倫敦《ロンドン》の悪魔 ※試し読み※

やあ、ボス

 警察は俺を捕まえたと吹聴しているが、やつらはまだ見当もつけてねえ。
 偉そうに手がかりは掴んでるとしゃべっているのを聞いて、笑わせてもらったぜ。
 レザー・エプロンが真犯人なんざ、悪い冗談だね。
 俺は売春婦が大嫌いでな、捕まるまで切り裂くつもりだ。
 こないだのは大仕事だったぜ。レディには悲鳴すら上げさせなかったからな。
 捕まえられるもんならやってみな。俺はこの仕事が好きでたまらねえんだ、また再開するぜ。
 あんたらはもうすぐ俺の楽しいゲームを耳にするだろうよ。
 (後略)

──切り裂きジャックからの手紙




     一

一八八八年十一月二十八日付/ニューヨーク・トゥデイ誌
【切り裂きジャック──大英帝国の暗い影──】
 一八八八年秋以来、英国は底知れぬ恐怖に震えている。
 ロンドン東部、貧民街として悪名高いイーストエンド・ホワイトチャペル地区にて、一八八八年八月末から約三ヶ月間に相次いで売春婦が殺害されるという、前代未聞の事件が起こった。
 以下は、同一犯と思しき者の手による被害者たちである。

  一八八八年八月三十一日……メアリ・アン・ニコルズ(四三)
  一八八八年九月八日…………アニー・チャプマン(四七)
  一八八八年九月三十日………エリザベス・ストライド(四四)
  一八八八年九月三十日………キャサリン・エドウズ(四六)
  一八八八年十一月九日………メアリ・ジェーン・ケリー(二五)

 被害者はいずれも喉元を鋭利なナイフ状の凶器で切り裂かれたのち腹部を切開、一部の臓器が持ち去られていた。特筆すべきは五人目の被害者メアリ・ジェーン・ケリーで、彼女の遺体はもはや肉塊と化し酸鼻を極める状態だった。まさに悪魔の所業と言えよう。
 また、複数の犯行声明が各方面に届いており、署名はいずれも『ジャック・ザ・リッパー』となっていたが、すべて筆跡が違うため当局では愉快犯による悪戯であると見ている。


 犯行は真夜中の往来であったため犯行現場を目撃した者はほぼ皆無で、数少ない目撃証言を元に手配書を配布してはいるものの決定的な容疑者は挙がらず、スコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)の捜査は難航した。
 ヤードでは昼夜を問わず現場付近に警官を配置し警戒を強めたが、殺人鬼はどういうわけか水も漏らさぬ包囲網をいともあっさりとくぐり抜け、次々に売春婦を手にかけていった。
 有力な犯人像としては、ユダヤ人をはじめとする移民、ロンドン・ドッグに寄港する外国船船員、食肉業者、外科医などが候補に挙がっている。
 また、犠牲者の肉体に陵辱の痕跡がないことから、犯行の目的は性的衝動ではなく純粋に売春婦の殺害であると考えられている。
 いずれの事件も、人体解剖がごく短時間で行われていたことを考慮すると、ある程度の解剖知識を有した者である可能性が高い。また、迷路のごとき貧民窟を大量の返り血を浴びた状態で警官に見つからずに逃げおおせていることから、犯人はイーストエンド近辺に在住もしくは地理に詳しい人物と思われる。
 この記事を執筆している現在、真犯人は未だ逃走を続けており、ロンドン市民はこれからも眠れぬ夜が続くであろう。


『世界の工場』大英帝国は、産業革命により大幅な経済成長を遂げ、インドやオーストラリアなどの植民地を着実に増やし、その結果多くの富裕層を生み出した。
 しかしその影には、機械により家庭内手工業を奪われた労働者、大量に輸入される外国産の野菜や穀物で大打撃を受けた農民、そして貧困にあえぐ失業者たちが次から次へと流入した、日も差さぬ貧民窟の存在があった。事実、ホワイトチャペルをはじめとするイーストエンド一帯は、世界に類を見ないスラム街と化している。
 先の見えない閉塞感にとらわれた貧民たちは、自分たちを踏みつけにしておいて素知らぬ顔をしている特権階級を恨みつつ、安く質の悪いジンと扇情的なゴシップ誌とでささやかな憂さ晴らしをしていた。
 その混沌たる社会情勢が生み出したのが、かの『切り裂きジャック』だったのではないか。
 憎むべき凶悪殺人鬼は、大英帝国のかかえる矛盾を切り裂き、格差社会という名の腐敗した膿をロンドン中に露呈したのである。

──本紙ロンドン特派員/ウォルター・スタンフォード




 ウォルター・スタンフォードは足許に荷物を置き、空を仰いだ。
 紺碧の空と真っ白な帆布の対比は、印象派の絵画を見ているようだ。霧とスモッグで覆われた息苦しいロンドンとは大違いである。
 清冽な潮の香りを胸いっぱいに吸い込んだウォルターのもとに、同じく荷物を担いだ青年がやってきた。
「俺たちの乗る船はどれかな」
「あれじゃないか。ほら、船体に名前が書いてある」
 そう指差すと、彼──ダニエル・ヒューズはにっと笑った。
 ともすれば人を食ったような印象を与える笑みだが、ダニエルの場合は彫刻のように整った顔立ちと育ちの良さをにじませる雰囲気とで、悪感情は持たれにくい。むしろ、人懐っこささえ感じられるほどだ。
「ウォルター、大切なひとに別れは告げてきたかい?」
「支局長と貸長屋の大家と、行きつけのパブのマスターには挨拶してきたよ」
「俺が言ってるのはそんなんじゃない。まったくきみはつまらないな」
 ダニエルのあきれ声にかぶさるように、けたたましい嬌声が聞こえてきた。いずれも着飾って厚化粧をした、若い女たちだった。
 立ちのぼる香水と脂粉のにおいに圧倒され、ウォルターは思わずあとずさりした。
「ダニー、もう行ってしまうの?」
「ひどいわ、今度コヴェント・ガーデンに連れてってくれるって約束したじゃない」
 口々にしゃべる女たちにしがみつかれ、ダニエルはまあまあとなだめた。
「俺もきみたちと別れるのは辛いんだ。落ち着いたらニューヨーク行きのチケットを送るよ。ぜひ遊びに来るといい」
「本当? あたし、メイシーズに行ってみたかったんだ」
「かならずよ、ダニー。約束だからね」
「はいはい」
 人好きのする笑みを絶やさぬまま女たちにそれぞれキスをし、出航時間が迫っているから、とウォルターの腕を引っ張ってその場を立ち去った。残された女たちはハンカチを振りながらふたりを見送る。
 腕をつかまれたまま、ウォルターはたずねた。
「本気でチケットを送るつもりなのか」
「まさか。ああでも言わないと解放してくれそうにないからな、嘘も方便ってやつだ」
「……言葉の使い方が間違ってるぞ」
 人混みをすり抜けて桟橋を渡り、チケットを渡して船内に入る。
 会社が経費で取ってくれた部屋は第三デッキ内の二等室、同室者は四人でうち二人がベッドに寝そべっている。
 ダニエルが陽気に挨拶をするが、一人は肩越しにこちらをちらりと見、もう一人は寝ているのかふりをしているのか返事がなかった。
 荷物を置いたふたりはそれぞれ手帳と万年筆を取りだして上着のポケットへ突っ込んでから、キャビンを後にした。
 廊下の丸窓から外を見るとすでに出航が始まっており、大英帝国は文字通り海の向こうへとかすんでいた。


 一八八八年の十一月も、終わりに近づいていた。
 ニューヨークに本社を持つ大衆紙『ニューヨーク・トゥデイ』紙の記者であるウォルターは、同い年の相棒ダニエルとともに一年間のロンドン特派員生活を終え、リヴァプールからニューヨークへと向かう蒸気船へ乗り込んでいた。
 まとめ上げた記事の原稿と大型の荷物は、すでに本社へと送ってある。あとは手荷物とともにのんびり船旅を満喫するだけだ。ダニエルは男ふたりの船旅など楽しみようがないとぼやいているが。
 ふたりは暇つぶしに、船内をうろつくことにした。壁を伝いつつ狭い廊下を歩くうち、急に視界が広がった。吹き抜けになっており、階下はエントランスホールになっている。
 大西洋間の定期連絡船ということで、金持ち御用達のクルーザーほど豪華ではないが、一昔前の貨物船ほど劣悪でもない。良心的な乗船料と快適なスピードが売りの、典型的な中級客船だった。
 乗客はいずれも一等ないし二等室だろう、それなりにきちんとした身なりをしている。
 行き交う人々を見下ろしつつ、ウォルターは言った。
「ダニエル、ああいう女性と付き合うのはやめたらどうだ」
「ああいうって?」
「ロンドンで言うところの『街角の姫君』さ。こちらに来てからずいぶんと遊んでいたじゃないか。きみくらいの好男子なら、もっときちんとした女性とお付き合いできるのに、なにも春を売る女を相手に選ばなくても」
 気まぐれでやや軽薄なところを除けば、容姿は申し分なく立ち居振る舞いも洗練されたダニエルは、未婚既婚貴賎を問わず女性にもてた。彼の下宿に恋文が山ほど投げ込まれていたことも、また逢い引きと称してさまざまな女性と夜の街に消えていったことも、ウォルターは知っている。
 ウォルターの進言を、ダニエルは笑い飛ばした。
「その『きちんとしたお付き合い』ってのが、まず俺には気が重くてね。相手の両親にお伺いを立てて、シャペロンに監視されつつお茶を飲んだりなんて気詰まりじゃないか。だから、ああいう女たちと遊ぶのがいちばん気楽でいいんだよ」
「しかし、結婚するならいやでもそうするしかないだろう」
「いずれはね。だが俺たちはまだ二十五歳だ、しかるべき家柄のレディを妻に迎えて“リスペクタブル”な生活をさせてやれるだけの財力には及ばないし、家庭に落ち着くにも早いさ」
 もっともらしい屁理屈を並べているが、ようは束縛のない独身生活を謳歌したいということだ。
 苦い顔を見せるウォルターに、ダニエルはにやにやと笑いながら、
「本当に堅物というか、生真面目というか。きみだって自覚がないだけでけっこう人気があるんだぜ」
「まさか」
「きょう見送りに来ていたシャーリー、彼女はきみのことが気に入っていたんだ。時々声をかけられただろう? しかしきみがあまりにそっけないからあきらめたんだとよ。せっかく後腐れがない女なんだから、存分に遊べばよかったのに」
「あいにくだが、あの手の女性はどうも苦手なんだ」
「野良猫より娼婦の方が多いホワイトチャペルに住んでいたくせに、潔癖にもほどがあるぞ」
「住んでいたからこそ、だよ」
 ウォルターは盛大にため息をつきながら答えた。
 そんな彼をダニエルは、笑みを絶やさぬまま眺めていた。

     二

「夕飯はすませたし、これからどうする?」
 ウォルターの問いに、ダニエルは愛用の手帳をひらつかせた。
「俺は船の探検に出てみるよ。なにか興味深いネタが落ちてるかもしれないから」
「……またそれか」
 彼は暇さえあれば国内外の推理小説を読み漁り、自身もまた探偵の真似事をしていた。
 とはいえそれは本当に真似事で、例えば新聞沙汰になった殺人事件の犯人を考えてみたり、取材にかこつけて知り合いの警官から詳細を聞き出したり、また友人や同僚の記者を集めて討論してみたりする程度であり、実際に依頼を受けて調査するわけではなかった。
 いつか訊ねてみたことがある。
「そんなに事件を解決したいなら、警官か探偵になればいいのに」と。
 しかし当のダニエルは鮮やかな赤毛を指でもてあそびつつ、さらりと答えたのだ。
「あくまで趣味だからいいんじゃないか。飯の種になると負担になる。万が一犯人がはずれても誰も困らないし、責任も取らずにすむ」
 そして続けて、
「俺が新聞記者という職業を選んだのはそのためだよ。記者なら常に新しい事件に遭遇できるし、事件現場をうろついていても不審がられない。おまけに情報も手に入りやすいとくる。趣味を兼ねるにはもってこいだ」
と笑ったものだった。
 ダニエルの実家は金融業を営む豪商であり、本来なら新聞記者のような時間に拘束される厳しい職業に就く必要はない。
 ウォルターはそんな彼の言い分をすべて認めたわけではないが、一方で同意できる部分はあると考えていた。
 ともあれ、確かに誰に迷惑をかけてはいない。
 あえて言うならば、探偵ごっこにしょっちゅう付き合わされるウォルターが困るくらいだ。
「外界と遮断されたこの船は、いわば巨大な密室みたいなものだ。それに、これだけたくさんの人がいれば、すねに傷を持つ奴のひとりやふたりは乗り合わせているだろう。どうだ、なにも起こらない方が不思議じゃないかい?」
「小説じゃあるまいし、そんなに都合良く事件が起こるとは思えないけどな。まあ、好きにすればいいさ。ぼくはちょっと外の空気を吸いたいから、甲板に出てくるよ」
「ああ。また後でな」
 そう言ってウォルターはダニエルと別れ、甲板への出口へと向かった。


 外へつながる扉を開けたとたん、強烈な冷気と潮の匂いとがぶつかってきた。
 もうじき十二月、ただでさえ高緯度を航行中ということもあり、まさしく身を切られるような寒さだった。おまけにひどい強風で、揺れも感じるほどである。
 この寒空の中では、外の空気を吸うどころではない。そう思い引っ込もうとしたとき、目の端でなにかが動いた気配がした。
 すでに日も暮れ外は真っ暗で、船内から漏れた灯りだけが甲板に落ちているだけだ。
 ウォルターは暗闇の向こうに目を凝らした。
 声がする。
 男の大声と、風に吹き散らされそうな女の声だ。
 なんとなく足音を立てぬよう静かに歩き、声のする方に近づいてみた。
 暗闇の中、ふたつの影がもみ合っていた。耳を澄ますと、どうやら男がいやがる女をしつこく誘っているらしい。
 ウォルターはしばし考えた。
 助ける義理はない。しかし見過ごすのも寝覚めが悪い。船員を呼びに行こうにも、この時間だと待機室あたりまで走るはめになる。荒事は好まないが、見てしまったからには知らぬふりはできそうにない。
 ウォルターは意を決し、わざと足音を立ててふたりに近づいた。
 強いジンの匂いが鼻をつく。女の腕をひねり上げている労働者風の男は、かなり酔っているようだ。
「失礼、ぼくの連れになにか用でも?」
「ああ? 誰だあんた」
 いきなり現れた邪魔者に男は敵意もあらわにうなるが、酔いのせいか上体がふらつき呂律は限りなく怪しい。近くで見れば背丈も二インチ近く低いし、これなら投げ飛ばされる心配はないだろう。
 勇気を得たウォルターは、女の腕をつかむ男の手を振り払い、強引にふたりの間に身体を割り込ませた。
「すまなかったねシャーリー、ひとりにして。さあ行こう」
「──ごめんなさい、あなた。迷ってしまったの」
 さっき聞いた名前を適当に口にすると、女はとっさに機転を利かしたのか、ウォルターの言葉に応え寄り添ってきた。まだなにか言いたげな男からかばうようにして、女とともに甲板を後にする。
 廊下へ入ってドアを閉めると、女はうつむいて深いため息をついた。
「お怪我はありませんか」
 声をかけると、女は顔を上げた。
「ええ、大丈夫です。海を見ていたらあの方がしつこく声をかけてこられて、困っておりましたの」
「そうですか、それは……」
 そう言いかけたウォルターは、女の顔を見て絶句した。
 すみれ色の瞳は深く澄んでおり、ダークブロンドの髪はきちんとまとめられている。
 服装は真っ黒のドレスにこれまた黒いボンネットというもので、まだ若く、顔立ちは完璧なまでに整っていた。
 ぼうっと見惚れるウォルターを、女は困り顔で見上げてくる。
「あの、なにか……」
「あ、すみません」
 己の非礼に気付いたウォルターは、あわてて彼女から視線を外す。
 しかし胸はかつてないほど波打っていた。
「本当にありがとうございました。助かりましたわ」
「いや……。お役に立ててなによりです」
 ウォルターが視線をそらせたまましどろもどろに答えると、女はもう一度礼を言い会釈すると、落ち着いた足取りで去っていった。
 小さくなる後ろ姿を呆然と眺めていたウォルターは、いまだ静まらぬ鼓動を持て余していた。


 部屋に戻ると、なにやら熱心に手帳に書き込みをしていたダニエルが、ウォルターの顔を見るなり一気にまくし立ててきた。
「ウォルター、聞いてくれ。エントランスをぶらぶらしていたら、ある男が目に付いたんだ。その男の人相はこうだ。『白人男性、黒髪に黒い眼、まばらな口ひげに黒コートを着て医師風バッグを抱えていた』。きみ、これと似た格好の男に覚えはないかい」
 ダニエルに問われるも、夢見心地のウォルターは上の空で答えた。
「さあ、思い当たらないな」
「『切り裂きジャック』だよ、『切り裂きジャック』! ヤードが手配した人相書きとぴったり一致するじゃないか!」
「ああ──」
 駐在期間の後半、ロンドンではその話題で持ちきりだった。
 むろん探偵趣味のあるダニエルが放っておくはずもなく、自分の仕事をよそにウォルターの取材についてきたりと、真犯人捜しに熱中していたのだ。
「その男、エントランスの片隅でずっと行き交う女たちを見ていたんだ。人相といい、いよいよ怪しいと思うね、俺は」
「まだ決まったわけじゃないだろう」
「ああ、だが可能性はある。この船旅、退屈しなくてすみそうだ」
 興奮を隠そうともしないダニエルの様子に、ウォルターは苦笑した。
 すると彼は唇をぐいと曲げ、
「きみこそ担当だったくせに、気にならないのか?」
「そりゃあ気になるよ。あれだけ残忍な犯行を重ねたあげく、まんまと逃げおおせたやつだ。できることなら自分の手で一面を飾ってやりたいさ」
「そのわりには熱が入ってないな。なにか他に興味を引かれることでもあるのかい?」
 なかなか鋭い指摘である。
 ウォルターはさっきの出会いのことを話そうと思ったが、やめた。
 恋多きダニエルならば、女ひとり酔漢から助けたくらいで大げさな、と言いそうだったし、なによりも今は自分の胸に秘めておきたかったのだ。
「いや……別に、なにも」
「本当か? まあいいや。見てろよ、明日からあの男を詳しく調べてやるぞ」
 歯切れの悪い返事に、ダニエルは一瞬疑わしそうな目を向けたが、すぐに自身の発見した連続殺人事件の容疑者へと興味が移ったらしい。ひきつづき手帳に書き込みをはじめた。
 ウォルターは帽子と上衣を脱いでタイをほどき、二段ベッドの上段へ登って寝転がった。
 雰囲気から推測すると、いやしからぬ身分の女性のようだ。服装もきちんと観察していないが少なくても乱れた感じはない。どんな目的でアメリカへ行くのだろう。
 黒衣に黒のボンネットとなると、彼女は喪服を着ていたことになる。アメリカ行きと何か関係があるのか、どうか。
 切り裂きジャック事件の今後の行方が気にならないわけではないが、今は先ほどの女性の方がずっと心に残っている。
 こんな気持ちになったのは、はじめてだった。
 ウォルターは戸惑いを打ち消すようにごろりと寝返りを打ち、目を閉じた。
 気になるのは、単なる好奇心からだろうか。
 真実を突き止めたいという、新聞記者特有の探求心からだろうか。
 それとも──。
 まぶたの裏に、あのすみれ色の光がよみがえるようだった。

     三

 翌日、ダニエルは昼食を終えるなり昨夜見た男を捜しに行くと言い出し、当然のようにウォルターも付き合わせた。普段なら面倒だと思うところだが、ついでに自分も人捜しができそうだったので、黙ってついていった。彼が見つけたという“切り裂きジャック候補”にも興味があった。
 広い船内をくまなく見て回る。しかしダニエルの見た男もウォルターの捜す女も、どこにもいなかった。
 当然と言えば当然、名前も部屋番号も分からない人間を、何の手がかりもなしに捜しているのだ。見つかればそれこそ幸運というべきだろう。
 やがて歩き疲れたふたりはエントランスホールのソファに腰掛け、行き交う人々を眺めた。
 身なりのよいミドルクラスの乗客以外に、昨日はいなかった三等室らしき客の姿もちらほら見受けられる。この船の最下層デッキには、主にヨーロッパからの移民たちが乗船していた。
 彼らのほとんどは貧困や迫害から逃れてきた難民であり、同じ移民でも資金に余裕のある者は二等以上の部屋を取るのだ。
 彼らのようすを見つつ、ダニエルはつぶやいた。
「やれやれ、このままいくとアメリカには世界中の人種が集まることになるぞ。さしずめ人間の万国博覧会ってとこかね」
「入国を規制する法律が検討されているらしいな」
「今だって犯罪者や精神異常者は入国禁止だろう」
「ああ、しかし近いうち対象は娼婦や病人全般にまで及ぶらしい。そのうち中国や日本からの移民も排除されるんじゃないかって話だ」
 ウォルターの言葉に、ダニエルは背もたれに身を沈め鼻を鳴らした。
「いかにもお偉方の考えそうなことだな。まあこれまでが受け入れすぎだったんだし、ちょうどいい機会かもしれないな。どうせ今ごろ移住してきても、チャンスはないに等しいんだから」
 前世紀ならともかく、現在のアメリカは土地も市場も開拓され尽くされ、ツキが回ってくることはまれである。『新大陸に降り立った時点で、誰もが平等にスタートラインに立つ』なんてのは広告会社の宣伝文句で、現実には行きの船の中で彼らの将来は決定しているも同然だった。
 そのとき、ダニエルががばっと身を起こした。ある一点を見つめている。
「どうした?」
「いたぞ、あの男だ!」
 そう言うやいなや、ダニエルは席を立った。
 どこへ行くのか聞かなくても分かる。あとをつけるのだ。
 乗りかかった船である。ウォルターもまた立ち上がり、連れ立って男が立ち去った方へと向かった。
 しばらく尾行すると、男は右手に折れた。
 見失うまいと追いかけると、その先には喫煙室があった。
「どうする?」
「どうするもなにも、絶好のチャンスじゃないか。ウォルター、すまないが俺の荷物の中からパイプを取ってきてくれ。青のケースに入ったやつだ」
「わかった」
 ウォルターはうなずくと、キャビンへと駆け戻った。
 ダニエルの鞄を引っかき回し、パイプケースを取った。テーブルの上にマッチがあったので手を伸ばしかけるが、思うところがあるのでやめておく。そのまま引き返した。
 ダニエルはウォルターが持ってきたパイプを手に、何食わぬ顔で喫煙室へと入っていった。
 ウォルターはこれでお役御免かと思いきや、腕をつかまれ一緒に連れて行かれた。同席せよということらしい。
 ダニエルは男の席からひとつ空けた椅子に腰掛け、ウォルターはその席に直角になるようしつらえた椅子へと座った。
 雑談を交わしながらさりげなく観察する。
 新聞を開いている男の特徴は昨日聞いたとおり。彼は一度ちらりとこちらを見たが、ふたり連れだと分かるとまた新聞に目を落とした。
 男が読んでいるのはイギリスの有名紙で、一面の見出しは【スコットランド・ヤードの新任警視総監、切り裂きジャック逮捕に意欲を示す。有力な犯人像を示唆】となっていた。記事の内容を確認したい欲求に駆られたが、今は無理そうだ。
 ダニエルがパイプに葉を詰めてからくわえる。マッチを探すふりをしばらくしたのち、声をかけてきた。
「きみ、マッチを持っていないか?」
「悪いが、ぼくはタバコをやらないから持たないんだ」
 わざとらしい芝居を交わしたのち、ダニエルは隣の隣に座る男に声をかけた。
「失礼、火を貸していただけませんか」
 ダニエルが取材対象への接触を試みるとき、たまに使う小道具がこのパイプであった。
 パプなどで使うことが多く、ウォルターも彼が使っているところを何度か目にしている。
 今回もごく自然に声をかけたようだったが、男は大げさに肩をそびやかした。
 あまりの驚きように、腹に一物あるダニエルもまた動揺したらしく、今さらのように言い訳をした。
「あの、マッチをなくしたようで……」
「は、あ、いや。ちょっと待って下さい」
 男はせかせかとポケットからマッチの小箱を取り出し、ダニエルの方に差し出してきた。
 彼は中から一本引き抜き、火を付けた。
「ありがとう。ところで、どちらからいらしたんですか?」
 マッチを返すついでに、ダニエルは情報を引き出すべく続けて訊いた。
 男の目に警戒の色が浮かぶ。いきなり話しかけてきた彼を怪しんでいるらしい。
 それに勘づいたダニエルは例の人好きのする笑顔を浮かべ、手を差し出した。
「ああ、自己紹介がまだでしたね。ぼくはニューヨークの新聞社で記者をしている、ダニエル・ヒューズといいます。こちらは同僚のウォルター・スタンフォード。ロンドンには特派員として駐在していて、これから本社に戻るところなんです。よろしく」
 ウォルターもまた会釈をするが、男はこちらを見ようともしない。表情もひどく硬い。
 やがて仕方がないといった様子で差し出された手を握り返し、ぼそぼそと答えた。
「……リチャード・ロレンス。ロンドンで医者をしていました」
 その言葉に、ダニエルとウォルターは互いに目配せをした。
 医師は、ヤードがにらんだ切り裂きジャック容疑者の有力な職業のひとつだ。
 昨夜ダニエルが見立てた医師風のバッグは伊達ではないらしい。
「アメリカへはご旅行で?」
「ええ、まあ……。そんなところです」
「どちらへおいでですか? ニューヨークですか、それともシカゴとか?」
「いや、その……。ひとり旅なんで、行き先はとくに決めてなくて……」
「なるほど、うらやましい限りですね。ぼくらなんてロンドンでは事件に追いまくられて、いざニューヨークへ帰れたかと思えばすぐに出社です。会社ではボスにこき使われて──ああ失礼、イギリスではこの言い方はあまりしないんでしたっけ」
 まったく、勤め人の悲しさですよ、と愛想よく笑うダニエルとは対照的に、ロレンスは口が重かった。
「ニューヨークにいらしたなら、ぜひ『デルモニコ』へお立ち寄りください。あそこの料理はアメリカ随一と評判で、舌の肥えたイギリスの客人を紹介しても恥ずかしくない店です」
「はあ……」
「お時間が許せば、ディケンズも訪れたナイアガラの滝もおすすめですよ。最近は新婚旅行スポットとして人気だから、少々当てられるかもしれませんがね」
「…………」
 ロレンスはとうとう黙り込んでしまった。
 ダニエルの嫌味とも取れる話しぶりに辟易したのか、単に寡黙なだけなのか、それともほかに話したくない理由があるのか。
 ウォルターには見当も付かなかった。
 ダニエルもこの話題では取材対象が乗ってこないことに気付いたらしく、矛先を転じた。
「ロンドンは歴史もあるし建物もすばらしく、おまけにご婦人方は美しい。とてもいいところでした。不満があるとすればただひとつ、あのスモッグですね。ぼくなんて目がやられたのか少し視力が落ちさえしましたよ」
「…………」
「ミスター・ロレンスはお医者さまということですし、ウエストエンドあたりにお住まいだったんでしょう? あの辺ならスモッグもだいぶましですよね」
 よくもまあ次から次へと質問できるものだ。
 これだけ立て続けに訊かれれば、よほど強固な精神の持ち主でもない限り、うっかり口を開いてしまうだろう。さらに、やり口が少々強引であっても、ダニエルの生来の人懐っこさは相手の警戒心を解きやすい。
 ウォルターは、相手から情報を引き出そうとする彼の話術に感心した。
「いや……。ウエストエンドには住んでいなかったんで……」
「へえ。どちらだったんですか?」
「…………」
 ロレンスはまたもや沈黙する。
 根掘り葉掘り聞くのは勘弁してくれ、とでも言いたげな表情に見えた。
 反対にダニエルの顔には、興味津々という文字が大きく書いてある。
 なかなか口を割りたがらない様子に、いよいよ確信を深めているに違いない。
 やがて、ロレンスが聞き取れないほどの小声で答えた。
「──ホワイトチャペルです」
 ウォルターが目をむくのと、ダニエルが椅子から身を乗り出すのは、ほぼ同時であった。

     四

「ホワイトチャペルですか! それはまた意外な──」
 ダニエルが興奮冷めやらぬ声音で言った。
「……以前の勤め先がロンドン病院だったので、そのまま……」
「なるほど。いや失礼、あなたのような立派な紳士が、よもやあのホワイトチャペルにお住まいだったなんて、あまりに予想外だったものでして」
 確かに意外である。
 ホワイトチャペルを代表とするイーストエンドは典型的な貧民街であり、それなりに地位のある医者ならば好んで住んだりはしない。ダニエルの言うとおり、高級住宅街のウエストエンドあたりに居を構えるだろう。
 こうしていちいち驚かれるのがいやだから、ロレンスは口が重かったと考えることもできるが、ダニエルはきっとほかの理由だと考えるはずだ。
 ほかの理由。
 それはすなわち、ホワイトチャペルを恐怖の渦に巻き込んだ例の事件と関係があるのでは、という理由である。
 ダニエルは、どう対応するのだろうか。
 いきなり核心を突くのだろうか。
 ウォルターはただ見守るしかなかった。
 すると、ダニエルはパイプの煙を吐き出しながらおもむろに、
「ここにいるウォルターも、ホワイトチャペルには詳しいんですよ。きみ、あのへんの貸長屋に住んでたろう」
と、話題を振ってきた。
 ここではじめてウォルターの存在に気が付いたように、ロレンスはこちらを見てきた。
 いきなり矛先を向けられたウォルターは面食らいながらも、話を合わせた。
「ああ」
「場所はどこだっけ? なんとかマーケットの近くだとか」
「スピタルフィールズだよ」
「それだ、それ。ご存じですか?」
 ダニエルが再度ロレンスに話を戻すと、彼は苦い顔つきで答えた。
「ええまあ、いちおうは……」
「しかしきみも変わってるよな、わざわざあんなところに住むなんて」
「会社から近くて便利だったんだよ。ベイカー・ストリートに住んでるきみの半分の時間で出勤できる」
 イーストエンドを選んだ理由はほかにもあったが、せっかく本題に入る糸口を見つけた今、関係のない話題で本筋から外れるのはよくない。ダニエルもまた、同じように考えているのだろう。あえて詳しく突っ込んではこなかった。
 そのかわりダニエルは、さも思い出した風を装い、こう言った。
「そういえばホワイトチャペルは、最近物騒でしたね」
 するとロレンスは、目に見えて全身をこわばらせた。もとより白い頬から色が抜け、紙のようになっている。
 探偵的観察眼のないウォルターから見てもそう思えるのだ、ダニエルもきっと気付いているはず。
「あちこちの新聞でずいぶんと騒がれましたね。ぼくらも夏からこっち、振り回されましたよ。えーと……」
 ここにあるかな、などと言いながらダニエルは席を立ち、各国の新聞がそろえられたラックを探す。アメリカ紙でもワールドやトリビューンなどの大手ならともかく、うちのような大衆紙があるのか疑問だったが、幸いにもこの船には置いていてくれたようで、彼の手には昨日付の朝刊があった。
「ここにいる彼が書いた記事です。よろしければどうぞ」
 それはちょうどロンドン出発直前に入稿したもので、ウォルターにとってイギリスで執筆した最後の記事だった。
 ダニエルが新聞を差し出すと、ロレンスは操り糸で吊り上げられたような動作で腕を持ち上げ、受け取った。
「ホワイトチャペルにお住まいでしたなら、切り裂きジャック事件、ご存じですよね?」
「ええ……」
「まったく、ひどい事件ですよ。女をナイフで切り裂いてはらわたを取り出すなんて、とても正気の沙汰とは思えない。おかげで警察はこの事件に人手を割きすぎて、ほかの犯罪捜査をほったらかしにしている。この間になにか重大事件があれば、どうするつもりなんだか」
「…………」
 ロレンスは無言のまま、震える手でマッチを擦り、葉巻に火を移した。
 葉巻の先が赤くなったのを見届けたダニエルは、
「それにしても、犯人はいったい誰でしょうね」
と、パイプをひとつ吸ってから言った。
「一応ヤードでも犯人像を絞り込んでるし、巷でも外国人だの船乗りだのいろんな噂は飛び交ってますが、決定的な容疑者はまだ見つかっていないのが実情です」
「……そうみたいですね」
「ぼくが思うに、犯人はいわゆる知識階級ではないでしょうか。それも、人体構造にも詳しい医療従事者あたりが怪しいですね。彼らなら鋭利なメスも簡単に手にはいるし、解剖だってお手の物だ。おまけに、被害者が抵抗できないように薬物を投与することだってできますしね」
「…………」
「失礼、あなたも医師でしたね。同業者としてこの事件、どう思われますか? 医師ならば本当に殺人は可能でしょうか?」
 ダニエルが問うたのとほぼ同時に、ロレンスは席を立った。
 新聞を椅子に置くと震える声で、
「……気分がすぐれないので失敬します」
とだけ言い残し、足早に立ち去ってしまった。
 あっけに取られたウォルターに、ダニエルは身を寄せてささやいてきた。
 ロレンスとは真逆で頬には赤みが差し、灰色の瞳はきらきらと輝いている。
 こんなときなのにウォルターは「女たちは彼のこの顔に惚れるのだな」などと思った。
「見たか、あれ」
「ああ。過剰反応もいいところだ」
「あの男、ぜったい怪しいぞ。左利きだったしな」
「左?」
「そうさ。『切り裂きジャック』と同じ左利きだ。さっき左手でマッチを擦っていた」
 ウォルターは驚いた。
 まったく気付かなかった。
「それに、やけに熱心に新聞を読んでいた。彼が開いていたのはロンドン・タイムズの二面と三面、最近の犯罪に関するページだ。俺も出がけに読んできたから間違いない。あれはきっと、自分のことが書かれていないかどうか確かめていたんだ」
 そう言ってダニエルは、ロレンスが最初に読んでいた新聞を開いた。
 たしかにそこには、ロンドンにおけるここ半年間の主要な犯罪記録が並べられていた。その中でもひときわ目立っていたのは、言わずもがな。
 これもまた、ウォルターが気付かなかった点だ。
 自分が見過ごしていた部分を、ダニエルはきちんとチェックしている。探偵ごっこと子どもの遊び扱いをしていたが、なかなか侮れない。
 彼ならば、自分が望んでいた結果──【切り裂きジャックの正体、白日の下にあばかれる!】という大見出しが紙面を飾る──を出してくれるかもしれない。
「ダニエル、やれそうか?」
 ウォルターは期待を込めてたずねた。
 すると相棒は白い歯をのぞかせ、
「ああ、きっとやってやる」
と、答えた。

     五

 喫煙室を出たふたりは、いったん自室に向かった。時計を見ると、六時前である。
 エントランスから階段をのぼりかけたウォルターの目の端に、黒いものがちらりと映った。振り向くと、黒衣の女性が甲板へ出るのがはっきりと見えた。
 考えるより先に、足が動いた。階段を駆け下り、服装の乱れを整えつつ甲板へと向かう。
 とつぜん方向転換したウォルターに、ダニエルは驚いて問うてきた。
「どこへ行くんだ、もうすぐ夕食だぞ」
「すまない。先に食っててくれ」
「おい、ウォルター!」
 ダニエルの声を背中で聞きながら、ウォルターはエントランスを横切り彼女を追った。
 甲板に出る。昨夜ほどではないが、それでも強い風が吹き付けてくる。
 帽子が飛ばされないよう押さえながら、ウォルターは彼女を捜した。
 女の足ではそう遠くへは行かないはずだ。当たりを付けて、より近い船首へと向かった。
 何人かの乗客が、手すりにもたれたりデッキチェアに腰掛けたりと、思い思いに大海原に沈む夕陽を眺めている。
 そのはずれに、捜し人はいた。
 オレンジ色に染まった水平線を見つめる彼女に、連れがいる気配はない。
 ずいぶんな大荷物で、片手に新聞が入ったバスケット、もう片手にポートワインらしき瓶が顔を出したワインクーラーを抱えている。
 見つけたはいいが、なんて声をかければいいのだろう。
 いざという段階で躊躇していると、彼女がこちらに気付いた。
 振り返りウォルターの姿を認め、目を見開いた。
「昨日の──」
 こうなったらいちかばちかだ。
 腹をくくったウォルターは、帽子を取って胸に当てた。
「こんばんは。あれから問題はありませんか」
「おかげさまで。本当にありがとうございました」
 そう答えると、彼女はふわりと頭を下げた。
 優雅なしぐさに、ウォルターは心臓を絞られるような心持ちを覚えた。頬に血が上るのが自分でも分かる。
 昨夜からずっと、会いたいと願っていた。
 まさか、こんなに早く見つけられるとは。
 声がうわずらないよう気を付けつつ、控えめに切り出してみた。
「ご迷惑でなければ、ご一緒してもよろしいでしょうか」
 昨日も酔漢に絡まれたばかりなのだ。
 またもや見ず知らずの男に声をかけられては、若い娘ならば警戒しても不思議ではない。
 なかばだめもとだったのだが、
「ええ、どうぞ」
意外にもこころよく応じてもらえた。
「では失礼します」
 そう断ってからウォルターは、彼女の横に立った。あらためて横顔を見つめる。
 闇夜だった昨日とは違い、今日は夕暮れということでかろうじてまだ日はある。おかげで彼女の姿を堪能することができた。
 年齢は、おそらく二十歳前後というところだろう。
 すみれ色の瞳を彩るまつげは長く、まばたきのたびに音がしそうなほどだ。なめらかな曲線を描いたしろい頬の辺りに、ボンネットからはみ出たダークブロンドの髪がわずかにのぞいている。
 黒い外套の下から、これまた黒のドレスがのぞいている。アクセサリーも見たところジェット製の黒ネックレスだけだ。昨日と同じような黒いボンネットといい、まったくの黒ずくめだった。
 やはり、喪中のようである。
 女性のファッションにはそれほど明るくないウォルターだが、それでも彼女の服装は清潔ではあるものの質素であることがうかがえた。
 荷物を持つ手も素手であり、“レディ”の証である手袋はしていなかった。
 雰囲気こそ品があるが、特別裕福な出ではないらしい。
 話す言葉は訛りのないきれいな英語で、リヴァプールを中継とした移民ではなくれっきとしたイギリス人であると思われた。
 しかし外見から把握できることは限られており、それ以上詳しいことが知りたければ、やはり当人に聞くしかない。
 こんなとき、ダニエルならばどうしただろう。
 彼女を不安がらせずにうまく会話を運ぶことなどたやすいに違いない。
 口べたな自分が恨めしく、また彼の会話術がこれほどうらやましいと思ったことはなかった。
 だが、いつまでも黙りこくって海を見ているわけにもいかない。
 そういえば、まだ名前も知らないのだ。
 とりあえず自己紹介でもと思い、口を開きかけたそのとき、
「あの──」
と、彼女の方から声をかけられた。
「まだお名前も伺っておりませんでした。お聞きしてもよろしいですか?」
 先手を打たれたウォルターは、焦りが外に出ないよう努めつつ名乗った。
「ウォルター・スタンフォードと申します」
「わたし、クレア・リデルです」
 そう言って、彼女はかすかに微笑んだ。
 まずは第一段階は突破したが、問題はここからだ。さっきのダニエルの尋問を参考に、当たり障りのない質問からはじめる。
「アメリカへはご旅行ですか?」
「いえ、移住のためです」
「おひとりでですか?」
 そんなわけないだろう。若い娘ならば、家族と一緒に決まっている。
 ウォルターは言ってから後悔したが、クレアはとくに気を悪くしたふうもない。
 いたって平静な調子で答えた。
「いいえ、叔母といっしょです」
「叔母さま、ですか」
「……ええ。わたし、叔母のおうちにご厄介になっていたんですが、先日叔父が亡くなられたので、ひとり残された叔母といっしょに移住することになったんです」
「そうでしたか。ご愁傷さまです」
 ウォルターがお悔やみを口にすると、クレアは面を伏せた。
 これで、彼女が喪服を着ていた理由が分かった。
 それにしても、叔母の家に厄介になっていたということは下宿かなにかしていたのだろうが、ともに外国へ移住までするものなのか。実家に帰ればよさそうなのに。
 そう思ったが、さすがにそこまで突っ込んだ話はできない。
 代わりに、
「叔母さまはどちらに?」
と、たずねてみた。
「……体調がすぐれないからと、乗船してからずっと個室にこもりきりです」
 夫を亡くしたのだから、悲嘆に暮れて伏せっているのだろう。
 しかし、ニューヨークまであと一週間以上ある。こもりきりではさらに陰鬱になりはしないか。なにか声をかけた方がいいだろうか。
 ウォルターが必死に言葉を探していると、クレアはこちらを見上げた。
 アメジストの瞳に真正面から射抜かれ、全身の血液がどくどくと脈打つのが分かる。
「スタンフォードさんは、どちらからいらっしゃったんですか?」
「ぼくですか?」
 彼女が自分に興味を持ってくれたことに、奇妙な高揚感が沸く。
 ウォルターは「落ち着け、落ち着け」と念じながら答えた。
「ぼくはもともとアメリカからイギリスに社用で滞在していまして、今から本国に帰るところなんです」
「お仕事だったんですね」
「ええ。ニューヨークの新聞社に勤めています。ロンドンには特派員として一年ほど駐在していました」
 そう答えると、クレアの表情が変わった。



※試し読みは以上です。
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