「では、確かに承りました」
契約書に署名捺印を済ませた依頼人は、おずおずと顔を上げた。一見地味だが値の張る装いの、品のよい中年女性だ。
すがるような視線を受け、笑みを作る。
「桐ヶ谷さま。ご心痛、お察しいたします。ご家族と娘さんのためにも、早期にご報告できるよう尽力しますので、今しばらくお待ちください」
敦の言葉に、桐ヶ谷夫人は着物の袂で目許をおおい、「よろしくお願いします」と何度もうなずいた。
手を貸しつつ、事務所の扉まで案内する。慇懃な一礼を残し、桐ヶ谷夫人は去っていった。
足音が完全に消えたことを確認してから、廊下に出て「本日は終了しました」の札をかけた。すでに午後五時を過ぎており、事務所は真っ赤な西日に満ちていた。
ふと見ると、夕日を背負った環がむっつりと唇を尖らせていた。
「ずいぶんと不機嫌そうだな」
「不機嫌にもなるわよ。なによ、あの回りくどい依頼は!」
どん、と机にこぶしを振り落とす。
「『娘が結婚したいと連れてきた男が、財産目当てのようでうさんくさいから、素性を調査してほしい』なんて、まだるっこしいったらありゃしない。そんなめんどくさいことせずに、正面切って問い詰めたらいいじゃないの!」
「問い詰めるって、具体的にどんな手を使って?」
「そんなの、二、三発ぶん殴って締め上げるのよ」
なんとまあ、荒っぽい。血の気の多さは相変わらずだ。
呆れつつも、敦は答えた。
「アカの取り調べじゃないんだ。そんな物騒なやり方をすれば、相手につけいる隙を与えることになる。重要なのは、確固たる証拠だよ」
「じゃあ聞くけど、その証拠とやらがなんの役に立つの? 娘の相手が気に入らないんなら、追い返して二度と会わせないようにすればいいだけでしょ。証拠なんて必要ないわ」
やけに絡んでくる。理由はだいたい察しが付くが。
「財産目当てだという動かぬ証拠を突きつけることで、男に反論の余地を与えない。と同時に、お嬢さんの目を完全に覚まさせる。今のお嬢さんにとっては、親の反対なんて火に油を注ぐようなものだ」
「火に油、って……」
「反対されればされるほど、意固地になる。この心境、きみならよく分かるんじゃないか?」
そう揶揄すると、とたんに環は口をつぐんだ。頬をふくらませてそっぽを向く。
戦闘放棄した彼女に、敦は苦笑しつつ、
「本当は、きみ宛の依頼がご無沙汰からすねてるんだろう」
と言ってやると、すごい剣幕でにらんできた。
「違うわよ、バカ! なにさ、ちょっとばかり担当の事例が続いたからっていい気になって!」
語るに落ちる、とはこのことだ。
『二宮探偵事務所』あらため『エヌ・ケイ調査事務所』では、依頼内容によって環か敦かのどちらかより適任である方が担当するという形態を取っている。環は主に痴情や金銭トラブルなど、敦は信用調査や裁判証拠収集などが多い。
今回の件は、依頼主が“できる限り穏便に事を済ませたい”との希望だったので、必然的に敦が受けることになった。
環に“穏便”を求めるのは、先日の新聞で話題となったハチ公に飼い主の死を伝えるくらい難題である。
「だいたい、あの依頼人ってばあたしのこと助手だと思ってたのよ。失礼しちゃう」
「しょうがないさ、お茶を出してくれたから勘違いしたんだろう」
ふだん雑務全般を担当してくれる成瀬日向子は、家族と九州方面へ旅行中だ。留守の間はどちらか手の空いた方が茶を入れることになっている。
「もういいわ、好きなだけ証拠集めとやらに励んでなさいよ。時間だからもう用意しなきゃ」
ぶつぶつ文句を言いながら、環は椅子から立ち上がった。机を回り込んで、化粧室へと向かおうとする。
その前に、敦は立ちふさがった。
「なに?」
怪訝な顔で、環は顔を上げた。
「……今日も行くのか?」
「ええ?」
なにを今さら、という響きだ。
「そうよ、金曜日はお店に出るって約束だもの」
「…………」
事務所のすぐ下は、早川ユキ子が経営するバー『ラウール』だ。ここを事務所として環に斡旋したのも、二宮に居場所を知られないよう代表者にと名を貸してくれたのも、明石町の借家を見つけてくれたのも、すべて彼女である。
そのことに関してユキ子が恩を着せることはなかったが、義理堅い環はみずから店の手伝いを申し出た。
当然敦はいい気がしなかったし、ユキ子も環が人妻であることを理由にやんわりと辞退した。しかし一度言い出したら聞かない環は、「カフェーのように隣で給仕をせず、カウンター越しに話し相手をするだけだ」と、強引に押し切ってしまった。
そうして、今では週に二回ほど、情報収集と称してカウンターへ立つようになった。
今のところ大したトラブルはないようだが、ユキ子から聞くところによると、やはり環目当てに来店する客が増えたという。
「情報収集ならいくらでも方法はあるだろ。どうしてそこまで酒場にこだわるんだ」
「別にこだわってる訳じゃないわよ。敦さんこそ、心配しすぎだわ。前みたいに待ち伏せされたりしてないんだから大丈夫よ」
「これから先、されないという保証はない。心配なのは待ち伏せ云々じゃなく、環の危機意識の薄さなんだ」
ずばり指摘してやると、彼女は柳眉を逆立てた。
「それってつまり、あたしが平和ボケしてるってこと?」
「聞こえは悪いが、そういうことだよ」
一見世間慣れしているようだが、やはりお嬢さま育ちであるからか、どこか身の回りに無頓着なところがある。そこへ加えて、生来の暴走特急ぶりだ。危なっかしいことこの上ない。
「分かったわよ。ヘンな客がいたら気をつけるわ。それでいいんでしょ」
捨て台詞を残し、環は敦の脇をすり抜けようとする。
その腕を取り、強引に引きずり戻した。
「ちょっと、痛いってば……」
抗議の声をものともせず、環の両脇に腕を入れて持ち上げ、背後の机に座らせた。こうすると、ちょうど目線の高さが一緒になるのだ。
真正面から見つめ、噛んで含めるように言った。
「勘違いしているようだけど、ぼくは『これから気をつけてほしい』じゃなくて『行ってほしくない』と言ってるんだよ」
「え……」
「上海でも話しただろう、『酒の相手をするのはいい気がしない』と。どうしてぼくの嫌がることを続けるんだ」
そう、それがなによりも気に入らないのだ。
敦が嫌だと言っていることを、「自分は大丈夫だから」としつこく続ける環の神経が、許せない。
すると何を思ったのか、環はふっと口許を持ち上げた。挑発的な笑みだ。
「なあんだ。だったらはじめからそう言えばいいじゃない」
「なにをだ?」
「要するに、ヤキモチ焼いてるんでしょ。あたしがよその男としゃべるのが面白くないんだ」
ふふん、と勝ち誇ったように言う環に、敦はうなずいた。
「そうだよ」
「へ?」
「嫉妬してる。きみはぼくの妻だ。ほかの男に色目を使われて、気分がいいわけないだろう」
事実なのではっきり認めると、環はたちまち頬を赤くした。照れるくらいなら最初から言わなければいいのに。
ふたたび顔を逸らそうとするが、もう一方の手も添えて両頬をおさえ、素早く唇を奪う。しばらく口付けを交わしてから解放すると、さっきまでの反抗的な態度はどこへやら、恥ずかしそうに口許にこぶしを当てていた。
結婚してから半年が経つが、環はいまだ色事に慣れることはなく、敦の求めにも初々しさを忘れることはなかった。日ごとに研ぎ澄まされてゆく快楽にも、戸惑いつつも素直に身を委ねる。そこには普段の威勢の良さは、微塵も感じられない。
海外の言葉に『昼は淑女のごとく、夜は娼婦のごとし』というものがあるそうだが、彼女はさしずめ『昼は烈女、夜は乙女』である。
最初は真面目に戒めるつもりだったが、環のしおらしい反応につい悪戯心が沸き起こった。襟元を飾るリボンをほどき、第一ボタンを外してみる。
あわてて前をかき合わせた環が、
「ダメ、こんなとこで……」
「どこならいいの?」
「え……その、家とか……」
「そんなの、いつもと同じじゃないか」
普段この事務所には、敦と環、そして助手の日向子が詰めている。当然、色気のある会話も状況もない。あるのはただ、機械的な日常だけ。
だが今は、ふたりきりだ。おまけに、営業時間は終了している。誰も邪魔する者はいない。
“いつもと違う状況”が、一種の背徳感とともに敦の背を後押しした。
調子に乗ってもうひとつボタンを外すと、純白のシミーズがのぞいた。自分のネクタイをゆるめてから、机の上に広がった書類を脇に寄せる。
そこへ環を押し倒し、むき出しの首筋に口付けを落としつつ、空いた手でスカートの裾を割って膝頭を撫でた。絹靴下のすべやかな感触に、期待はいや増す。
だが敦の不道徳な戯れも、
「もう、ダメだってば」
という抵抗とともに、あっけなくかわされた。
素早く身を起こし机から飛び降りた環は、「とりあえず今日は行かなきゃ。十時には終わるから、待ってて」と言い残し、バタバタと事務所を出て行ってしまった。
逃げ足の速さにしばし唖然としたが、気を取り直して先ほどの依頼に取りかかるべく、自分の机についた。
環が店に立つ日は、上がりの時刻まで事務所で待つことにしているのだ。
二
どれほど時間が経ったころだろう。
いつしか作業に没頭していた敦は、ガラスが割れる甲高い音を耳にして、はっと顔を上げた。時計の針は、午後九時前を指している。
──なんだ?
足音を忍ばせて窓際に寄り、外をのぞき見る。建物の前の道路には、誰もいない。するとあの音は、階下のバーからだろうか。
ガラスが割れたからとて、即揉め事というわけではない。酔った客が誤ってグラスを落としたりすることがあるからだ。
息を殺して階下の気配をうかがう。
するとふたたび激しい破壊音とともに、はっきりとした女の悲鳴、そして男の怒号が聞こえた。
──喧嘩か、それとも……
しばらくして乱れた足音が近づき、事務所のドアがノックされた。『ラウール』のもうひとりの女給である八重子が、真っ青な顔で立っていた。
「助けてください! タマちゃんが、タマちゃんが……」
「環がどうかしましたか」
問い詰めても、八重子は混乱しているのか要領を得ない。
「お客さんが暴れて、手を付けられないんです。それをタマちゃんが止めようとして……」
みなまで聞かず、敦は事務所を飛び出した。通用口からいったん外へ出て、バーの裏口から中へ入る。ビールケースなどが積まれた小部屋を通り、カーテンの隙間から店内を観察した。
まず、ユキ子の太鼓帯が目に入った。その前にあるカウンターに座った客たちは、一箇所に固まって萎縮している。その視線の先に──環がいた。厳しい表情で誰かをにらんでいる。
「俺たちに出て行けって言うのか! 女のくせに生意気な!」
明らかに酔いでろれつが回っていない、男の罵声が響いた。ここから姿は見えない。
もう少しカーテンを引いて、相手を確認する。
そこには、カーキ色の軍服を着たふたり連れが立っていた。
──なるほど、そういうことか
「タマちゃんは、葛葉さんに知らせなくていいって言ったんです。でも……」
いつの間にか背後にいた八重子が、泣き声でそうつぶやいた。
おそらく、環は敦に迷惑がかかると思い、あえて知らせるなと八重子に伝えたのだ。だいたいの事情を飲み込んでいるユキ子も、そう考えたのだろう。だが、血の気の多い軍人ふたりを向こうに回して、女たちだけで対処できるはずもない。
「なんだこの店は、お高く止まりやがって。いいからさっさと酌をしろってんだ!」
男のうちやや背の低い方が、大声で怒鳴った。すでに相当きこしめしている様子で、上体がふらついている。
「お店をめちゃめちゃにされて、お酌なんかできるわけないでしょ。さあ、帰ってちょうだい!」
環は負けじと怒鳴り返す。カウンターに立つ八重子も、角の立たない言い方で彼女をフォローした。
するともうひとりの男が、一歩前に足を進めた。
「うるさい女だ。これは“制裁”の必要があるな」
いくら怒鳴っても臆しない環の元へ歩み寄り、にやにや笑いながら右手を伸ばした。
陸軍式の“制裁”ならば、まず間違いなくビンタだ。あの調子では、その上に何をやらかすか知れたものではない。
カーテンを引き明け、敦は店内へ進み出た。
「──お客さん、もうそのへんにしてください」
突然の加勢に、軍人たちは一瞬ひるんだようだ。女ばかりだと思って好き放題していたらしい。
だがこちらがひとりだと分かると、たちまち威勢が戻ったようだ。ふんと鼻を鳴らし、
「なんだ、ずいぶん頼りなさそうな用心棒だな。それともこの店の主人か」
と、せせら笑った。
彼らの全身に視線を走らせる。
まだ若い。年の頃なら二十と少し、星ひとつの階級章から、任官して一年程度の少尉であろう。
赤い襟章と「3」の数字、軍帽の星章を囲む桜葉とで、近衛歩兵第三連隊所属であることが知れた。
こちらを振り向いた環が「まずい」という顔をする。口を開く前に後ろへ下がらせておき、ふたたび彼らに向き直った。
落ち着け。
正常な判断を喪った彼らが、どういう行動を取るか予測できない以上、元憲兵であることを匂わせてはならない。
敦は冷静に判断し、ことさら丁寧な口調で言った。
「ここは静かに酒を楽しむ場所であって、女性が接待する店ではありません。ご希望に添えなくて申し訳ありませんが、ほかを当たってもらえますか」
しかし近衛兵らは、敦の低姿勢な対応に増長したのか、
「聞いたか、接待する気はないんだとよ。酌をしない女給なんぞ、なんの役に立つんだ」
「まったくだ。『国防婦人会』を見習って、奉仕の精神を養ってもらわんとな」
と、げらげら笑い出した。
自主的に出征兵士の慰問を行う国防婦人会と、相手を問わず遊興の接待をする女給とは、そもそも比べること自体がナンセンスだ。敦は根本から正したい欲求に駆られたが、事を荒げたくない一心で聞き流しておいた。
あまりに敦が動かないため、彼らはますます図に乗ったらしい。ひとりが顔を歪め、やおら腰の軍刀を手に取った。
そして、あろうことかさやに収めたまま振り回して、カウンターに残っていたグラスをたたき落としたのだ。
瞬間、目の前が深紅に染まった。
軍刀は、ただ腰にぶら下げているだけの武器ではない。
軍人の矜持、魂である。
戦闘以外で、ましてや無抵抗の市民に対して脅し振るうなど、もってのほか。
なるべく“穏便に済ませる”つもりだったが、彼らの暴挙を前にしてその考えは消し飛んでしまった。
『義を見てせざるは勇無きなり』。
あらん限りの怒気をこめて、ふたりをにらみつける。
敦の迫力に気圧されたのか、近衛兵たちはぐっとあごを引いた。一触即発といった雰囲気が、狭い店内に満ちる。
だが緊迫した空気は、突然開かれたドアによって破られた。
四、五人の軍人たちがどっとなだれ込み、狼狽する近衛兵たちを取り囲む。
輪の中からひとりの男が進み出て、
「麹町憲兵分隊の、柳原曹長であります。器物損壊の現行犯で、おふたりを連行します」
誰か通報したのか、と見渡すが、みな一様に首を横に振る。通報もないのに、どうやって駆けつけたのか。
──そうか、監視だ
敦と環には、免官後つねに憲兵の監視がついている。今は誰が見張りをしているのかは知らぬが、その者が──おそらく匿名で──所轄に通報したのだろう。だからこんなに早く到着したのだ。
ふと、柳原がこちらを見た。視線が合う。
──まずい……
彼は、かつて敦の部下だった男だ。もっとも、上海に飛ばされる直前の数ヶ月間ではあるが。
気づかれねばよいのだが。
唇を噛みしめる敦に柳原は、
「事情を聞きたいので、こちらへ」
と、あごで外へ出るよう示した。
懸念の表情を浮かべる環にひとつ目配せしたのち、おとなしくついて行く。あの横柄な態度からすると、気づかれてなさそうだ。
集まりかけていた野次馬は、憲兵隊が散らしたらしい。今は遠くから透き見する者が数人いるだけだ。
先を歩いていた柳原が、かかとを軸に振り返った。身構える敦に向かい、丁寧な敬礼をする。
「──ご無沙汰しております、葛葉中尉どの」
サイドカーに乗せられた近衛兵たちの目が、飛び出さんばかりに見開かれる。みるみる顔色が冷めていくのが、夜目にも分かった。
「……やめてくれ。もう、軍は止した」
「承知しております。ですが自分にとってかつての上官であった事実は、変えられません」
「ほんの一時期だけだろう。それも、たいした働きも残していない。上官の資格なんてとっくに失せた」
「いいえ」
腕を降ろした柳原は、まっすぐ敦の目を見て続けた。
「あなたは、立派な憲兵だった。優秀で、忍耐強く、そして──規律正しい」
居心地の悪さに黙っていると、
「……まだ、信じられないんです」
と柳原はわずかにうつむき、つぶやいた。軍帽のひさしで表情は読めないが、声音には苦いものが混じっているようだった。敦が免官のうえ、さらに憲兵の監視対象になっていることは聞かされているのだろう。
「自分には、詳しい事情は知らされていません。ですが、あなたが軍規を犯すような人ではないことは、よく知っているつもりであります」
「買いかぶりすぎだ」
「そうかも知れません。ですが……」
「よせ、それ以上言うな」
あまりに敦の肩を持ちすぎると、柳原もまたマークされてしまう。見張りは今も、この騒ぎをどこかで注視しているはず。仲間同士で腹の探り合いなど、させたくなかった。
口を閉ざした柳原は、部下の運転する車に乗り込もうとした。
扉が閉まる寸前、
「上海の猪塚は、自分と同期であります。彼もまた、同じ思いを抱いているはずです。──失礼します」
とつぶやきを残し、去っていった。
しばしその場に立ち尽くしていた敦の元へ、環がやって来た。
「敦さん……」
大きめの瞳に、不安の影がちらつく。いつも気丈な彼女らしくない。
安心させるため、つとめて朗らかな声で返した。
「大丈夫だ。さあ、片付けよう」
三
残った客たちに謝罪して回り、店内を片付けてゆく。
途中でユキ子が「残りは明日でいいわ」と切り上げたため、ふたりは帰途につくべくネオンあふれる銀座大通りへと出た。夕食がまだなのでどこかへ寄るつもりだった。
道路拡張で一時期姿を消していた柳並木が、秋の心地よい夜風にやさしく揺れている。その足許には、渓流のような人波が続いていた。
この時刻に食事を提供できる店は限られてくる。あまり気は進まないが、穏健なカフェーなら女性連れでも手頃だろう。
東通りは屋台が出ている分渋滞がひどいため、建設中の教文館ビルの角を曲がり、四丁目の交差点へと向かう。
途中、それまで黙ってついてきた環が、ぽつんとつぶやいた。
「……ごめんなさい」
「なんだい、突然」
「憲兵隊が来る前に、あの軍人たちを追っ払おうと思ったの。でも結局、騒ぎを大きくしただけになっちゃった」
いちおう、騒動の一因を作ったという自覚はあるらしい。
苦笑しつつ答える。
「きみはよくやってくれたよ。でも、あまり無鉄砲に向かっていくのは考え物だな。これからは遠慮せずに、ぼくに助けを求めればいい」
「でも、知り合いに会いたくないでしょ? さっきのも麹町分隊って……」
「平気だよ。人員異動があったみたいで、知り合いはいなかったから」
環の懸念を取り除くため、あえて嘘をつく。するとようやく、環はほっと肩を下ろした。
竣工したばかりの新服部時計店の前で、市電を見送る。おびただしい数の人間が、交差点を渡っていった。
やがて敦は、事務所で待っていた時間に考えていたことを口に出した。
「……やっぱり、店の手伝いは続けてもいいよ」
「どうして? 本当は嫌なんでしょ?」
「そりゃあ、本音では止めてほしい。でも、環がやりたいという意志を抑えつけるのは、無理やり見合い結婚させるのと変わらないかな、と思い直したんだ」
環が意に染まぬ結婚で己を殺すのを見たくないがために、恩義ある二宮に楯突き駆け落ち同然に結婚したのだ。そうすることが、唯一の手段だと信じて。
それなのに、敦がここで環の意志を無視してがんじがらめにしてしまっては、なんの意味もない。
彼女は純粋にユキ子への好意でやっているのだし、なによりも「これから気をつける」という言葉を信じなければならない。
相手を信じられなくなったら、夫婦としておしまいだ。
そう話すと、環はしばらく黙っていたが、
「じゃあ、こうするわ」
するり、と敦の腕に指がかかる。
「しつこいお客には、あたしに旦那さんがいることをぶちまけちゃうの。そうすれば、下心のある人は来なくなるでしょ?」
「いいのか、それで」
よくは分からぬが、客足が減れば店として困るのではなかろうか。
「いいのよ。そんな助平な客は来てくれなくても一向に困らないわ。ユキ子さんだって、きっとそう思ってるはずよ」
すました顔で言う環に、つい笑ってしまう。
「そうしてもらえると、ぼくも平穏でいられるな」
「まったく、嫉妬深い旦那さんを持つと大変だわ」
冗談ぽくため息をつく環に、敦は応酬した。
「ぼくは逆に、心の広い妻を持ってよかったよ。これで、桐ヶ谷さんの依頼も遠慮なく調査できそうだ」
「どういう意味?」
きょとんと見上げてくる環に、にっと笑みを作る。
「お嬢さんの連れてきた男が、よそに女を囲ってないかどうか調べるんだよ。銀座や新宿のカフェーに、吉原や洲崎。玉の井のご婦人方にも聞き込みへ行ってこよう。立ち話というわけにもいかないから、座敷には上がらないとな。もちろん、きみは快く送り出してくれるんだろ?」
遊郭や私娼街と聞いて、環はぎょっと目を剥いた。両手で敦の腕をつかみ、ぶんぶん振り回す。
「ダメよ、そんなとこ! 絶対ダメ!」
「仕事だから仕方がない。大丈夫、言い寄られてもちゃんと断るから」
「イヤ! あたしがいるのに、ほかの女のとこなんて行かないで!」
だんだん高くなる声を制し、
「そんなに心配しなくても、ぼくはそんなにもてやしないさ。それに……」
「なによ」
「ぼくには、きみだけだ」
嘘もてらいもない、率直な気持ち。
それをそのまま口に出すと、環はたちまち赤面してうつむいた。
「……あたしも……」
その先は、ごにょごにょとごまかしてしまう。
ちゃんと聞きたかったが、往来ではこれ以上は無理だ。
帰ったら、ゆっくり問い詰めるとしよう。
市電の途切れたのを見計らい、敦と環は手に手を取って、足早に大通りを渡った。
了