一
いやな事件や見たくもない事実に限って、真っ先に目に飛び込んでくるのはなぜだろう。
ちょうど、悪賢く図々しい輩がむだに大声なのに似ている。こちらのことなどお構いなしに土足で踏み込んでくるのもそっくりだ。
今朝、すなわち昭和五年八月十九日付けの朝刊を手にした二宮環の目にも、その手のニュースが傍若無人に押し入ってきた。
「……なにこれ」
ごく小さな記事だった。ゴシップ的な色合いの強い七面ということもあり、普段なら気にも止めなかったろう。
だが環は、奇妙な見出しに引きつけられた。
【潤一郎氏妻を離別して 友人春夫氏に與ふ】
──与える? どういうこと?
新聞を目の高さに持ち上げ、一字一句あまさず読みはじめた。
それは、文壇の名家・谷崎潤一郎が妻と離婚し、友人である佐藤春夫と再婚することを許す、というものだった。三人連名の声明書や谷崎氏本人への取材などが載っている。
食い入るように記事に没頭する環を不審に思ったのか、助手である葛葉敦が「いかがいたしましたか」と声を掛けてくる。しかしそれには答えず、環は記事を読み終えるなり机に新聞を叩きつけた。はずみで机上台に置いていた名刺入れがひっくり返り、中身が派手に散らばった。
「なによこの記事、ふざけるのもいい加減にしなさいよ!」
環の剣幕に、葛葉もまた新聞をのぞき込んだ。眼鏡の奥の視線が素早く動き、
「たしか、以前も話題になっていました。そのときは谷崎氏が佐藤氏に奥方を譲る約束をしたにもかかわらず、一方的に破棄したとかで絶縁状まで出てくる騒動だったと記憶しています」
「それよ、その件の続報だわ」
「ここに【事の起つたのは大正十年から】とあるので、十年近く引きずっていたようですね。ようやく円満解決したということでしょうか」
「──円満解決ですって!?」
無神経な一言に、環は目尻を吊り上げた。
「“問題が片付いた”のは、男ふたりから見た結果じゃないの。あたしが気になるのは、奥さんの意志がまったく無視されてるってことよ」
「……と申しますと?」
「男たちの都合だけで、千代夫人がまるで物みたいに右から左へ譲られていく。そこには夫人の意思や言い分はまったく存在せず、しかもそれを誰もが当然と捉えている。そんなの、おかしいじゃないの」
平手で紙面を何度も叩き、
「谷崎のオッサンが『性格的に合わない』とか言い訳するのは結構よ。どうせ新しい女を作りたいための方便だろうし、そんなことどうでもいいわ。そうじゃなくて、夫側の主張を載せるならどうして妻の言い分も取材しないのよ。そんなの、フェアーじゃないわよ!」
だいたいね、と環は記事を指でつついた。
「この【與ふ】て見出しはなによ。女性を所有物とみなす新聞記者の主観が入りまくりじゃない! こんな記事書く記者もだし、通してしまう編集部もどうかしてるわ。これ見てあんたはなんとも思わないの!?」
噛みつかんばかりの環に、葛葉はわずかに首をかしげた。
「おっしゃるとおり、『与える』という書き方は不遜な印象を受けますが、谷崎氏から佐藤氏へ奥さまが譲られるのは事実ですから、まったく当ての外れた表現ではないと思われます」
憎らしいほど冷静に続ける。
「記事を読む限り、告訴権者である谷崎氏が容認していたので罪には問えませんが、奥さまと佐藤氏の関係は立派な姦通罪です。いつまでも不適切な関係を続けるより、きちんと以前の婚姻を解消して新たな一歩を踏み出すのが、おふたりにとっても最良の方法ではないでしょうか」
「……だからそういうことじゃないってば! あたしは女性蔑視の風潮が許せないって言ってんの!」
見当外れの意見にいよいよ激昂した環は、猛然と立ち上がった。勢いが付きすぎて、椅子が背後にひっくり返る。
「あんたもしょせん男ってことよね。虐げられた女性の気持ちなんて、これっぽっちも理解できないんだわ。あーあ、やんなっちゃう」
新聞を手にした環は机を離れ、部屋の隅にある応接用の長椅子に寝転んだ。怒りすぎて頭に血が昇り、座っているのがつらくなったのだ。
仰向けになり残りの記事を読んでいると、頭のほうで衣擦れの音がした。
新聞をどけ、むっつりと見下ろす顔を、負けじとにらみつける。
「なによ、まだなんか文句あるの?」
「いいかげんになさいませ、お嬢さま。寝転んでの新聞など、行儀が悪すぎます。二宮家のご令嬢としての自覚をお持ちください」
「──行儀行儀って、いちいちうるさいわね。だいたい、家のことは関係ないでしょ!」
頭にきた環は、新聞を丸めて袴をはいた足を思い切り叩いてやった。
二宮環は、家出中の伯爵令嬢である。
陸軍の実力者である一族──とくに陸軍中将たる父親がその筆頭だ──の重圧に耐えきれず、ちょうど一年前、女学校卒業と同時に家を飛び出した。
普通の令嬢ならば門の外に一歩踏み出しただけで心細くなり、たちまち尻尾を巻いて家に戻るだろうが、環は違った。
二宮家に流れる長州侍の血がそうさせるのか、持ち前の好奇心と行動力、そして濫読した探偵小説で培った(?)度胸をもってして、宮城にほど近い、ここ『九段下アパートメント』の一室にある探偵事務所へ飛び込み入門を果たした。そうして半年後には引退する前所長から事務所を譲り受け、『二宮探偵事務所』と看板を掛けかえるまでに至った。人間、信念ひとつで案外どうとでもなるのだ。
晴れて一人前の探偵としてスタートした、と思ったのもつかの間。
二宮家の書生だと名乗るこの葛葉が、二ヶ月ほど前に突然事務所へあらわれ、「旦那さまの命により、お嬢さまをお迎えに参りました」とのたまった。
これまで、迎えが来なかったわけではない。
父の命を受けた刺客が勝手に押し入ってきて、着の身着のまま実家に拉致されたことも、一度や二度ではきかない。
しかしそのたびに、環はとっとと脱出してきた。力ずくで連れ戻しても、力ずくで逃げ出す娘にとうとう父はさじを投げたのか、いつしか追っ手も途絶えた。ようやく自由を手にした、と安心しきっていたところへ現れたのが、こいつである。
葛葉は、環を連れ戻すまでは帰らぬとばかりに事務所へ居座り、さらに探偵業にまで口を挟むようになってきた。法に触れる依頼だから断れだの、刑事事件は警察に任せるべきだの、うるさいことこの上ない。
しかし一方で的確な指摘をしてくることもあり、それが捜査の鍵になることもしばしばあった。聞けば法律の勉強をするために郷里での勤めを止して上京し、二宮家で書生となったらしい。
かくして、葛葉の立場は「押しかけお目付役」から「探偵事務所の助手」へと、不本意ながらも格上げされたのであった。
二
くしゃくしゃになった新聞を引き延ばし、探し人欄を読んでいると、事務所のドアがノックされ、アパートメントの受付嬢がやってきた。
「おはようございます。二宮さまに、お手紙が届いております」
「手紙? 誰から?」
自分は寝転がったまま葛葉に応対させ、手紙の裏書きを確認させる。
「武田鞠子さまからです」
「貸して!」
環は差出人の名を聞いて起き上がり、手紙を受け取った。
封を切ると、中から二枚の便せんがあらわれた。
「なになに……。『先日はお手間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした。このたび無事に、別離する運びとなりました。これもひとえに、貴女様のおかげです。ありがとうございました……』。鞠子さん、やっと別れることができたのね」
浅草雷門前のカフェー『メリイ・ウヰドウ』の女給である鞠子から、「女ぐせの悪い情夫となんとかして別れたい」という依頼を受けたのは、一月ほど前のことだった。
鞠子のアパートメントに転がり込んだあげく、ほうぼうに女を作り、あげく鞠子の貯金にまで手をつけるという、清々しいほどのクズ男である。
環ははじめ正面切ってクズ男の元へ乗り込むつもりだったが、葛葉の助言で外堀から固めることにした。
まずクズ男の周辺を調査し、彼が郷里に置いてきた妻子宛へ数々の悪行を投げ文し、同様の内容を鞠子以外の女たちへもそれぞれ吹き込んだ。結果、すべての女たちから愛想を尽かされたクズ男は、上京してきた奥方にこってり絞られ、引きずられるようにして東京を去ったという。
「良かったわ、タチの悪い男と別れられて。これで鞠子さんも一安心ね。……ん、まだなにか入ってる?」
封筒に影を認めた環が中をのぞくと、二色刷のチラシと手のひらサイズの紙切れが二枚、都合三枚が出てきた。
「『些少ですが、浅草公園水族館のチケツを送ります。よろしければレヴユーとともにお楽しみくださいませ』ですって。へえ、これが噂の水族館かあ。夕刊で連載してた『浅草紅団』に出てたわ」
浅草公園水族館は、伝法院裏手にある。
明治に建てられたこの水族館は、開業当初は好評だったものの徐々に客足が落ち込み、苦肉の策として二階を演芸場に仕立て客寄せをはかった。専属劇団『カジノ・フォーリー』が結成され、軽演劇やオペレッタ、踊り子たちのレビューなどを上演したところ、話題を呼んだ。中でも座長をつとめる榎本健一の人気はすさまじく、今では急ごしらえの舞台は連日満席の大盛況だという。
環はチケットを手に取った。何の変哲もない白い紙に、片面のみ『カジノ・フォーリー』と印刷されてある。同封されていたプログラムを開くと、これでもかと演目が並んでいる。
「レヴユーにヴアラエテイ、ジヤズダンス……、いろんな演し物があるのね。面白そう、さっそく今日行ってみましょうよ」
軽い気持ちで言った環に、葛葉は黙ってかぶりを振った。
「なんでよ。せっかくチケットをいただいたのに無駄になるじゃない」
「銀座はともかく、浅草は危のうございます」
「また『浅草は危ない』? あんた、前もそうやって行かせまいとしたわね」
実は環にとって、水族館どころか浅草という街そのものが未体験だった。
一般の婦女子には、浅草とは“風紀のよろしくない盛り場”という認識で通っており、環のような良家の子女は寄りつくことも許されない歓楽街であった。
鞠子の依頼を受けたときも、情夫の身辺調査に乗り出そうとした環を押しとどめ、「お嬢さまを浅草になど出向かせるわけには参りません」と、葛葉が代わりに実地におもむいて調べてきたくらいだ。
禁止されれば行ってみたくなる。
秘密のベールとはえてして魅力的で、真実の女神をより美しく見せるものだ。
環はあきらめず食い下がってみた。
「危ないったって、観光客も来る繁華街でしょ。大げさね」
「大げさだなんてとんでもない。よろしいですか、お嬢さま──」
環の言い分には耳も貸さず、葛葉は浅草の暗黒性について、こんこんと語り出した。
助手のお説教は、もはや日常業務の一部である。下手に中途でさえぎると数倍の長さになって跳ね返ってくるので、とりあえず聞き流しておこうと環は判断した。
曰く、昼間は観音参りや花やしきなど、健康的かつ平和な観光地であるが、ひとたび日が落ちると様相が一変する。公園内には無宿人が集まり、『紅団』顔負けのスリや恐喝を行う不良少年少女が出没する。
浅草は、信じられないほど命の価値が低い、一種の無法地帯である──。
ようやくひと段落したのを見計らい、
「だからそれは夜の話でしょ。夜の盛り場が危険なことくらい、あたしにだって分かるわよ。明るいうちに帰ってくれば問題ないってば」
と、うんざりしつつ答えると、葛葉は色をなして反論した。
「その油断がそもそもの間違いなのです。昼間だから安全と高をくくっていれば、かならず痛い目に会います。とくに浅草のように雑多な人間が集まる場所では、お嬢さまのような年若の女性は真っ先に狙われます」
静かだが有無を言わさぬ調子で続ける。
「ぼくは、お嬢さまの身辺警護の任も兼ねております。むやみに危険な場所へお嬢さまを行かせるのは、もっとも避けなければなりません。どうかご自重くださいませ」
「……あんたはさ、あたしがやることは、いちいち反対しないと気が済まないわけ?」
あまりの頑固さに、環もいよいよ臨戦態勢に入った。わざと長椅子の上であぐらをかいてみせる。
案の定「またはしたない格好を」と顔中に大書きした葛葉に向かい、
「あんたって、本当に根性なしよね。さては盛り場が怖いんでしょ? だから行きたくないんだ。違う?」
浅草なんて、今どき子どもだって動物園のついでに遊びに行くわよ、とせせら笑ってやると、果たして眼鏡の上の眉がぐっと寄った。
「身辺警護ですって? 笑っちゃうわね。そんな弱虫じゃ、ボディガードにもなりゃしない。いったいお父さまやお祖父さまは、あんたのどこを買ったのかしら」
ことさら馬鹿にするよう挑発する。
「怖くなどありません」と言わせればこっちのものだ、言質を取ってそのまま浅草へ繰り出してやる。
だが狙いははずれ、どれほど煽ろうと葛葉は「なんと言われようとも、お嬢さまの安全には変えられません」と動じない。腰抜けのくせに、こういうところではヘンに頑固なのがまた気に入らない。
両者の間に、緊迫した空気が流れる。しばしのにらみ合いの後、環はふうと息をついた。
「……分かったわよ、浅草はあきらめるわ。チケットは返送するから。これでいいんでしょ」
しぶしぶ折れた環に、葛葉は女学校の先生みたいな顔でうなずいた。いつもながら憎らしい。
環は長椅子から立ち上がり、事務机に戻った。
机の上に散らばったものと手紙とをまとめて脇に寄せ、スペースを作る。引き出しから便せんを一枚取り出し、謝罪の文面を書き付けた。探偵事務所で使用している新品の封筒に鞠子の宛名を記し、脇に寄せておいたプログラムと紙片二枚、そして新しく書いた謝罪文とを入れ、しっかり封をした。
「じゃあ、これ郵便局に持って行って。その間に、あたしはお詫びの電話を入れておくから」
頼んだわよ、と言い残し、環は机の脇に置いていた住所録を手に取って、先に事務所を出た。一階の受付横に設置された電話室へ入り、受話器を耳に当てる。
しばらくすると、ガラス扉越しにハンチングをかぶった葛葉がやってくるのが見えた。受話器を持った環に向かい頭を下げると、そのままアパートメントを出て行った。
しばし待ったのち、環はかけるふりをしていただけの受話器を戻した。
ヤツは仕事が早い、のんびりしていると戻ってきてしまう。
環は住所録とともに隠し持ってきた紙切れを手に、電話室を出た。タクシーをつかまえようと市電通りに出たところで坂下をうかがうと、葛葉はこちらに背を向け、交差点に立っていた。
完全に姿が見えなくなるまで待っているつもりだったが、折良くのろのろ運転のタクシーがやってきた。空車だったこともあり、思わず呼び止める。運転手がドアを開けるのを待っていると、信号待ちをしていた葛葉にひとりの老婆が近づき、話しかけるのが見えた。
いくつかのやり取りののち、葛葉が振り返る。靖国神社の場所でも訊ねられたのか、坂の上を指さした。
その指先が、大鳥居ではなくタクシーを呼び止めた環に止まる。わずかの間ののち、葛葉はこちらに向かい駆けだした。みるみるうちに距離が詰められてしまう。
──ヤバ、見つかっちゃった!
あわててタクシーに乗り込み、
「早く出して! 浅草へ向かってちょうだい!」
と急き立てて発車させるも、いくらも行かないところで速度が落ち、止まってしまった。運転手は動じることなく「ありゃ、またか」と悠長なものだ。
「なによ、どうしたの?」
「いやね、こないだからエンジンの調子が悪いんですよ。まいったなあ、動いてくれよ」
だからのろのろ運転していたのか。
なにやらガチャガチャ操作している運転手に業を煮やし、
「急ぐから降りるわ、ドアを開けて……」
「──どちらに行かれるおつもりですか、所長」
追いついてドアを開けた葛葉が、車内に身を乗り出してくる。
伯爵令嬢であることを隠しているため、人前では“お嬢さま”ではなく“所長”と呼ぶように言いつけてあるのだ。いや、今はそんなことはどうでもいい。
「えっと、その、さっきの手紙で便せんが切れたのよ。だから伊東屋まで買いに行こうかと……」
「事務用品の在庫は、毎日点検しております。便せんならまだ半分以上あったはずですが」
環の苦しい言い訳を封じた葛葉は、さらに半身を乗り込ませてきた。眼鏡のレンズが、ぎらりと光る。
「これはなんですか?」
「あっ!」
環の手中にある紙切れをもぎ取った葛葉は、一瞥するなり目を剥いた。
「これは……水族館のチケットじゃないですか! どうして……」
そこでひらめくものを感じたのか、郵送しようとしていた封筒を開けた。中を探っていた指が、二枚の紙片をつまみ出す。裏は白紙、表には『二宮探偵事務所 所長 二宮環』の文字。
「こっちは名刺ですか。いつの間にすり替えて……」
先ほど返送用の謝罪文を書いたとき、机に散らばっていた名刺とチケットをこっそり入れ替えたのだ。
「あれほど忠告したのに、どうして嘘をついてまで行こうとするんですか。それほどまでに、ぼくが信用できませんか?」
怖い顔で乗り出してくる葛葉に、環はつい後ずさってしまう。
と同時に、身体が揺れた。シートの下から、断続的な振動が伝わってくる。
「あっお客さん、エンジンかかりましたよ! 浅草でしたっけ、すぐ向かいますから。あれ、お連れさんですか?」
空気を読まず喜ぶ運転手に、葛葉が「かまいません、すぐ降りるので……」と断りかけるのを素早く制し、
「そうよ、連れなの! ほら、早く乗りなさいよ。発車できないじゃないの!」
と、腕をつかんで車内へと引きずり込んだ。
「お嬢……、所長!」
「さー、今度こそ出してちょうだい。急いでね」
「あいよ、飛ばしていきますから!」
江戸っ子口調の運転手は、水を得た魚のごとく生き生きとハンドルを握った。
三
さすがに走る車からは降りられない、無理に止めさせるのも危険だと腹をくくったのか、葛葉はおとなしく座席に収まった。もう小言を言う気力もなくなったらしい。
市電に追いつけ追い越せでタクシーは進み、雷門の前で降りたときにはちょうど昼時になっていた。
「ここまできたら、帰れないわね。だってほら、もう浅草に来たっていう事実は消せないもの」
ほらほら、とハイ・ヒールの爪先で地面を蹴ってみせる。
対する葛葉は既成事実を突きつけられ、渋柿を口に突っ込まれたような顔である。しばしの間ののち「……カジノ・フォーリーだけですよ。いいですね」と、念を押した。
うるさいお目付け役を観念させてご満悦の環は、まずは鞠子の勤め先へチケットのお礼にと立ち寄ることにした。
浅草広小路沿いにあるカフェー『メリイ・ウヰドウ』は、粒ぞろいの女給を多数抱える大型店だ。なんでも、銀座の有名店『ベンガル』と経営元が一緒だという。受付のボーイに聞くと、あいにく今日は非番だそうだ。
「しょうがないわね、また電話でもしておくわ」
店を出ると浅草駅の真上に建つ地下鉄食堂が、炎天下に向かってそびえ立っているのが望めた。大震災で倒壊した凌雲閣に代わる、新たな浅草のシンボルとして、去年の竣工以来多数の観光客を集めているという。
「ねえ、お昼はあそこで食べましょ。東京展望を楽しみながら洋食がいただけるって、『浅草紅団』に書いてたわ」
環がうきうきと指差すと、葛葉は尖塔でひるがえる旗をまぶしそうに仰ぎ見、次いで手許のプログラムに視線を落とし、最後に懐から出した懐中時計のふたを開いた。
「もうすぐ開演ですので、食事はあとにいたしましょう」
「えーっ、せっかく遊びに来たのに! 次の回があるんだから、お昼のあとでもいいじゃないの」
昼食のプランを却下された環が抗議するも、葛葉は意に介さずすたすた歩いて行く。普段は環の背後に控え、決して先に立つことはないのだが、今日に限っては浅草に明るくない環のため、道案内をするつもりらしい。
「次の回は午後三時開演です。帰りが遅くなってはいけませんから、早い回にいたしましょう」
「あんたまさか、『カジノ・フォーリー』だけ見たらまっすぐ帰るつもりじゃないでしょうね?」
おそるおそる訊ねると、その質問自体が意外だというふうに、
「最初に申し上げたとおり、そのつもりですが?」
「次の回を見たって、五時頃には終わるでしょ。五時なんてまだ明るいじゃない。だいたいあんたは、いちいち心配しすぎなのよ」
すると葛葉は、すっと両目を細めた。
あ、来るな、と後悔したが、時すでに遅し。
「重ねて申し上げますが、お嬢さまに危険が及ばないよう気を配るのがぼくの務めです。お嬢さまはぼくをボディガードにもならないとお考えなのでしょう?」
「う……。そりゃ、さっきはそう言ったけど……」
「ならばなおさら慎重を期し、より危険の少ない手段を選ぶべきです」
さっきさんざん扱きおろしたのを、逆手に取って巧みに追い詰めてくる。
反論がないのを確認した葛葉は、ふたたび歩き出した。一方、手持ちの弾をすべて撃ち尽くしてしまった環は、抵抗を止めしぶしぶあとをついていく。
いつかこの、理屈っぽい分からず屋に一矢報いてやる、と心に決めつつ。
雷門の下を抜け、仲見世通りへ出る。
「わあ……すごい!」
観音堂へと続く石畳の両脇に、商店がずらりと軒を連ねる。すっかり機嫌を直した環は、あちこちの店先を冷やかして歩いた。
通りを歩く客は男女比で七対三ほどで、和服が多い。洋服の女性に至っては環ひとりである。
「洋装の人は少ないのね」
「いわゆるモボ・モガと呼ばれる人々は、たいてい銀座に足を向けます。ここはあくまで大衆的な盛り場ですから、客層も庶民的になりがちです」
そう解説する葛葉も着物だ。しかも立襟シャツに着物と袴、足元は下駄履きという、典型的な書生風体である。銀座や丸の内あたりのモダン街を歩かせると、その時代錯誤な格好はかなり悪目立ちするが、なぜか浅草では、それほど浮いて見えない。
浅草は、東京全市を飲み込むモダン化という急流で押し流された、古き良き“日本”が堆積した中州のようなものだ。初めて来るのにどこか懐かしい気がするのも、そのせいだろう。
だから、旧式な葛葉でもこの街では違和感なく溶け込めるのだ。
やがて仲見世の屋根が途切れ、朱塗りの仁王門があらわれた。巨大な赤提灯の下をくぐり、観音堂を右手に見つつ曲がる。
広い公園内には一、二軒の露店が出ているだけで、名物の鳩も観音堂の軒下に避難している始末だ。団十郎の銅像だけが、灼熱の太陽を一身に背負い、頑張っている。
「あっつー……」
パラソルを垂直に掲げて日光の直撃を避けてはみるものの、耐えがたい熱気は地面を立ち上り、全身をじっくりと炙ってゆく。
暑さに辟易した環がパラソルを回したとき、陽炎の向こうに女性の後ろ姿を見た。
青磁色の地に撫子と立涌文様が描かれた着物と、白地に流水紋のお太鼓帯という、品良く涼しげな装い。どこかの令夫人であろうか。レースのパラソルを持って後を追いかけている老女は、お附き女中だろう。
洋装の環と同じく、いやそれ以上に、この場にふさわしからぬ女性だったが、目を引いたのは姿形だけではなかった。
よたよたと追いすがり背後からパラソルをさしかける老女には目もくれず、早足で歩き続けている。
「いやならおまえは先に戻っていなさい。今日こそ正体を突き止めてやるわ!」
「お待ちください、奥さま。どうかお静まりを……」
すると女性は立ち止まり、振り返った。
「おまえ、やけにわたくしの邪魔をするわね。どこまで知っているの?」
「とんでもございません、奥さま。斉木はなにも存じ上げませんし、ましてやお邪魔など……」
「お黙り、この裏切り者!」
必死に弁解する老女を、女性はしたたかに平手打ちにする。
バランスを崩した老女がよろめき、尻もちをついてしまった。手にしていたパラソルがふわりと宙に舞い、独楽のように地面に転がる。
「おまえだけは味方だと思っていたのに……。もう誰も信用できないわね」
女主人の言葉に、老女はへたり込んだまま何度も首を振る。
「滅相もない。わたくしは決して、奥さまを害するような真似はいたしません。ですからどうか、お考え直しあそばして……」
「もういいわ、これ以上虚仮にされるなんて真っ平よ!」
女性はそう叫ぶと、ふたたび右手を振り上げた。
これ以上殴られれば、命に関わる怪我をするかもしれない。環は思わず駆け寄った。老女をかばうよう立ちふさがり、
「ちょっとあなた、乱暴な真似はおよしなさいよ」
と、待ったをかけた。助けられた側の老女が、こわばった顔で環を見上げる。
女性は一瞬鼻白んだが、じろりと環をにらみつけた。
「なんですって? 余計なお世話……」
美貌だが怒りのせいか、鬼気迫る雰囲気をまとっている。
その顔立ちに、見覚えがあった。
──この方、どこかでお会いしたことが……
だが、すぐには思い出せない。環はゆっくり瞬きをした。
すると、その瞬きを合図にしたように蝉時雨がいっせいに降り注ぎ、寒天のように固まっていた環の記憶を揺さぶった。
静まりかえっていた水面が、次第にさざ波立ち、いくつもの泡が生まれては消えてゆく。
泡がひとつ弾けるたびに、思い出がよみがえる。
緑豊かな小石川、『紫衛門』と謳われた紫袴、さんざめく少女たち──。
ひときわ大きな泡が弾けたと同時に、環は思わず呟いていた。
「もしかして、荻久保の瞳子さん……?」
すると、女性がびくりと肩をふるわせた。
「あなたは……」
「二宮ですわ。跡路でご一緒だった、二宮環です」
環が名と出身校を口にすると、女性の表情がみるみる凍り付いていった。環が重ねて「あの……」と言いかけるのを待たずに、彼女は身を翻して小走りに去って行った。
「奥さま、お待ちを……! 失礼いたします、二宮さま」
さっきまでへたり込んでいた老女が、よろぼいつつも立ち上がり、一礼ののち女主人のあとを追っていった。
その場に残された環が、所在のなさに周囲を見渡したとき、目の端に白いものが留まった。
植え込みのそばに優美な半円を描いているそれは、老女が差し掛けていたパラソルだった。
四
ふたりは結局、レビューを見ることなく浅草を後にした。
翌朝新聞を手にした環は、一面広告に『浅草紅団』の名を見つけた。新聞連載から『改造』誌へと発表の場が変わったらしい。
ふう、とため息をついて、昨日のことを思い返す。
荻久保瞳子は、たしかに女学校での同級生だったが、けして仲が良かったわけではない。
同じ華族とひとくくりにしても、堂上華族と勲功華族との間には、底が見えぬほどの深くて昏い溝がある。たとえ本人同士に他意はなくとも自然と棲み分けが出来てしまうし、あえてその溝を跳び越えようとする者もまたいない。
ともあれ瞳子は、高等科の途中で結婚のため中退した。卒業を待たずに結婚するのは、良家の令嬢ならばよくある話だ。
誰もが知る、有名な富豪のお家に嫁いだはず。
ちらり、と環は部屋の片隅に視線を投げた。繊細な刺繍がほどこされた、美しいパラソルが立てかけられている。
耳の奥に、瞳子の声がよみがえった。
振り絞るような、悲鳴に近い声。
『今日こそ正体を突き止めてやるわ!』
『おまえだけは味方だと思っていたのに……。もう誰も信用できないわね』
『これ以上虚仮にされるなんて真っ平よ!』
──誰の正体を突き止めるの? 虚仮にされるってどういうこと? いったい──なにがあったの?
本来ならば、このまま見なかったことにするべきだろう。
誰しも触れられたくない部分はあるものだし、ましてや上流階級に属する人間ならば、そのあたりを見極めて時には知らぬふりする処世術が必要である。だいいち、そこまでする義理もない。
だが──。
環はしばらく考え込んでいたが、思い切って机の上に置いてある『日本紳士録』に手を伸ばした。真っ赤な表紙を開き、記憶を頼りに『東京 アの部(秋)』のページを繰ってゆく。
目的の人物名はすぐ見つかった。
鉛筆で薄く印を付けてから、机の引き出しからまだ半分以上残っている便せんを取り出した。
環が出した手紙には、浅草云々とは書かず、ただ「先日お忘れになったパラソルをお届けにあがりたい」とだけ送った。相手の反応を見たかったからだ。
返事が来たのは、三日後だった。
事務的な真っ白い便せんには余計なことは一切書かれておらず、ただ時候の挨拶と「月曜日においでください」とだけ、簡潔に記されていた。月曜といえば、明後日である。
「お嬢さま、本当に行かれるのですか? 先方からすれば招かれざる客ですよ」
いつものように難しい顔で、葛葉は訊いてきた。
「本当に来てほしくなければ、無視するはずよ。もしくは使いの者を寄越して、手打ちにするかのどっちか。そうはせずに直接会ってもいいってことは、あたしと話をする意思があるってことだわ」
机上に広げた調査票を指ではじき、環は肩をすくめた。
「ま、瞳子さんからオーケーが出てよかったわ。今回ばかりは、直接乗り込むのも無理があるからね。なんたって相手は“あの”秋津家だし」
返事が届く間に、瞳子の嫁ぎ先である秋津家についての下調べは簡単に済ませていた。
秋津家は『明治の生糸王』と異名を取った初代が、極貧から一代で財を築いた豪商であり、現在では日本の繊維産業のトップに立っている。瞳子の夫は圭吾といい、三代目に当たる。
対する荻久保子爵家は、室町時代より続く公卿華族で、血統の良さに限れば日本でも随一だった。しかし、実際は先代が慣れない投資に失敗して莫大な借金を背負い、おまけに後始末もせず亡くなったことで、内情は火の車だったという。
片や卑しい出自の成り上がり、片や由緒だけが取り柄の貧乏公家。
その格差ゆえか、結婚当時は『昭和の白蓮』と、たいそう話題になったそうだ。
「きっと彼女、婚家でつらく当たられたんだわ。そうとしか考えられないもの」
先日の浅草で瞳子は、『これ以上虚仮にされるなんて真っ平だ』と言っていた。きっと、意に染まぬ縁談で嫁いだものの、婚家で辛酸をなめさせられているのだ。
そう力説するも、
「仮にそうだとしても、部外者であるお嬢さまが頼まれもしないのに首を突っ込むのはいかがなものでしょう。それこそ、余計なお世話というものではありませんか」
と、冷血なる助手はかぶりを振った。
「内々の問題ならば、なおさらです。興味本位に突つくのはよろしくありません」
「だーかーらー、本当に関わってほしくないなら、こうやって返事してこないでしょって言ってんの。これは絶対、瞳子さんからのアプローチよ」
「……世の中、皆が皆、お嬢さまと同じ考えとは限りませんよ」
「もー、うるさい! どっちにしても、もうご招待を受けてるんだから行くしかないでしょ。それとも、こちらからお伺いを立てといて『やっぱり止めます』とでもお断りするっての? そっちのほうがもっと礼に欠けるじゃないの!」
どん、と机にこぶしを打ち付け、とどめの一撃を食らわせた。
「あんたがなんと言おうと、あたしは行くから。いいわね!」
五
明後日、環はワンピースと麦わら帽子を戦闘服に、両手に手土産の洋菓子とパラソルを抱えて、目白方面へと円タクを走らせた。
瞳子の嫁ぎ先である秋津邸は、神田川を望む高台にある。
長々と続いた塀がようやく途切れたところで、正門に到着した。重厚な門扉をくぐり、緑豊かな小径をしばらく進むと、本邸が見えてきた。その偉容たるや、今や保険会社の社屋となり果てた旧鹿鳴館を彷彿とさせるものだった。
車寄せに入り、円タクを降りる。待ち構えていた家令らしき初老の男が、うやうやしく頭を下げた。
玄関扉の向こうには、藤色の地に水車と萩が描かれた絽の着物を身にまとった瞳子が立っていた。つややかに結われた丸髷も相まって、清楚な若妻そのものだ。
だがその表情は、使用人の手前か笑みを作ってはいるが、濡らして貼り付けたように硬かった。
「ようこそ、お待ちしておりましたわ。さ、どうぞお入りになって……」
そう言いかけた瞳子の視線が、環の後ろに控える葛葉に止まる。
「こちらは?」
「二宮の書生で、葛葉という者です」
「まあ……、書生さん? どうして?」
紹介すると、瞳子は首をかしげた。
彼女の疑問はもっともだ。
女性のお附きは同性が基本である。書生はおもに家長の、もっといえば“家”に仕える身分であり、環のような未婚の令嬢に付き従うことは、まずありえない。
瞳子には家出の件や探偵稼業のことは秘密なので、彼が助手も兼ねているとは明かせない。環はとっさに言い訳をした。
「ええ、その……。実はわたし、社会勉強として自活していますの。それで、護衛も兼ねて父が寄越したんです」
間違ってはいない。むしろ、八割方合っている。残りの二割はちっとも護衛になっていないので、差し引いておいた。
すると瞳子は感心したように、
「まあ! 二宮さん、おひとりで生活なさってるの? そういえば、住所もアパートメントになっていたわ。よくお家がお許しになったわね」
「はあ、それは……」
「軍人さんのお宅だと、そのあたりも寛容なのかしら。うらやましいわ」
「…………」
意図的なのか否かは分からぬが、微細なトゲがちくりと刺さる。しかしここで対抗しては、今後の作戦に支障が出るため、環は気づかぬふりを通した。
「堀内、こちらを供待ち部屋へ」
瞳子が傍らの家令に命じると、堀内と呼ばれた初老の男は「かしこまりました」と応じ、葛葉を玄関脇の小部屋へと案内した。
「え、あの……」
いきなり助手と引き離された環がつい声を上げるが、今は“探偵”ではなく“伯爵令嬢”の立場であることを思い出し、伸ばしかけた手を引っ込めた。葛葉も承知の上か、軽く頭を下げて家令の開けたドアをくぐってしまう。
見慣れた背中が厚いドアの向こうへ消えてしまうと、妙に心細く思えた。しかしすぐに、気を取り直す。
──別に、あんなヤツいなくたって平気だわ。これまでずっと、ひとりで依頼を解決してきたんだもの!
これはチャンスだ。
あれこれうるさく口出ししてくるお目付役に「あんたなんて用無しよ」と宣言し、ていよく追い出せる絶好の機会なのだ。
そう決意を新たにした環は、瞳子に見えないところで堅く拳を握った。
通された応接室は、息を呑むほど贅沢なしつらえだった。優美な調度品や雰囲気から察するに、女主人専用の応接室らしい。
薦められたソファーに腰を下ろす。瞳子は大理石のテーブルを挟んだ反対側に着席した。
そこへ、茶器の載った盆を手に女中が入ってきた。客間女中にしては年嵩だな、と思いきや、茶を淹れていたのは例のお附きだった。平静を装ってはいるが、手許が妙に震えている。
薫り高い紅茶をすべて注ぎきったのを見計らい、
「斉木、わたくしが呼ぶまで下がってなさい」
と、瞳子が告げた。斉木と呼ばれた老女は一瞬の絶句ののち、
「奥さま、それは……」
「いいからお下がり」
にべもない女主人に、斉木はまだなにか言いたそうにしていたが、結局すごすごと退室した。
ふたりきりになった途端、重苦しい沈黙が室内を包む。
出された紅茶をひとくちいただいてから、環は持参したパラソルを差し出した。
「これ、お忘れになったでしょう。お節介かと思ったけれど、放ってはおけなくて……」
瞬間、瞳子の頬がひくりと引きつった。だがすぐ元に戻り、
「ああ……、よろしかったのに。お手を煩わせて申し訳ないわね」
と、パラソルを受け取り、ソファーの縁へ無造作に立てかけた。
あえて浅草云々とは言わずにおいたが、彼女のほうでも触れてこなかった。
ふたたび沈黙がおとずれる。サイドテーブルに置かれた最新型の扇風機が、気まずいふたりを交互に眺めていた。
普段は相手が誰であろうとガンガン押していく環だが、猫をかぶっていたころ──しかも、特別仲がよくなかった──知り合いとなると、どうも尻つぼみになってしまう。どうやって会話をつなげるか模索していると、
「ご無沙汰でしたわね。丸二年……かしら」
と、瞳子のほうから話題を振ってくれた。
「そうね、瞳子さんはたしか四年生で学校をお止しになったから、そのくらいになるわね。学校もいろいろ変わったそうよ、今年から制服が洋装になったとか、来年には大塚に移転するとか」
「……二宮さんも、ずいぶんと変わられたわ。失礼だけど、どなたかすぐには気づかなかったもの」
瞳子の視線が、環の肩の辺りに止まっている。「ああ、これ?」と、あご下で切りそろえた断髪をつまんで見せた。
「毎日結う必要がないから、楽でいいのよ。とくにこの時期は、涼しくて快適なの。一度慣れてしまうと、もう耳隠しには戻れないわね」
すると瞳子は、古風な丸髷をわずかに揺らした。
「お父さまやお母さまには、反対されなかったの?」
着替えれば済む洋装とは違い、一度切ってしまえば取り返しの付かないのが断髪だ。モダン東京広しといえど、断髪女性はまだまだ少ない。
「相談する前に切ってしまったの。だって先に話したら、絶対反対されるのが分かっていたもの。今ではもう諦めているわ」
そう肩をすくめると、瞳子はすっと目を細め、
「……ひとり暮らしに断髪、か。あなたはいいわね、自由で」
とつぶやいたが、すぐにはっと我に返ったようすで背を伸ばし「やっぱり陸軍さんだと、気風が自由なのかしらね」と、わざとらしく付け加えた。
やはり、どこか妙だ。
環は慎重に言葉を選んだ。こういう忍耐力を伴う駆け引きは苦手分野なのだが、文句も言っていられない。
「遅くなったけれど……、ご結婚おめでとう」
ありふれた祝いの言葉だったが、なぜか瞳子の全身が、ぎくりとこわばった。
まるで不正を暴かれた罪人のように。
「ご主人は、どんな方なの? お優しい?」
環はマントルピースに飾られた写真立てを見やった。床の間を前にして、モーニングを着た花婿と椅子に座った角隠し姿の花嫁が写っている。
花婿は、宿敵を前にしたようにこちらを睨んでいる。かなり強面の人物だ。
対する花嫁は、モノクロ写真でも分かるほど豪奢な衣装を身につけていた。表情は──乏しい。
黄金の額縁に彩られた、幸せな婚礼写真。
だがなぜか、環はそこに空虚さを感じとった。
「……さあ、どうかしらね」
ぼそりとつぶやいたきり、そのまま黙りこくってしまった。開け放たれた窓から、生ぬるいそよ風と大音量の蝉の声が飛び込んでくる。
あまりにも長い沈黙に環は思わず、
「瞳子さん……。ご結婚なさって、お幸せ?」
と、訊いてしまった。
口にしてから、いきなり踏み込みすぎたか、と後悔したが、もう遅かった。着物の膝に揃えられた瞳子の両手が震え、ぐっと強く握られる。
「……幸せ、ですって?」
ふっと瞳子は笑った。自嘲とも取れる笑みだった。
不安を感じた環は、「なにがあったの……」と声をかけようとした。しかしそれは、
「あなたには、分からないわ」
というつぶやきでさえぎられた。顔を上げ、今にも涙があふれそうな目で環をにらみつける。
「あなたには、わたくしの気持ちなんて分からないわ。お父さまやお祖父さまがご健在で、好き勝手に遊んでいられる、恵まれたあなたになんて決して分かりっこないのよ!」
それまで静かだった瞳子の突然の豹変ぶりに、さしもの環も狼狽した。
「どうしたの、急に……」
がたん、と席を立ち、瞳子はするどく手を打った。
「斉木、二宮さんがお帰りよ。お支度をしてちょうだい」
「待ってよ、そんな一方的に終わりにしないで!」
しかし瞳子は環の言葉に耳も貸さず、「早くなさい!」と大声で呼びつけた。
控えめなノック音ののち、斉木がおずおずと顔をのぞかせる。
「お呼びでしょうか、奥さま……」
「待ってったら!」
短気なことでは自信がある環は、瞳子を追い越して開きかけたドアを思いっきり閉め、背を預けて開かないようにする。
背中でドアをふさぐ環の前に、瞳子が立った。
「わたくしが幸せな花嫁? 世間ではそんな見方をしているの? だったらわたくしはとんだ笑いものね」
両の目尻がつり上がり、真っ赤に充血している。
色を喪うほどきつく唇をかみしめ、環を正面からにらみつけた。
「……あなた、本当はわたくしを笑いものにしにきたんでしょう」
「え?」
「知ってるのよ、みんな口ではいろいろ言うけど、腹の中では面白がって惨めなわたくしを笑いものにしているってね。さぞかし愉快な喜劇でしょうね」
「なに言ってるの、そんなつもりで来たんじゃないわ」
それに、瞳子を惨めだなんて思ったことはない。
そう続けようとした環の肩が、がっちりとつかまれる。細い指が肩に食い込み、鋭い痛みが走る。
瞳子は血走った目で環をにらみつけ、つかんだ肩をがくがくと揺さぶった。、
「嘘ばっかり! みんなして、わたくしのことを馬鹿にしているくせに!」
これは──。
あのときと、同じだ。
先日浅草で目撃した取り乱した瞳子の姿が、絶叫が、よみがえる。
『これ以上虚仮にされるなんて真っ平よ!』
環の耳に残る叫びをかき消すように、瞳子は喉が破れそうなほど悲痛な声で、
「どうして、わたくしばっかりこんな目に──……!」
「瞳子さん!」
怒りで紅潮している瞳子の頬を、環はおのれの両掌ではさんだ。手のひらを通して、火照りが伝わってくる。
一言一句、刻むように告げる。
「落ち着いて。あたしはあなたを、馬鹿になんてしてない」
すると、それまで恐慌状態だった瞳子が、びくりと動きを止めた。悪夢から覚めたように、
「あ……」
「あたしたち、二年ぶりに会ったのよ。なにをどう知ってるっていうのよ」
環の手のひらで押さえられた火照りが収まるにつれ、瞳子の目尻に雪解け水のような涙が浮かんでくる。
「どうしてそんなふうに思うの? どうしてあたしだけじゃなく、みんながあなたを馬鹿にしてるって思うの?」
「……それは……」
言いよどむ瞳子の頬から手を離し、代わりに真正面からのぞき込んだ。
「──よかったら、話してみて。もしかしたら、力になれるかもしれない」