CODE R.I.P. 掌編『予感』

 荒い呼吸は収まらない。
 耳の奥で自分の心音がけたたましく騒いでいた。
 頭に巻いていた面手拭いで、流れる汗を拭き取る。なけなしのメイクがすっかり取れてしまったが、そんなことはどうでもよかった。
 防具を外し傍らに置いて、祐希は道場の隅に座り込んだ。
 だだっ広い武道場では、十数人の男たちが剣道のほか、柔道や逮捕術の稽古に精を出している。本庁に配属になってまだ三ヶ月も経っていないため、見知らぬ顔ばかりだ。
 鼓動が落ち着くにつれ、代わって思い出したくない声が脳内によみがえる。
『こんなチャラチャラした女と仕事ができるか。俺はまっぴらだね』
 今回の合同捜査で組むことになった所轄署の壮年の刑事から、初顔合わせでいきなり罵倒されたのだ。
 女である祐希は、男の刑事からあからさまにいやな顔をされることは多々ある。しかし面と向かって言われたのは、初めてだった。
 髪はきちんとまとめているし、服装だってシンプルなパンツスーツだ。顔の造りが派手なのは生まれつきだから仕方ないとしても、身だしなみには気を付けている。チャラチャラとは心外きわまりなかった。
 負けじと言い返そうとした祐希に対し、先輩の羽柴は無情にも「本庁に戻って大部屋の掃除でもしとけ」と言い残し、さっさと件の刑事とともに捜査へ出てしまった。
 悔しくて、悔しくて、どうやって所轄署から本庁へ戻ってきたのか記憶にないほどだった。
 じっとしていられず、武道場へと駆け込み稽古をしていた男たちに片っ端から勝負を挑むも、みなに面倒はごめんとばかりに避けられた。
 歯噛みしていたところへ、なぜか捜査に出ているはずの羽柴が顔を出したため、つかまえて無理やり相手をさせたのである。
 結果は、惨敗。
 したたかに打ち込まれたあげく、白線の外まで吹っ飛ばされる始末だった。
 ──勝てるわけないの、分かってたけどさ
 剣道四段の羽柴に、せいぜい二段止まりの祐希が敵うはずがない。
 しかし、全身を支配していた凶暴な嵐はようやく静まった。
 彼がいっさいの手加減をせず、容赦なく相手をしてくれたおかげで、たまっていた負の感情が汗とともに流れ出た。
 壁にもたれ大きく深呼吸する。とたんに全身に痛みが走った。型も無視して突進したせいで、普段ならありえないような場所まで打たれたのだ。
 顔をしかめていると、祐希と同じく剣道着のままの羽柴がやってきた。
 面手拭いをむしり取り、じろりと見下ろされる。
「あんなむやみに飛び込んでくるやつがあるか。危ねえだろうが」
「すみません、ちょっと頭に血が上ってて……」
「見せてみろ」
 そう言うと、羽柴はおもむろにかがみ込んだ。
 とっさに引っ込めようとした手をつかまれ、乱暴に袖をまくられる。
 手首とその少し上に、くっきりと赤い痕が残っていた。明日か明後日には、見るも無惨な青痣に成長しているだろう。
 ふう、と羽柴はため息をつき、祐希の腕を解放した。
 暴走した後輩にあきれているのかと思ったが、そうではなかった。
「明日からは本格的に回るぞ。おまえも来い」
「え、ですが……」
「オッサンには俺から言っといた。最初はやりにくいだろうけど、みんながみんな初対面から相性抜群ってわけじゃねえよ。時には合わないヤツと組まなきゃならないことだってあるしな」
 羽柴はぶっきらぼうに言った。
 昨日今日刑事になったわけでもあるまいし、祐希だってそのくらい理解しているつもりだ。
 しかし、頭では分かっていても感情がついてこない。
 まだまだ自分は半人前だな、と痛感した。
 と同時に、いつもは突き放した態度を取る羽柴が、仲を取りなしてくれたということに、祐希は驚いた。
 ここに顔を出したのも、もしかしたら自分のようすを見に来てくれたのか。
 素直に礼を言う。
「羽柴さん、ありがとうございます」
「なんだよ、急に」
「ご迷惑おかけしました。明日からは気を引き締めてやり直します」
 いったん頭を下げてから向き直ると、彼はほんの少し目を見開いた。
 しかしすぐにふっと笑みを浮かべた。
 ──うわ……
 自分でも驚くほど、心臓が跳ね上がった。
 羽柴の笑顔など、配属以来はじめて目にする。
 いつも怒ったような仏頂面なのに、笑うと鋭い眼差しがやわらぎ、思いのほか優しげな表情になる。
 不意打ちを食らった祐希の頬に、あらたな血が上った。
 ──よく見ると、羽柴さんってけっこうタイプ、かも……
 振り落とされまいとついていくのに必死だったから、今の今まで彼をそんな対象に見たことはなかった。
 しかし。
 さりげなく視線を下方へすべらせる。
 普段のかっちりしたスーツ姿とは違い、今の彼は濃紺の剣道着と袴という出で立ちだ。激しい打ち合いのせいで乱れた胸元が目に入り、さらに動悸が早まった。
 なにを考えているのだ、このひとは先輩なのに。
 仕事仲間なのに。
「どうした、ボーッとして」
 羽柴の怪訝そうな声に、はっと我に返る。
 あせって取りつくろうとしたとき、声がかけられた。
「よう羽柴。あんたが道場に来るなんざめずらしいな。捜一はさぞかしヒマなんだろうな」
 振り仰ぐと、そこには年の頃なら三十代後半であろう男が、にやにや笑いながら立っていた。
 任侠映画に出てきてもおかしくない人相の悪さと、柔道着がはちきれそうな筋骨隆々の身体がひときわ異彩を放つ。
 本能的に身構える祐希とは対照的に、羽柴はさして驚きもせずに返した。顔見知りらしい。
「ヒマなわけあるか。そっちこそ、こないだ五葉組の内部抗争で組員根こそぎパクったんだろ。こんなとこでのんきに組み手やってていいのかよ」
 続くふたりの会話から察するに、男はどうやら組対四課(組織犯罪対策四課・暴力団関係の犯罪捜査)の刑事であろう。なるほど、ヤクザ張りの強面のはずだ。
 ふと、男の視線がこちらへと注がれた。
 祐希の全身をくるっと一周した後、ふたたび羽柴の元へ戻る。
「そっちのネエちゃんは見ない顔だな。後輩か?」
「ああ。まだ二ヶ月ちょいの新人だ。ちょっと稽古付けてた」
「ほーお、稽古ねえ」
 羽柴とともに立ち上がった祐希は、自己紹介をした。
 男は相変わらずにやにやしつつ、無精ヒゲの浮いたあごをなで回している。
「さっき見てたけどな、女のコ相手に本気出しすぎじゃねえか。抜き胴んときに竹刀がズレて腰に当たったろ。ありゃあ相当痛かったはずだ」
 みっともない場面を的確に指摘され、祐希は羞恥と屈辱で唇を噛んだ。
 先ほどとはまた違う血の気が頬を熱くする。
「痕が残っちまうぞ。若いネエちゃん傷モンにすんなよな、見たとこ嫁入り前みたいだし」
「平気です。相手も予定もないですから」
 ついむきになって言い返す。
 すると羽柴が驚いたように肩をそびやかし、次いでまじまじと見てきた。
「なにか?」
「あ、いや、別に……」
 祐希が問うと、彼は急に言葉をにごした。
 片手で口許をおおい、そっか、いないのか、などと呟きつつあさっての方を向く。
 そんなふたりを見た組対の男は、口許を引き上げとんでもないことを言った。
「じゃあ、いざとなったら羽柴が責任取ってもらってやれよ。たしかあんたも独身だろ」
「は……?」
 祐希と羽柴はほぼ同時に間の抜けた声を上げ、顔を見合わせた。
 目が合った瞬間、羽柴の顔全体が朱に染まった。
 さっと目を逸らし、
「ふざけんな! なんで俺が……」
と、すごい剣幕で食ってかかった。
「そんな力いっぱい否定すんなよ。ほんのかるーい冗談だろうが」
「あんたの冗談はシャレんなんねえんだよ」
 そう吐き捨てる羽柴の態度に、最初はぽかんとしていた祐希だったが、やがてふつふつと怒りが沸いてきた。
 ──そこまでむきにならなくたっていいじゃない。あたしが相手なのはそんなにいやなわけ?
 男女差別されるのは腹が立つが、かといって女として歯牙にもかけられないのは、それはそれで傷つく。
 さっき一瞬でもときめいたのがバカみたいだ。
 睨みをきかせる祐希の視線に気付いたのか、羽柴は言った。
「おまえも黙ってないでなんか言えよ」
「はあ……」
 ふと、祐希の胸にいたずら心が起きた。
 腕組みをする羽柴に向き直り、
「フツツカモノですが、よろしくお願いします」
と、深々と頭を下げる。
 短い沈黙のあと、組対の男の爆笑が下げた頭に降り注いできた。
 顔を上げると、耳まで真っ赤に染めた羽柴が絶句していた。
 さすがに悪ふざけが過ぎたと反省し、フォローしようと口を開きかけるが、彼はいきなりきびすを返した。
「──明日、朝一で事件の資料揃えとけ。いいな!」
 こちらも見ずに捨て台詞のごとく言い残すと、足音高く道場を出て行った。
 道場にいた男たちもみなあっけに取られ、組対の男ひとりがなおも腹を抱えていた。
 ひとしきり笑うと、男は祐希に向き直った。
「あいつなりの照れ隠しだろ。まったく、朴念仁もいいところだぜ」
「そうですねえ……」
 でも、そこが羽柴さんのいいところだと思います。
 祐希が答えると、男は苦笑しつつ肩をすくませ、立ち去った。凶悪そうな面構えとは裏腹に、人柄は悪くなさそうだ。
 壁に立てかけていた竹刀を手に取る。
 柄を握ると、羽柴の剣を受けたときの衝撃がよみがえった。肩まで痺れるほどの剛剣。
 あのひとは、自分と真っすぐに向き合ってくれた。
 女だからって手抜きも手加減もせず、ひとりの後輩として稽古を付けてくれた。
 柄を握る手に力を込める。
 打たれた箇所が悲鳴を上げたが、今はその痛みすら心地よかった。
 だいじょうぶ、明日からまたがんばれる。
 せっかく取りなしてくれたのだ。上手くやらないでどうする。
 そうとなれば、明日の朝までに資料を揃えておかねばならない。仕事を効率よくこなすための、大事な作業である。今の自分に出来ることを精一杯やっておきたい。
 明日は全身筋肉痛でキツいだろうから、まだ動ける今のうちにできるだけたくさんの資料を集めよう。
 そう決めると、祐希は手早く防具を抱えて更衣室へと歩き出した。



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