだって、ありますものね」
 バーテンダーは、拭いていたグラスを背後の棚にしまった。
 その言葉に、祐希はふと今の気持ちを聞いてもらいたい欲求にかられた。
 彼女が何者かは分かっているつもりだ。実際に利用したことはまだないのだが、本来なら相談相手としては不適当である。
 だが、同じくらいの年齢の女として、なんとなく話を聞いてもらいたかった。
「……最近、迷ってるんです」
 ぽつりと漏らした祐希の言葉に、女バーテンダーはわずかに小首をかしげる。
「その……正式ではないんですけど、結婚して欲しいと言われてて」
「あら」
 彼女はしかし、普通ならその後に続くであろう「おめでとうございます」とは言わなかった。祐希が「迷っている」と前置きしたからだろう。
 祐希は、細かい水滴が浮かびはじめた銅のマグカップを揺らした。
「うれしくないわけじゃないんです。わたしのことを真剣に考えてくれてるって実感したし。でも……仕事のことを考えると、素直に受けていいのか分からなくなるんです」
「藤井さんは、お仕事を続けたいんですね」
「ええ。でも両立できるか不安で……」
 するとバーテンダーは冷蔵庫からペリエの瓶を取り出し、栓をはじいた。中身をグラスに移し替え、失礼します、と一言断りを入れあおる。
「意外とね、なんでもないことですよ」
 意味が分からず、祐希は問い返した。
「なんでもない、って……?」
「結婚を前にした女性は、誰しも不安になるものなんです。結婚によって自分が変わってしまうんじゃないか。今までの生活や仕事や、いろいろなことが。でもね、意外と変わらないんです。結婚する前は環境が劇的に変化すると思っていても、実際はそれほどでもない。名字が変わり、今まで他人だった人と一緒に住むようになり、家事をこなすようになっても、慣れれば『なあんだ』という程度の変化でしかない。もちろん、配偶者が理解あるかどうかや、子どもが出来れば、だいぶ変わりますけどね」
 祐希の視線に気付いたバーテンダーは、ふふっと笑った。
「わたしもね、結婚する前はそう思ってました。この仕事ができなくなるんじゃないかって」
「ご結婚されてたんですね」
「ええ。子どももふたりいますよ」
 驚いた。これほど生活臭のない女性も珍しい。
「幸い主人は理解のある人だから、こんな夜の仕事でも許してくれてるんですけどね。藤井さんのお相手は、お仕事に理解のない方なんですか?」
 カウンターに立つ彼女は、祐希の職業を知っている。
 そしておそらく、今話している相手というのも、うすうす気付いているだろう。こちらから口にしたことはないのだが。
「……いえ。続けることは許してくれてます」
 あの夏の日、続けてもいいかたずねたら、彼はいいよと答えた。
「なら大丈夫ですよ。結婚しても藤井さんは藤井さんのままです」
 バーテンダーの何気ない言葉に、祐希の心臓は跳ね上がった。
 自分でも手が届かなくてもどかしかった核心を、突かれた気がした。
「藤井さんの職場は、男社会だと聞きます。今でも男性に負けじと気を張っているのに、結婚すればもっと負担が増える。回りの男性が『主婦は家庭でおとなしくしてろ、出しゃばってくるな』と無言の圧力をかけてくる。それが気がかりなのでは?」
「……その通りです」
 まるで現場を見てきたかのような的確な指摘に驚いたのも束の間、はたと思い当たった。
 そうだ、彼女も同じなのだ。
 バーテンダーという「男社会」。彼女もまた、同じように悩んだことがあるのだ。
 祐希が答えを求めるようにじっと見つめると、女バーテンダーはちいさくうなずいた。
「居心地は決してよくはないでしょう。環境改善も期待はできない。でも、結婚しても自分は変わらない、自分は自分だという強い信念を手放さなければ、きっと大丈夫です」
 そう言うと、バーテンダーは今日一番の華やかな笑顔をつくった。
 ──自分は自分、か
 祐希は彼女の言葉を、刺激的なモスコミュールとともに飲み干した。


 自宅のあるマンションに戻った祐希は、郵便受けから中身を取り出し、エレベーターの中でざっと目を通した。以前買い物をしたことのある店からのセールはがきや、宅配ピザのメニュー。近所にオープンする美容室のチラシから新築マンションの広告まで、大小さまざまだ。
 部屋に入ってそれらを放り出したところで、留守番電話のランプが点灯していることに気付いた。テープを再生してみると、実家の母からである。
『クリスマスはどうせ仕事だろうから、せめてお正月くらいは帰っておいで。お父さんも待ってるから。帰りが遅くなるときは十分気を付けて。じゃあね、寒いから風邪引かないようにね』
 今年に入ってから独り立ちしたこともあり、今まで以上に実家に顔を見せていない。妹が同居しているからまだましだが、やはり寂しいのだろう。刑事稼業を快く思っていない父などは、推して知るべし。
 思えば、両親にはさまざまな心労をかけてきた。
 義務教育を終了するなり、突然フランスへ留学すると日本を飛び出したくせに学業そっちのけでモデルになり、打ちのめされて戻ってきたと思ったら今度は警察官になりたいと言い出したあげく、ろくに家に寄りつきもしない。なんとも親不孝な娘である。
 やっと身を固める気になったと報告すれば喜んでくれるだろうが、相手は同業者でしかも仕事は続けると言えば、さてどんな顔をするだろうか。
 そこまで考えて、祐希は苦笑した。
 ──あたし、もう結婚するつもりになっちゃってる
 バーテンダーの話でずいぶん気が楽になったのはたしかだが、まだまだ課題は残っている。
 とりあえず、この話はまだ保留だ。
 祐希はメッセージを消去したあと、自宅の電話番号をプッシュした。
 せめて、母に声だけは聞かせてやりたかった。

     三

 携帯に一報が入ったのは十二月九日の午前六時十二分、まだ真琴がパジャマ姿で歯を磨いているときだった。
 急いで身支度を調え、女子寮を飛び出す。同じ敷地内のため、北都署までは徒歩一分の距離だ。刑事課へ駆け込むと、すでにスーツ姿の羽柴が待っていた。
「おはよう、傷害だって?」
「ああ、今鑑識が現場検証に当たってる。犯人は逃走中」
 そう端的に言うと、管内地図を広げた。
「マル害は男性。第一通報は今朝五時七分、どうやら深夜の帰宅途中に襲われたらしい」
「外傷は?」
「頭部を殴打。北都救急病院に搬送された。命に別状はないが意識不明、現在CTスキャンでの検査結果待ちらしい。現場が人気のない生活道路だったから、発見が朝になっちまったんだそうだ」
 羽柴の指し示した場所は、道の片側に工場、反対側は空き地という細道だった。
 真琴が地図に顔を寄せたとほぼ同時に、紺野がネクタイ片手にあたふたと走り込んできた。それを見た羽柴は手にしていた傷の付いた手帳を閉じ、
「行くか」
と、短く言った。


 現場となった路上では、すでに紺色の制服を着た鑑識課員が、地べたをはいずるようにして作業を行っていた。
 通報を受けて真っ先に臨場したのは、近隣の交番勤務の若い巡査だ。保護していた第一発見者の新聞配達員の青年によると、この道沿いには新聞を取っている家庭はないため、普段通ることはないらしい。しかし少し先の四つ辻はルートに含まれており、今日たまたま視線を向けたところ、男性が倒れているのを発見したという。
 男性はブルゾンにジーンズ、マフラーにスニーカーというごくカジュアルな服装で、仰向けに倒れていたらしい。青年は最初酔っぱらいが寝ているのかと思ったが、近くで見ると頭から血が出ていたのであわてて通報したということだ。
 現場は管内地図とは少々違い、片側の空き地は現在マンション建設予定地になっている。やや大きめの工場とに挟まれた、車二台がすれ違うのがやっとという細道だ。明かりは街灯のみ、当然、夜間はほとんど人通りが絶えることとなる。
「マル害の身元、判明しました」
 携帯電話で収容先の病院に問い合わせていた紺野が報告した。
「本條英太、二十五歳。住所は喜多野町二の十八の一、メゾン喜多野四〇二号。所持していた運転免許証で確認取れました」
「近いね」
 真琴がつぶやくと、羽柴は手にした地図に視線を落とした。ここから数百メートルしか離れていない。
 すぐ近くに駅前から伸びるバス道もあるが、それだと遠回りになる。どうやら、近道をしたらしい。若い女性ならば用心して避ける物騒な道でも、成人男性ならあまり危機感を持たずに通ることはよくある。
「容態は」
「後頭部を鈍器様のもので殴打され、頭蓋骨が陥没しています。まだ意識は戻らないそうです。あと、担ぎ込まれたときに微量のアルコール臭がしたそうです」
「飲み会の帰りかなんかかな」
「宴会シーズンだしな。朝帰りの途中ってとこだろう」
 そう言うと羽柴は、白手袋を着けた両手を胸の前で組んだ。吐く息は真っ白だ。
 そのとき、着信音が鳴った。三人とも反射的に自分の携帯を手に取ると、鳴っていたのは羽柴のものだった。しばらく応対したのち、
「係長から、遺留品の捜索は鑑識にまかせて、俺たちはいったん署に戻れって指示だ」
 乗り付けた覆面パトカーのドアを開けながら、真琴は久々に身体の芯から熱が沸き起こるのを感じていた。



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