鳳凰はかく語りき ─東華百貨店物語─ ※試し読み※

     大正五年


 ここはどこだ。なにも見えない。
 ただ、白々と明るいだけだ。
 それにしても、やけに寒い。さっきまでいた、温かい場所へ戻してほしい。
 わたしがぼんやりとそう思っていると、
「……うん、上出来だ」
という声が聞こえた。
 わたしは声のした方を向こうとしたが、動けなかった。その間にも声はつづく。どうやらほかにも人がいるみたいだ。
「綺麗に焼き上がりましたね、先生。くちばしも頭の羽も、焦げずにすみましたし」
「本当ですね、これだけの大きさははじめてですし……。さすがは先生、素晴らしい出来です」
 彼らの話している内容は、ちっとも理解できない。首をかしげたかったが、それもできない。なぜ、わたしは動けないのだろう。
 やがて、わたしの頭のあちこちが、柔らかい布でぬぐわれた。目の辺りを拭かれ、はじめてわたしは目を開くことが出来た。
 まず最初に見えたのは、人間の顔だった。鼻から下がひげもじゃの初老の男。この男が『先生』なのだろうか。
『先生』は真剣な表情で「ふうむ……」とうなったきり、まじまじとわたしを見つめている。
「いい顔をしている」とだけ言うと、少しだけ目許を下げた。
「あとはまかせた。もうすぐ荷出しだから、気を抜くなよ」
「はい、おまかせください」
 傍らの青年ふたりにそう言い残すと、『先生』は席を立った。残されたふたりは念入りにわたしを磨きながら、「先生は、よほどおまえが気に入ったようだ。めったなことじゃ自分の作品をほめない先生が、めずらしくご機嫌だからな」と、まるで自分のことのように楽しげに言った。
 わたしは──作品なのか?
 いったいわたしは何者なのだ?
 問いたかったが、布の感触が気持ちよくてそのまま眠りに落ちてしまった。


 声が聞こえる。今度はやや遠い。
 その声でわたしは覚醒したが、目の前は真っ白だった。鼻先に、布の感触がある。
 声の主は、布の向こうにいるらしい。『先生』とも青年たちとも違う、張りのある男性の声だった。
「──……欧米で用いられている地図をご覧になったことはありますか。ヨーロッパとアフリカ大陸が地図の中心で、日本は東の端に描かれています。『極東』の言葉が示すように、我が国はヨーロッパにとって、東の、そして世界の最果てなのです」
「ですがわれわれは、東の最果てであっても、世界の中央に引けを取らない立派な百貨店を目指したい。その願いを込めて『東華百貨店』という社名をつけました」
 東華百貨店──。
 わたしが今立っている場所は、そういう名であるらしい。
 だが生まれたばかりのわたしには、それがなんであるのかは理解できなかった。
 先ほどの男性の声が、ひときわ大きく響いた。
「それでは最後になりましたが、東華百貨店のシンボルをご紹介いたします。──伝説上の霊鳥であり、東の華を象徴する、鳳凰でございます!」
 声を合図に、かぶさっていた布がするすると動く。布はふわりと音もなく宙を舞い、わたしの眼前は急にひらけた。
 そこは──光にあふれていた。
 生まれてはじめて見た光より、なお明るく、輝いていた。虹色の粒がいくつも踊り、周囲に降り注いでいる。
 そして眼下に広がる、人の波。
 数え切れないほどの顔が、わたしを見上げ、拍手喝采していた。
 誰もがあふれんばかりの笑顔を浮かべ、しきりに祝いの言葉を口にしていた。
 彼らの祝福は──わたしに向けられたものなのか。
「ご覧ください、この精緻なる美しさを! これは京都の高名なる七宝家、浪川主税先生が三年の歳月をかけて製作なされた、七宝焼きの像でございます。この鳳凰像には、われわれ東華が目指す東洋の美と、高みを目指す飛翔の願いが込められており……」
 すっかり興奮しきった声の主は、わたしのすぐ足元に立ち、居並ぶ聴衆に向かい演説していた。
 鳳凰──それが、わたしの名。
 わたしは今はじめて、命が吹き込まれたのだ。


 この日を境に、わたしは完全に目覚めた。
 生まれたばかりのころは瞬きひとつできなかった──今でも動くことはできないが──のに、五感は鋭く研ぎ澄まされ、建物内で起こったことはすべて把握できた。
 わたしが今いる東華百貨店は、大阪という街にあり、創業者──わたしの除幕式のときに演説していた男だ──曰く、その中でも最も大きい百貨店だという。
 すぐ脇を通る心斎橋筋は、通りの両側にずらりと商店が並ぶ賑やかな商店街だ。一筋西の御堂筋は、今はまだ三間ちょっとの狭い道だが、将来は拡張されることが予想されていた。東華はちょうど、この両筋にはさまれるような形で建っていた。
 石と鉄筋とコンクリートで造られた東華は、ネオゴシックという華やかな様式で設計された、地上六階・地下一階にわたる壮大な建物である。大正二年に最初の建物が全焼し、現在の店舗は二代目とのことで、わたしは一階にもうけられた大ホールに設置されていた。

 百貨店というものは、実に面白い空間だ。
 五階まである各売り場には、洋服・和服・服飾雑貨・宝石や美術品までもがさまざまに置かれ、それらを求める客がひっきりなしに来店する。
 反物を前に一時間も悩みつづける婦人、買い物に夢中な奥方とうんざり顔の亭主、おもちゃ売場で買って欲しいと駄々をこねる子ども。どれもが新鮮で、いつまで眺めていても飽きることはなかった。
 六階の大食堂には多いときには三百人の客が入り、洋食や西洋菓子、お子様ランチなどに舌鼓を打っている。たまに見合いが行われることもあり、そんなときはわたしも固唾を呑んで成り行きを見守ってしまう。
 百貨店には、ドラマがある。
 いろんな人の、いろんな人生模様。どれひとつとして、同じものはない。
 わたしはきっと、この百貨店を訪れる人々を見守るために生まれたのだ。

     大正九年

 橋を渡った先には、別世界があった。
 渡り終えた日比野スミは、初めて見る光景に唖然とした。先を行く千鶴子お嬢さまが「なにぼんやりしてるの、早くいらっしゃいよ」と、肩越しに叫んだ。その声は明らかに弾み、熱を帯びていた。お嬢さまもまた、この\x87\x80冒険\x87≠ノ浮かれているのだ。
「は、はい!」
 あわてて返事をすると、スミは腕の中の風呂敷包みを抱えなおした。


 心斎橋筋はこの町を南北に貫く、もっとも繁華な商店街だ。
 ガス灯がずらりと並び、ありとあらゆる品物があふれ、石造りの洋館がいくつも建っている。それはまるで西洋の街並みのようにハイカラであるという。
 だがスミは話に聞いただけで、実際に足を向けたことはなかった。
 スミが奉公する針問屋『大和屋』も心斎橋筋に面しているが、長堀川を隔てた北側に店を構えている。この川はいわゆる\x87\x80結界\x87≠ニなっており、北側である船場は太閤さんの頃から続く老舗の商家が並ぶ一帯、南側の島之内は明治以降に急成長した新興盛り場である。
 船場は古くからのしきたりを重視し、新参者と進んで交わることをしたがらない。そのためか、\x87\x80北\x87≠ノ店を構える家では、川を渡って\x87\x80南\x87≠フ人間と付き合う者は少なかった。スミをはじめとする奉公人たちも、お店の主人から川を渡ることは固く禁じられていた。
 ひとり娘の千鶴子お嬢さまもまた、川を渡ることを許されない身であった。女学校も友人も習い事も\x87\x80北\x87≠ナおさまるよう、厳しく制限されていた。
 そのせいだろうか、お嬢さまはいつからか\x87\x80川の向こう側にある、まだ見ぬ世界\x87≠ノ憧れを抱くようになっていた。


 狭い通りの両側に、ずらりと商店が並んでいる。お嬢さまはあっちの店からこっちの店へと、
「すごいわ、本当にいろんなお店があるのね!」
と、糸の切れた凧のようにくるくる動き回る。スミはついてゆくのがやっとだ。
「お嬢さま、もう帰りましょう。奥さまに知られたら大目玉ですよ」
「なに言ってるの、今日みたいな機会はめったにないのよ。存分に楽しまなくっちゃ!」
 本来ならばこの時間は、踊りのお稽古である。
 しかし師匠のお宅へ伺ったところ、突然の差し込みで動けないため、今日は休みにしてほしいと言われたのだ。予定外に身体の空いたお嬢さまは、これ幸いにと夢にまで見た\x87\x80川の向こう側\x87≠ヨとやってきたという次第である。
 スミ自身は\x87\x80川向こう\x87≠ノ対する興味はあまりなかった。
 他の女中仲間が活動写真やおしるこ屋に憧れを抱いているなか、スミだけはそういうものに興味を示すことはなかった。わがままなお嬢さまに振り回され、余計なことなど考えているヒマなどないのも、理由のひとつだが。
 唯一の気晴らしは、供待ち部屋でお嬢さまの下校を待つ間にする、編み物や刺繍だった。
 しかもただ漫然と縫うのではなく、新しい図案や模様を考え、それらの完成図を想像しながら針を動かすのが好きだった。昔から手先だけは器用だったこともあり、気がつけば女中仲間に教えを請われるほどの腕前になっていた。
 しかし、スミはそれを生業にしようとは思ったことはないし、できるとも考えていない。あくまで暇つぶしの手慰みと割り切っている。
 河内の農家から奉公に出てきた娘の一生とは、ただひたすら主家に仕えてお嬢さまのお世話をし、頃合いを見て所帯を持つことである。郷里の両親が相手を見繕うならば、同じ農家に嫁ぐだろう。場合によっては大和屋の旦那さまが、商売のつてをたどって娶せてくれる。そうなれば、小さな店のおかみさんとなるはずである。
 それがスミのような、特技も家柄もない平凡な娘に用意された、たったひとつの道。
 ほかの道など、あるはずもない。
 夢を見るだけ、無駄なのだ。


 それにしても人が多い。季節外れの天神祭のようだ。人混みに慣れないスミは、息苦しささえ覚えた。
 対するお嬢さまは、水を得た魚のようにはしゃいでいた。現金を持ち歩く習慣のないお嬢さまが、店先に並んだ商品を買うことはできないが、見ているだけで楽しいのだろう。
「ほら、半襟がたくさんあってよ。こんな柄、平野町では見たことないわ!」
 お嬢さまの指差す先には、色とりどりの半襟が並べられていた。鮮やかな縮緬地や繊細な刺繍、まだ珍しいふくれ織りなど、多種多様な半襟に思わずスミも足を止めてしまう。そのすきに、お嬢さまはさっさと先へ進んでしまった。
 スミにはお役目があるのだ、お嬢さまのように無邪気に喜んではいられない。こんな冒険、奥さまに知られたらさぞ叱られるだろう。晩飯抜きは免れまい。
「お嬢さま、本当にもうそろそろ……」
 やっと追いついたお嬢さまのお下げにそう言いかけたが、途中で言葉を失ってしまった。
 黒漆喰の外壁と瓦葺きの屋根が突然途切れ、真っ白な宮殿がそびえ立っていたのだ。
「すごい……。どちらの御殿ですか?」
「なに馬鹿なこと言ってるの。これが噂の『東華百貨店』じゃないの!」
「え、これが……」
 流行に疎いスミでも、名前は聞いたことがある。
 これが『今日は心劇、明日は東華』と謳われる、あの東華百貨店か。
 四角い箱のような外見。規則正しく並んだ縦長の窓。通りに面した一角は大きな板ガラスがはめられ、最新作とおぼしき反物が展示されていた。
 呆然と見上げているスミを尻目に、お嬢さまはすたすたと入口へと向かっていった。我に返ったスミも、あわてて後を追う。
 入口は広い土間になっており、両端に人足風の男たちが忙しく立ち働いていた。彼らは客が脱いだ草履や下駄をあずかり、数字の書いた木札とともに赤い鼻緒で手早くまとめ、持ち主には同じ番号札を渡している。
 お嬢さまが先に草履をあずける。絹鼻緒にコルク裏の上等な履物が、下足番の手によってうやうやしく運ばれていく。
 続いてスミが、おそるおそる草履を脱いだ。すっかり裏がすり減ったくたびれ草履を片手でつかんだ下足番が、無言で札を押しつけてきた。お嬢さまのそれに比べ、明らかに扱いがぞんざいである。
 縞の着物を着た女子店員に案内され、足袋はだしで敷居をまたぐ。
 整然と畳が敷かれた店内には、脚の付いたガラスケースがあちこちに並べられ、客たちが物珍しそうにのぞき込んでいた。
 男性もいるにはいるが、それ以上に女性客が目立つ。
 華やかな錦紗を身にまとい、新しい型の束髪を結っている人が多い。前髪をコテで縮らせた髪は、たしか耳隠しとかいう、とびきり新しい型だったはず。いずれも伝統と重んじ華美を慎む船場では、あまり見られないものだ。スミのようなみすぼらしいお仕着せ姿など、ほかには見受けられなかった。
 壁面に張られた店内図によると、一階は婦人小物や化粧品、二階は子ども服と婦人洋服、三階はすべて呉服……と続き、最上の六階は大食堂という構成であるらしい。一緒に貼られた広告には『欧州大戦終結記念 大バーゲンセール』と大書きされている。
「見てよ、これ!」
 お嬢さまは歓声を上げ、天井から吊された舶来物のショールを見上げていた。恐ろしいほど精緻な図柄が施されたショールに付けられた値札は、十五円と読み取れた。スミが十年働いても得られない大金だ。
「弥生子さんが持ってるのより、ずっと素敵だわ。そう思わない?」
「はあ、そうでございますね」
「決めた、お母さんにお願いして買ってもらおうっと!」
 一月ほど前、ご学友に新しいショールを見せびらかされた悔しさを、お嬢さまはいまだ根に持っているらしい。
 急に疲れを感じたスミは、室内の中央あたりがやけに明るいことに気付いた。お嬢さまは熱心におねだりの下見をしており、その場を動く様子もない。
 スミはそっとお嬢さまから離れ、光のもとへと歩いていった。
 近づくと、石造りの天井にぽっかり穴が空けられているのが分かった。前に立つ紳士連れが邪魔で、穴の下はどうなっているのかは見えない。
 わずかな隙間に肩をねじ込んで前へ出ると、あまりのまぶしさに目の前が真っ白になった。何度もまばたきをし、そうっと目を開けた。
 そこは、息を呑むほどの大広間だった。
 最上階までぶち抜かれた壮大な空間になっており、ガラス張りになった丸天井からはあたたかな陽光が降り注いでいる。豪華な装飾が施された柱がすべての階層を支えており、階のひとつひとつに買い物客が行き交っていた。
 さらにスミの目は、広間の中央にあるものに釘付けになった。
 ──こんなところに、鳥……?
 巨大な鳥が、羽を休めているのだ。見上げるほどの高さで、三丈はゆうに超えているだろう。教科書で見たどこやらの大仏様よりよほど大きい。なんという細工かは分からぬが、全身が極彩色の文様に包まれている。大理石らしき台座には「鳳凰像」と記されていた。
 あまりの美しさに、ただただため息しかつくことができない。スミの隣に立つ、お上りさんらしき老婆が、「ありがたや、ありがたや」と両手を合わせて拝んでいた。
 小学校をやっと出ただけのスミには、この鳳凰がどのような鳥なのか、そもそも実在する生き物なのかも分からなかった。
 ただ、この像には不思議な力がある、というのは感じられた。
 うまく言えないが、全身の血が沸き立つような気がするのだ。


 その後、お嬢さまにせがまれるまま他の階も見て回った。踊りのお稽古は一時間こっきりだから、あまりのんびりしていられない。二階の洋装売り場までが限界だった。
 はじめて見た婦人洋服は、スミに鮮烈な印象を与えた。
 和装は、生地や模様などの差はあれど形そのものはどれも同じである。それに比べ洋装は、上着もスカートも靴も帽子も、すべてがひとつひとつ違う型なのだ。しかも軽くて動きやすそうで、新しい時代の女とはこういうものなのか、と思わずにはいられなかった。
 ──どんな人が着るんだろう。きっと、うんとお洒落で綺麗な女なんだろうな
 あれこれと乏しい想像を巡らせてみる。不思議と、自分では着たいとはあまり思わなかった。どちらかというと、ふさわしい女性に美しく着飾ってもらいたかった。
 二階を慌ただしく見物した後、もっといたいと渋るお嬢さまをなだめつつ、大階段を下りて一階広間へと戻る。さっきは正面しか見えなかった鳳凰像の背中が拝めた。色とりどりの長い尾羽がなんとも美しい。
 あの尾羽を模様にしたら、どんなに素敵だろう。
 半襟もいいけど、さっき二階で見たスカートの裾あたりにぐるりと縫い付けたら、動くたびにひらひら揺れてさぞ映えるに違いない。いや、いっそのこと別布に刺繍して、リボンのように飾り付けても面白そうだ。
 そんなことを考えながら鳳凰像の背後を通り過ぎようとした時、すごい勢いでなにかがぶつかってきた。はずみではじき飛ばされたスミの耳に、けたたましい音が聞こえる。
「す、すいません!」
 見ると、少年がスミに向かい頭を下げつつ、散らかった下駄や草履などをかき集めていた。服装は縞の厚司に紺の前掛けという、昔からの商家──ちょうど、スミの奉公先のような──には必ずいる、丁稚と同じである。
 ややあって、買い物客の間から小綺麗な詰襟を着た男子店員が飛んできて、「和彦、なにやってるんだ! 裏から回れと言っただろうが!」と叱りつけた。
「すいません、こっちのほうから行くと近道だと言われたので……」
「だからって堂々と売場を横切るヤツがあるか! ちょっと考えたら分かるだろうが!」
「は、はい!」
 叱られた少年は、どうやら玄関で預かった下足を出口まで運ぶ役目であるらしい。床に這いつくばって下駄を拾い集めている背中は、華麗な建物の中ではひどく野蛮で前時代的に見えた。
 無理矢理日常に引き戻されたような、なんともいえない苦い気持ちを味わっていると、
「行くわよ、スミ。こんなことしてるヒマなんてないでしょ」
 さっきまでぐずぐずしていたお嬢さまが、手のひらを返したように急かす。まるでこの場にいたくないと言わんばかりだ。
 スミは少年から視線を外し、先を行くお嬢さまの後を追った。


 百貨店の出口は、入口とは別になっていた。お嬢さまと連れだってそちらに向かうと、
「おい、下駄はまだか。帰れんじゃないか」
「こっちは急いでるのよ。早く持ってきてちょうだいな」
と、なにやら騒がしい。足袋はだしの数人が、下足係に食ってかかっていた。詰め寄られた下足係は、手ぬぐいで顔中を拭きながら必死に弁明している。
「相済みません、手違いでお履きものが遅れておりまして……。今しばらくお待ちください」
 もしかして、先ほどのそそっかしい少年が届けるはずの履物だろうか。思わずお嬢さまと顔を見合わせてしまう。
 みるみるうちに、帰り客が出口にたまってきた。履物がまだ到着していないと分かると、客たちの間に険悪な空気が流れた。このままだと喧嘩のひとつやふたつ起こるのでは、とスミがひやひやしていると、
「そりゃこれだけ混雑していれば、遅れるのもしょうがないわよ。イライラしたってはじまらないわ」
という、涼しげな声が上がった。周囲の視線が一点へと注がれる。
 声の主は、若い女性だった。
 江戸紫地に蝶模様の錦紗に、耳下で綺麗に切りそろえられた断髪という、和と洋が混在した目立つ姿だった。手には包装紙に包まれた箱を抱えている。
「いっそのこと、ボン・マルシェやプランタンのように下足のまま入場できるようにすれば、手間も人出も省けるのに。ね、そう思わないこと?」
と、スミにほほえみかけた。
 突然声を掛けられ、スミはどぎまぎした。なんとか返事をひねり出そうとするが、その前に彼女はひょいと視線を外し、「あら、いつの間にか雨が降っていたのね。道路が濡れてるじゃない」と往来を覗いた。
 そこへ、さっきの少年が風呂敷包みを背負い、「すみません、遅くなりました!」と走り込んできた。客に詰め寄られていた下足係がこれ幸いにと風呂敷包みを奪い取り、赤い鼻緒でまとめられた客の下足を土間に並べはじめた。待ちきれないらしい一部の客が、勝手に風呂敷包みの中をかき回し、自分の履物を持って行ってしまう。
 よかった、暴動は起きなかった。ほっとしたスミはお嬢さまと自分の番号札を確認しながら、履物が出てくるのを待った。さっきの断髪美人の履物も出てきたらしく、下足番が並べた草履に足を通そうとしている。
「ぼんやりしてないで、わたしの履物をもらってきなさいよ」
 そう急かされ、スミは下足番からお嬢さまの草履を受け取り、丁重に履かせた。さて自分の分も、と番号を確認するが、風呂敷の中にはもう履物は残っていなかった。
「あの、四十三番の草履はありませんか。わたしのなんですけど……」
 おそるおそる下足番に尋ねると、彼らは手を止めることなく「おい和彦、ちゃんと預かってきたのか!」と少年を怒鳴りつけた。少年は明らかに顔色をなくしている。
「そんな、ちゃんと全部拾ってきたはずなんですけど……」
「拾う? そりゃどういう意味だ?」
 下足番の目つきがさらに鋭くなった。
 少年が大広間でスミにぶつかって預かり物をばらまいてしまった件を白状すると、
「馬鹿野郎! とっとと探してこい!」
と、少年を店内へと追い返した。スミの方へ向き直り、面目なさそうに頭を下げる。
「本当にすいません。すぐ探させますんで、もう少しお待ちを……」
「冗談じゃないわ、これ以上待てやしないわよ!」
と、いきなりお嬢さまの声が割って入った。じろり、と剣呑な視線がスミの全身を一周する。
「どうせ、捨ててもいいような汚い草履でしょ。あんた、裸足で帰りなさいよ。お母さんには上手く言い訳すればいいじゃない」
「そんな……」
 あまりな言いように、スミの声は震えた。
 たしかに自分の草履は先輩女中のお下がりで、お嬢さまの高級品に比べればゴミも同然だろう。仮に自分の不注意で紛失したのならば仕方ないが、これはスミの責任ではない。それなのに、裸足で往来を──しかも、雨上がりでぬかるんだ中をだ──歩いて帰れとは、あまりにひどいではないか。
 少年はまだ戻ってこない。これ以上帰りが遅くなると、お嬢さまの帰りを心配した家の者が、踊りのお師匠さまの元へ迎えに来てしまう。そうなれば、この\x87\x80冒険\x87≠ェ知られてしまう。それは、お嬢さまもスミも、なんとしても避けたい。
「ほら行くわよ、スミ。あんたって本当にグズね」
 スミの煩悶などどこ吹く風で、お嬢さまは早くも店を出ようとしていた。だがスミはどうしても思い切ることが出来ず、上がりかまちに突っ立ったまま動けなかった。公衆の面前で辱めを受けた情けなさと、不人情なお嬢さまへの怒りがうずまき、顔を上げることもできなかった。
 すると、うつむいた視線の先に、鮮やかな蝶が飛び込んできた。



※試し読みは以上です。
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