東京フラッパーガール 番外編『九段坂にて』

     一

 後任への引継ぎ用書類をまとめた葛葉敦が、席を立とうと腰を浮かせたとほぼ同時に、部下である柳原曹長が執務室へ駆け込んできた。いつも冷静な彼にしては珍しく、息を弾ませている。
 異変を感じ取った敦は、いったん浮かせた腰をふたたび椅子に沈めた。
「どうした」
「通報が入りました。『京橋のカフェーで軍人が狼藉を働いた』とのことであります」
 狼藉とは何だ。具体性に欠ける表現が引っかかった。
 その辺を問いただすが、柳原は通報そのままを伝えただけだと言う。
 ──カフェーで狼藉か……
 数ヶ月前に夜の銀座で垣間見た、毒々しいネオンが思い出された。しかしすぐにそのネオンは、ある種の予感めいた薄墨に塗りつぶされてゆく。
 敦はもう一度立ち上がると、
「俺も行く」
と、外套を手に取った。
 柳原は一瞬「副長直々の出動か」と言いたげに目を見開いたが、すぐに「はっ!」と返事をした。



 麹町憲兵分隊警務掛の柳原斑以下四名を引き連れ、敦は廊下を急いだ。
 途中、かつて東京憲兵隊本部付きだった時の上官である小千谷中佐が、前方から歩いてくる姿を認めた。ここ大手町にある庁舎には、麹町憲兵分隊と東京憲兵隊本部、憲兵司令部、さらには憲兵練習所(後の陸軍憲兵学校)の四つが同居していた。異動といっても二階から一階に下りただけである。
 立ち止まり、部下全員とともに型どおりの敬礼をする。敦の方をちらりと見た元上官は、
「こんな時間にどうした」
「はっ。通報が入ったため、これより現場に急行いたします」
 そう答えた敦に向かい、小千谷はふんと鼻を鳴らす。さも小馬鹿にした様子で、
「貴様も旅支度で忙しいのに、ご苦労なことだな」
 一瞬頬から耳にかけてカッと熱くなるが、唇を噛みしめどうにか耐えた。

 もともと小千谷は、敦の存在を快く思っていないらしく、言動の端々に微細な毒をにじませてきた。それは現在の麹町分隊での上官も同じだ。
 軍幹部にとって、成績も毛並みもよい青年士官は将来の栄達のためにも、出来るだけ囲い込んでおきたい存在である。
 陸軍最高権力者たる二宮平八元帥の覚えがよく、陸士首席卒業という経歴を持つ敦も、かつては絶好の“投資材料”だった。
 しかし出世への切符である陸軍大学校受験を蹴ってからというもの、一転幹部にとっては“不良債権”でしかなくなった。陸大を経ない士官など、なんの旨みもない。
 その上敦は、元帥の息子である二宮宗次郎中将に疎まれている。これが問題だった。
 今は元帥の庇護があるからよいものの、もし世代交代で中将が実権を握れば。
 この男に肩入れして、不興の嵐に巻き込まれるのは真っ平。
 そう誰もが考え、押付け合いが始まった。かくして敦は、任地を転々とさせられる結果となった。
 敦自身に出世欲はない。ただ自分の任務を粛々とこなすだけだ。
 その態度がまた、幹部たちの勘に障るのだろう。尻尾のひとつも振ってみれば可愛げがあるものを、と。
「ま、今さら張り切って点数を稼いでも無駄だろうが、せいぜい頑張れよ」
「……失礼いたします」
 嘲笑を込めた視線を、深く被った軍帽のひさしで撥ね付け、敦は再び歩き出した。
 後ろから付いてくる部下たちは、みな無言である。聞かなかったふりをしているらしい。
 それが今の敦にはありがたく、またどうしようもなく情けなかった。

     二

 通報の入ったカフェー『バア・ルウジユ』は、京橋の路地裏にある、間口の狭い店だった。
『BER ROUGE』と漆喰細工の施されたゲエトを通り、両開きの扉を開いた。衝立の向こうからボーイが足音も立てずに忍び寄ってきた。
 聞くと、飛び込みで入ってきた軍人ふたり連れのうち、ひとりが酔いに任せて酌に付いた女給を強引に引き立て、手洗いに立てこもったという。中から女給の叫び声が聞こえたため、ボーイたちが救出を試みるも、内側から鍵が掛けられ手に負えなくなり、ついには憲兵隊へ通報したとのことだった。
 連れの軍人に事情を聞こうにも、本人は酔いつぶれて床に転がり高いびきだ。
 敦は泥酔した男の元にかがみ込み、部隊を確認する。
 歩兵第三連隊所属の中尉。見ない顔、卒業期が一、二年上か下か。
 上官とともに来店したのならば一秒たりとも気が抜けぬため、ここまで失態を晒すはずはない。立てこもっている人物は、同期もしくは部下である可能性が高い。
「婦人の安全確保が最優先だ。急げ!」
 敦の号令一下、部下たちはボーイの指し示す奥へと向かった。壁際のテーブル席に座った客数名が、おびえた様子で小さくなっている。
 廊下の突き当たりに木戸があり、その向こうから女性のうめき声が漏れ聞こえる。ただ事ではない──例えるならば獣めいた──気配が感じ取れた。
「麹町憲兵隊です。ここを開けてください!」
 柳原が声を掛けノックすると、荒ぶった気配が止んだ。なおも遠慮がちに呼びかけようとする曹長を押しのけ、
「開けろと言ってるんだ、さっさとせんと戸をぶち破るぞ!」
と、乱暴にドアを叩いた。
 同じ階級なのだ、遠慮はいらない。一期や二期先輩であろうがかまやしない。
 すると解錠音ののち、ゆっくりとドアが開いた。鼻を突く臭気に、みな顔をしかめる。
 中へ踏み込もうとした敦の軍靴はしかし、敷居を越えられなかった。
 裸電球が頼りなげに照らす便所には、酔いで顔が朱に染まった軍人と、タイル床にうつ伏せた着物姿の女性とがいた。
 軍人は焦った手つきで長袴(ズボン)の前を整えている。対する女性はざんばら髪で、裾が大きくまくられ太ももが露わになっていた。
 中でなにが行われていたのか。
 通報の狼藉がなにを指していたのか。
 敦は瞬時に悟った。
 額の裏に、いくつもの火花が散るようだった。
「な……、なんだお前ら。大勢で押しかけやがって……」
 ろれつの回らぬ口調で言いかけた男には目もくれず、敦は着込んでいた外套を脱いで女給に羽織らせようとした。
 震える背に外套を掛けた瞬間、彼女は「ひっ!」と小さく叫んだ。膝を抱き、全身で拒絶を示す。
 その哀れな姿は、なによりも彼女の身に襲いかかった厄災を雄弁に物語った。
 胸を痛めた敦はできるだけ穏やかな声で、
「もう大丈夫です。安心してください」
 なにが「大丈夫」なものか。月並みなことしか口に出来ぬ自分に吐き気がしそうだ。
 だが、今は娘の恐慌を和らげるのが先である。
 丁重に彼女を連れ出すよう部下に指示を出したのち、ぼんやりと突っ立っている男へ向き合った。
「なんだよ、大袈裟だな。ちょっと遊んでただけじゃねえか」
「遊んでただと!? これのどこが遊びだ、ふざけるな!」
 敦は男を睨みつけたが、その顔立ちに既視感を覚え瞬きをした。
 同時に、男の方もなにやら察知したらしく、濁った両目がかすかに光を取り戻した。
「葛葉か?」
 先ほどより明瞭になった声には、覚えがあった。
「仲矢……」
 陸軍士官学校三十六期の同期生、仲矢中尉だった。
 とはいえ、しがない田舎教師の息子である自分と陸軍実力者を父に持つ彼との接点は、実はそれほどない。たしか金沢の歩兵第七連隊が任地だったはずだが、いつの間にやら東京へ転任していたらしい。
 思いがけない再会に虚を突かれた敦とは逆に、仲矢はだらしなく笑いかけてきた。
「ずいぶんご無沙汰だな。そういや貴様、憲兵に転科したんだってな。辻に聞いたぜ」
 似合ってんじゃねえか、と憲兵を示す黒い襟章に触れようとする。
 敦はその指を払いのけると、
「そんなことより、どういうつもりだ。ここは洲崎や玉の井とは訳が違うんだぞ」
「大して変わりゃしねえよ。待合に連れ込むか店でヤるかの違いだけさ」
 同期と知って緊張が緩んだのか、へらへらと笑う仲矢の悪びれない態度に、敦の全身に炎がともった。
 ふらふらする肩を掴み、
「遊びだと言ったな。貴様にとってはその程度かもしれんが、あの女給は一生消えない傷を負ったんだぞ。分かってるのか!」
「うるせえ! 女給なんぞ売女と一緒だろうが。いちいち騒ぐんじゃねえよ」
 唾をまき散らしながら叫ぶと、仲矢は敦の手を振りほどこうと暴れ出した。
 もみ合いになるふたりを、部下たちが強引に引き離す。
「あいつらはな、チップと引き替えに股開いてる。先から承知の上で女給やってるんだよ。あの女はチップをせびってきやがったから、金の分だけ突っ込んでやったんだ。それのどこが悪いんだよ!」
 赤鬼のような形相で、仲矢は怒鳴り散らした。
「貴様……、恥を知れ!」
「いけません、副長どの!」
 胸ぐらを掴もうとした敦は、背後から柳原に羽交い締めされた。
 こいつはなにも分かっちゃいない。
 半年前に出会った女給たちは、決して堕落した女ばかりではなかった。
 ある者は病気に倒れた家人を助けるために、ある者は飢饉で食うに困った親に売られたために、ある者は割のよい仕事だからと情夫にだまされたために。
 のっぴきならない事情ゆえに夜の街で働く彼女たちを、勝手な偏見で食い物にしていいはずがない。
 チップだって、雇い主から給料が出ぬため、生活の足しにすべく受け取ると聞いた。決して肉体の対価としているわけではない。
 きっと、あの人ならそう言うはずだ──。
 ふと目の前を、断髪洋装の少女がよぎった気がした。
 はっと我に返り周囲を見回すが、むさくるしい軍服ばかりで少女はいない。くだんの女給は部下の手により別の場所に運ばれている。
 ──今、なにを……
 大きく息を吐いた敦の様子を見て、安堵したらしい柳原が戒めを解く。
 一気に頭が冷えた敦は仲矢に向き直り、
「ともかく、麹町分隊まで来てもらおう」
と告げた。
 するとそれまで傲然と構えていた仲矢が、明らかにうろたえはじめた。
「そりゃ勘弁してくれ、大事にしたくねえんだ」
「なんだと?」
「俺、もうじき陸大の再審(二次試験)なんだ。おまけに筒川連隊長どのの娘さんと縁談が決まってる。なあ、見逃してくれよ」
 哀れっぽく両手を合わせる仲矢を、敦は憮然と見下ろした。
 軍人の蛮行については、多くの場合上官などが内々に処理し表に出さない。
 仮に連れの同僚が酔いつぶれていなければ、彼が上手く立ち回り、部隊内で握りつぶされただろう。
 仲矢の話を聞くに、彼は今まさに伸るか反るかの瀬戸際である。こんな時期に婦女暴行で逮捕されたなど知れてはお先真っ暗だ。
 だが、そんな事情は考慮するに値しない。
「関係ない。連れて行け」
 そう部下に命令し、背を向ける。悲鳴に近い哀願が飛んできた。
「悪かった、やりすぎたよ。反省してる。あの女にも詫び金出すからさ。頼むよ、同期じゃねえか」
「同期だろうがなんだろうが、犯罪者には変わりない。反省なら留置場で飽きるほどするんだな」
 馬鹿な同期を振り向こうともせず、敦は部下たちの間を抜け立ち去ろうとした。


 その背中に、
「てめェ、羨んでるのか」
と、恨みがましい声が投げつけられた。思わず歩を止め、振り返る。
「どういう意味だ」
「俺が陸大受験するってんで、邪魔するつもりだろ。自分が行けなかったから、妬んでるんだな」
「そんなつもりはない。俺はただ法に則って裁くべきだと言ってるだけだ」
「ほんとは後悔してんだろ、陸大蹴ってさ。でも病気の母ちゃんのために諦めたんだよな、泣ける話じゃねえか」
「……黙れ」
「なのに肝心の母ちゃん死んじまって、ぜーんぶオシャカだ。こんなことなら見殺しにしてもよかったんじゃ……」
「黙れ!」
 とめどなく回転する仲矢の舌を、敦は一喝して止めた。
 口調は荒げたがしかし、胸の奥は不思議と平静だった。
 母を悪し様に言われようが、陸大行きを蹴ったことを笑われようが、さほど痛くはなかった。
 過ぎたことを悔やんでも仕方がない。もはや、そう開き直っていた。
 そんな敦を、真っ赤に充血した目がどろりと見据えた。視線の奥に、嘲笑と若干の媚びがうかがえる。
「でもいいよな、貴様は。陸大蹴ってもまだ元帥閣下に可愛がってもらえるんだから」
「もういい、無駄話は終わりだ。柳原、頼んだぞ」
「逃げるなよ。見たぜ、例の新聞」
「新聞?」
「九月のクーデターのやつさ。浅倉大尉どのも馬鹿だよな、疲弊した農村を救うだのなんだの、全体田舎モンは視野が狭くていけねえ」
 おっと、話が脱線した。
 にやにやしつつ、仲矢が続ける。
「元帥閣下の孫娘、写真で見たけど結構美人だなあ。貴様が護衛してたらしいな、上手く取り入ったもんだ」
 どくん、と心臓が跳ねる。
「なにを……」
「あの娘、この近くで探偵やってるって聞いたぜ。いいとこのお嬢さんがなに考えてんだか。コッチの病気って噂もあるけど、どうなんだよ実際」
 とんとん、と仲矢は自分のこめかみ辺りを人差し指で叩いた。口許には下世話な笑みが浮かんでいる。
 冷えていた敦の胸に、沸騰しそうな熱が流れ込んだ。
「まあイカれてなきゃ、パレードに乱入なんて真似できねえよな。新聞記事のせいで見合い相手が激減したって、中将閣下がお嘆きらしいぜ」
 なにがおかしいのか、仲矢は馬鹿笑いした。
「でもそいつらがビビって手を引いてくれたおかげで、お鉢が回ってきたんだろ。頭の弱いお嬢さまと引き替えに将来安泰ってか。貴様もなかなかの策士だな」
「やめろ!」
 とうとう敦は爆発した。
 今度こそ胸ぐらをひねり上げ、ぎりぎりと締める。三寸以上丈が違うせいか、仲矢はほとんど天井を仰ぐような形だ。息が詰まり、みるみる顔がどす黒くなってゆく。
「そんなのじゃない。貴様になにが分かる!」
 違う、断じて違う。
 先ほど通り過ぎた姿が、ふたたび目の前をよぎる。
 あの人は誰よりも真っ直ぐで、信念を持っていて、輝いている。
 そんな彼女を、出世の道具に利用するつもりなど、微塵もない。考えも及ばない。
 それを、それを──!
「あの人を侮辱するな!」
「く、葛葉……。はな……」
「副長どの、おやめください!」
 柳原が必死に止めに入る。とうとう引きはがされ、解放された仲矢は床にへたり込んだ。ぜいぜいと喉を鳴らしている。
「暴力はいけません。落ち着いてください」
「──すまん」
 弟を叱るような声音で諭され、敦は素直に引いた。ひとつ深呼吸をすると、
「とにかく隊へ戻る。こいつを立たせて連れて行け」
「はっ」
 放心状態で腰を落とした仲矢を、屈強な部下たちが「失礼します」と両脇から抱え上げた。畑から抜かれたカカシのような格好で、将来の幹部候補生──となるはずだった人材──が連行されてゆく。
 後に残った敦と柳原は、カフェーの店長に事情聴取をすべく、便所を後にした。

     三

 あらかた処理を終わらせ庁舎を出たのは、夜の十時近くだった。
 乗換のしやすい神田橋の市電停留所へと、疲れた足を引きずってゆく。
 帰り際、柳原がぼそりとつぶやいた。
「自分たち下士官は、上官の意向に逆らうようなことはいたしません」
「なんだ、突然」
「もし副長どのが同期のよしみで見逃されても、自分たちはなにも言えません。上官に黒いものを白と言われれば、黙って従う。それが軍人というものであります」
 敦より十ほど年かさの曹長は、落ち着き払った態度で続ける。
「ですが、副長どのは不正を見逃そうとはなさらなかった」
「当然だ。他のやつらはともかく、俺は同期だからといって大目に見たりはせん」
 苛立ちも手伝ってじろりと睨みつけるが、柳原は動じなかった。
 真正面から敦の視線を受け、
「──あなたの部下で、誇りに思います」
 そう一息に言うと彼は、失礼いたしますと敬礼を残し、執務室を出て行った。
 ゆっくり閉まる扉を思い出し、敦はひとつ首を回した。肩に鉛を背負っているようだ。
 特別なことはなにもしていない。ただ、自分の職務を忠実に果たしただけ。時局や人の顔色を読む風見鶏のような器用さは、生来持ち合わせていない。
 同期だろうと上官だろうと、悪は悪として断じる。
 それしか、自分にはできないのだ。
 やってきた市電に乗り込み、座席からぼんやり外を眺めた。この辺は夜になれば人気も絶え、あたりは真っ暗だ。
 やがて電車は、乗換駅の九段坂下に到着した。
 ホームに降り立った敦の全身を、一月の寒風が凶器さながらに切りつけてきた。思わず二の腕をさする。
 そういえば、外套をあの女給に羽織らせたままだった。
 彼女はすぐに最寄りの病院へ搬送された。部下が医者から聞き出した容態では、殴られた際にできた内出血が顔のあちこちに認められ、また局部がひどく損傷しているという。むごい話だ。
 助けられなかった。
 うら若い婦人の未来を、台無しにしてしまった。
 絶望的な無力感が、敦の喉をせり上がってくる。
 どうにか飲み込み顔を上げたとき、印象的な建物が目に入った。平屋かせいぜい二階建ての木造建築が多い界隈で、ひときわ目を惹く鉄筋の偉容。
 東京で一、二を争うモダン集合住宅・九段坂アパートメントだ。
 深い漆黒の中、アパートメントはほの明るい光をまとっている。
 いつの間にか、敦は停留所を後にしていた。


 目の前には、九段坂アパートメントが立ちふさがっている。
 ここに寝泊まりしていたのは、つい半年前。何年も経った気がするが、まだそんなものか。
 二階に並んだ窓へと視線を移す。一番右端は真っ暗だが、その隣には未だ灯りがともっていた。
 あそこは、彼女の住居だ。
『お嬢さま』のプライベエトな空間であるため、敦は中へ立ち入ったことはない。だが間取りは事務所と同じだから、だいたいの見当は付く。
 いま彼女は、なにをしているのだろう。
 一日の業務を終え、ゆったりと食事を取っているのか。風呂で汗を流しているのか。もう寝床に入るころだろうか。
 ──環さん……
 かの人の名を胸の内でつぶやいたとほぼ同時に、堪えきれない激情が敦を襲った。
 郷愁にも通じる懐かしさと、泣き出したいほどの孤独感。
 ──ぼくには、どこにも居場所がない
 どこへ行っても疎んじられる。
 慕ってくれる部下はいるが、自分じゃなくてもいい。それが軍隊というものだ。
 分かっている。
 それもこれも、自分というものを持たないで今まで生きてきたせいだ。
 周囲の思惑に翻弄され、根無し草のごとくふらふらと流されてきた。己をしかと保てぬ者を、誰が必要としようか。
 すべては、自分のせいなのだ。
 だが、あまりに辛い。
 誰にも求められず、落ち着くことの許されないこの身が、唯一とどまれた場所。
 それが、あのアパートメント──環のそばだった。
 ことの始まりは、中将閣下の命ではあった。
 当然のごとく歓迎されず、幾度も追い返されそうになった。しつこく食い下がっていたら、そのうち彼女はあきらめたのか自分を置くことを許してくれた。
 やがて、調査に行き詰まり意見を求められ、聞き込みのお伴として連れ出された。自分を助手として認めてもらえたようで充実感があった。
 のちに正体を明かし、出世レースから脱落した過去を話しても、彼女の態度は変わらなかった。
 彼女だけだ、敦を敦と見てくれたのは。
 ──ぼくの居場所は、あそこだ……
 ふらりと、敦の足が動く。なにかに導かれるように、背を押されるように。
 上海への異動が発令してから、一度もここへは来なかった。
 会えば、辛くなるから。
 顔を見れば、別れがたくなるから。
 だが、もう一度──会いたかった。
 突然部屋を訪問したら、彼女はどんな顔をするのか。
 もうずいぶん遅い。さぞ迷惑そうにするだろう。部屋に入れてもらえず閉め出されるかもしれない。
 だけどもし、あの扉を開けてくれたら──。
 もう一度、側にいることを許されたら──。
 誘われるがままに石段を踏みしめ、エントランスのガラス戸に手を掛ける。ひんやりとした取っ手の感触。
 その冷たさが、敦を夢の世界から引きずり戻した。呆然と、自らの手を見下ろす。
 ──なにをしてるんだ、ぼくは……
 ぐっ、と強く拳を作った。
 手のひらに爪が食い込み、痛みが寝ぼけた脳髄を叩き起こす。同時に、先ほどの仲矢の声がよみがえった。
『いいとこのお嬢さんがなに考えてんだか。コッチの病気って噂もあるけど、どうなんだよ実際』
『新聞記事のせいで見合い相手が激減したって、中将閣下がお嘆きらしいぜ』
『頭の弱いお嬢さまと引き替えに将来安泰ってか。貴様もなかなかの策士だな』
 ──だめだ、だめだ!
 迷いを断ち切るように、敦は頭を振った。
 仲矢の言いぐさでは、環の悪評は相当広まっているらしい。このままでは噂は一人歩きしてしまい、やがて最悪の状況へと至るだろう。
 奇行に走り政略結婚の市場から弾かれた不良娘を、同じくエリートコースから脱落した不良憲兵に“払い下げる”と。
 そんな扱いをさせてはいけない。
 彼女には、無限の可能性と抱えきれない幸福が待っている。
 噂が落ち着けば、一介の憲兵など足元にも及ばない良縁が舞い込んでくるはず。やや思慮に欠けるきらいはあるものの、彼女は根が素直で情に厚い。きっと、幸せな家庭が築けるはずだ。
 彼女の人生を壊してはいけない。
 わずかな逡巡の後、敦はきびすを返した。夜更けに婦人の住む部屋を訊ねるなど、噂を広める格好の追い風だ。振り向かず停留所へと向かう。
 会わないほうがいい。それが、彼女のためなのだ。
 だが、それでも。
 ──もう一度だけ、顔を見よう
 日を改め、憲兵ではないただの『葛葉敦』として、彼女に会おう。
 別れを口に出すことはない。
 言えば彼女がどういう行動に取るか予測できないし、なにより傷つけたくない。彼女の父である中将閣下の差し金による左遷だと、気づかせてはならないから。
 市電を待つ間、どうやって彼女を呼び出すかを考えていた。ふと隣で待つ客の読む新聞に、映画館の広告を見つけた。
 彼女が足繁く邦楽座で映画を鑑賞してるのを、敦は思いだした。
 未婚の令嬢を映画館へ呼び出すなど不真面目きわまりないが、日の高いうちならさほど問題もなかろう。
 どんな映画がいいだろう。
 あまり詳しくないが、おてんばな彼女のことだ。痛快な冒険活劇なら喜ぶはず。
 ──まあいい。切符売り場へ行けば分かるさ
 次の休日に、映画館へ行こう。そして、彼女の好きそうな映画の券を買って送ろう。
 その後すぐに、上海へと旅立とう。
 もちろん──さよならは言わずに。
 ようやく決心した敦の元へ、ゴトゴトと音を立てて市電が到着した。





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