東京フラッパーガール 掌編『女ともだち』

     一

 黒板消しを両手に持ち、窓から身を乗り出して思いっきりはたく。沸き起こった大量の白粉は、折良く吹いた風に持っていかれたため、成瀬日向子は粉を吸い込まずに済んだ。
 十分はたいたのち黒板に戻していると、同じ掃除当番の級友たちの声が聞こえた。お家はよいけれど、どちらかというと蓮っ葉な子たちだ。
「ね、お聞きになりまして? 佐和子さんのこと」
「ええ、今し方。四年生の篠崎さまでしょう?」
 お掃除の手を止め、彼女らはくすくす笑っている。
「佐和子さんって、もともと篠崎さまにモーションだったじゃない。秋の演奏会では『すっかりチャームされてしまったわ』なんて話してたものね」
「篠崎さまは馬鹿にシイクだから、てっきりもうエスがいらっしゃるのかと思っていたわ。それにしても憧れのお姉さまと一対になれたからって、佐和子さんったら浮かれすぎじゃなくって」
「英語の授業中も、先生に指されてへどもどしてらしたわ。きっと篠崎さまのことを考えていたのよ」
 彼女たちの会話は最新の女学生語ばかりで、きっと大人の方にはチンプンカンプン、さながら異国語のようだろう。
 翻訳かつ要約すると『佐和子さんは上級の篠崎さまのことを、演奏会で『すっかり魅了された』と話していたほどに熱愛していた』『篠崎さまはとても素敵だから、もう妹分がいるかと思っていた。憧れのお姉さまと相思相愛になれて、佐和子さんは相当浮かれている』という意味になる。
「いやね、あの方たち。お教室であんな話するなんて不真面目ですわ」
 いつの間に横に来ていたのか、同じく当番の顕子さんが耳許でささやいた。
 優等生でお公家さん出身の顕子さんは、とても真面目な方だ。彼女たちの使う軽薄な女学生言葉や、上級生のお姉さま方に対するあからさまな賛美を、常日頃から「品位あるこの学校にふさわしくない、好ましくない」と目の敵にしている。
 日向子自身はそういったものを、愛読している『少女の友』で目にしているし、お世辞にも優等生とはいえないので、それほど拒否反応はない。しかし、人前に出す勇気もなかった。
 適当に笑ってごまかし、中断していた掃除を再開した。手を休めていた級友たちも、ようやくほうきがけをはじめた。


 すっかり綺麗になった教室を出て靴箱のところまで来ると、親友の早苗が待ち伏せしていた。
「お疲れさま、もう終わらせて?」
「ええ、なんとか。これでしばらくお役御免だわ」
 誰しも掃除当番などやりたくない。ふたりは声をそろえて笑った。
 靴を履き替え、外に出る。グラウンドの向こうでは、近く開かれる関東女子排球選手権大会の練習が行われていた。
「さっき、佐和子さんのことが話題に出ていたわ。四年生のお姉さまからお手紙をいただいたとか」
「篠崎さまのことでしょう。あの方、崇拝者が多いものね。佐和子さんはお可愛らしいから、ちょうどお似合いじゃなくって」
 もうすっかり噂が広まっているらしい。この手の話は、まるで羽が生えているかのように素早いものだ。
「そういう早苗さんも、櫻川さまとレタアのやりとりをなすってるんでしょう」
 たずねると、早苗はあわてて人差し指を口許にやった。
「日向子さんったら、およしになって。まだ学校の中よ」
「誰も聞いてやしないわよ。それより、お姉さまからお手紙をいただくのって、どんなお気持ちなの?」
 重ねて問い詰める。すると早苗は、しろい頬をほんのり染めた。
 体操の選手で人気者の上級生・櫻川さまから早苗にお手紙が届いたのは、三月ほど前だ。はじめていただいたときは、お手紙を胸に抱いて感涙にむせび泣いたそうだ。
「そりゃあ、やっぱり天にも昇る気持ちよ。靴箱の中にお手紙が入っているのを見つけたときには、心臓が口から飛び出してしまいそうになるわ。お姉さまはいつも、まさを先生(当時の人気挿絵画家・加藤まさを)の便せんをお使いになるから、すぐ分かるの」
「ふうん……」
 まさを先生のレタアセットなら自分も使うし、早苗さん宛に出した回数も両手の指では足りないほどなのに。
「それがね、同じまさを先生のレタアでも、差出人を確認するまでもなくお姉さまと他の方との区別がついちゃうのよ。不思議よねえ」
 頬に手を当て、早苗は続けた。
「お手紙をいただいたその日は、雲の上にいるようだわ。まるで宝物のようで、封を切るのがもったいないの。でもお返事が遅くなっては失礼だから、お手紙を拝見するでしょう。そして、あれこれ頭を悩ませてお返事を書いて、お姉さまの靴箱に忍ばせる。またその瞬間が、なんともいえずときめいてしまうのよ。ああ、お姉さまはどんなお顔でわたしのお手紙を読まれるのかしら、どんな風にお思いになるんだろう、って。想像すると眠れなくなっちゃう」
「すごいわねえ」
 つくづくローマンチックな話だ。
 自分で聞いておいて、日向子は胸焼けがしそうだった。
「日向子さんこそ、お姉さまはいらっしゃらないの?」
「え?」
 どきっ、と胸が高鳴る。
「日向子さんも佐和子さんに負けないくらいお可愛らしいのに、そういう話はついぞ耳にしないわ。ねえ、本当はお手紙をいただいたこと隠しているんじゃなくって?」
 鞄を抱きしめた早苗が、肩でつついてくる。
「隠すだなんて……。わたしには縁のない話だもの」
 そう、縁のない話。
 こんな自分を可愛がってくださるお姉さまなんて、いるはずがない。
 こんな──不品行で猟奇的趣味のある、最低な自分など。
 黙り込んだ日向子をどう取ったのか、
「またまたー。憧れの君くらいいらっしゃるでしょ? どちらの方か、白状なさいな」
「そ、それは……」
 立ち止まって騒いでいると、
「お二方、よろしいかしら」
と、背後から声がかけられた。
 振り返るとそこには、ひとりの上級生がたたずんでいた。
 彼女の顔を見るやいなや、日向子と早苗は同時に脇へ飛びすさった。必死に頭を下げる。
「す……、すみません! 通り道をふさいでしまいまして……」
「まあ、いいのよ。わたくしこそ、おしゃべりの邪魔をしてごめんなさいね」
 にっこり微笑むと、上級生は悠々とふたりの間を横切った。
 背筋をピンと伸ばし、あごを上げたその横顔は、ため息が出るほど美しかった。
 気がつくと、周囲の生徒たちの視線が、その上級生のお姉さまへと注がれていた。みな一様にうっとりとした眼差しだ。
 そんな下級生たちの視線をものともせず、袴の裾をほとんど乱さない完璧な歩き方で、彼女は学校の門をくぐっていった。
 先に口を開いたのは、早苗だった。ほう、とため息をつきながら、
「やっぱり素敵ねえ、二宮さまは……」
 最上級生の二宮環の名を知らないものは、この学校にはいない。
 陸軍の有力者たる二宮伯爵家の令嬢であると同時に、非の打ち所のない優等生。
 なおかつ美貌の持ち主で、学内の少女のみならず近隣の男子学生にも信望者がいるともっぱらの噂である。他のお姉さま方が大和撫子を思わせるまさを先生や虹児先生(蕗谷虹児)の絵とすれば、二宮さまはエキゾチィクな華宵先生(高畠華宵)のそれだった。
 中には、長州の田舎侍だの成り上がりだのと悪く言う方もいるが、そういう方はたいていが御維新前は佐幕派のお家柄だったりする。
 かくいう日向子も、ひそかな思慕を抱いているひとりだった。
 しかし、あまりにも高嶺の花のため、誰にも言えないでいた。全校生徒の憧れの的である二宮さまと平凡な自分では、釣り合いが取れない以前の問題である。
「そういえば、二宮さまもまだ決まった妹君がいらっしゃらないそうね」
 ぽつりと早苗がつぶやいた。
「どなたも喜んでお仕えするでしょうに、どうしてかしら。わたしだったらどんなに幸せでしょう」
 あれほど櫻川さまへの慕情を口にしていたのに、現金なものだ。そう日向子はちらりと思ったが、もちろん表には出さなかった。
「ね、日向子さんもそう思わなくって?」
「え、ええ……。そうね」
 あいまいに答えた日向子は、そっと自分の胸を押さえた。
 二宮さまの妹君になられる方は、いったいどんな方なのだろう。
 自分でないことだけは、確かであるが。


 三日後の放課後、日向子は廊下を小走りに駆けていた。
 本当は全力疾走したいところだが、先生に見つかるとお目玉なので控えている。だが逸る気持ちは抑えられず、不安でたまらなかった。気持ちばかりが前へ前へと出てしまう。
 ──どうしよう、誰にも見つかっていませんように!
 いつもお昼をともにする早苗が、今日は風邪でお休みだった。そんな事情もあり、日向子はお弁当片手にひとりで中庭に出た。先日見つけた、お気に入りの場所があるのだ。
 だが、そこに忘れ物をしてしまった。
 筆箱やノートの類ならば、さほど困ることはない。だが肝心の忘れ物は校則で禁止されている“雑誌”、しかもその中身は大いに問題のあるものだった。
 先生は言うに及ばず、生徒であっても見つかればただではすまない。きっと教員室に届けられ、大騒ぎになるだろう。
 今さら悔やんでみても後の祭り。
 どうかどうか、まだあそこにありますように。
 長い廊下を抜け中庭に着いたころには、日向子の息はすっかり上がっていた。おそるおそる木と繁みに囲まれた場所をのぞくが、そこにはなにもなく、ただ下草が生えているばかりだった。
 あまりのショックに、日向子はその場にへたりこんでしまった。
 ──もしかしたら、風で繁みに吹き飛ばされてしまったのかも……
 そう簡単にあの分厚い雑誌が飛ばされることはないと分かっていても、一縷の望みをかけて辺りを捜索する。しかし、忘れ物はどこにも見当たらなかった。
 どうしよう、どうしたらいいのだ。
 きっと、明日の学級会で発表されてしまう。下手をすれば、全校集会で晒し者にされる可能性だってある。
『このような非常識で破廉恥で、反道徳的な雑誌を持って来た方はどなたですか。怒らないから、正直に名乗りなさい』
 きっと、そうして吊し上げられるのだ。
 しかし、知らんぷりはできない。
 うかつにも日向子は、ページのしおり代わりに自分の名前入りの鉛筆を挟んでしまっていたからだ。
 もう、おしまいだ。
 このことは、貿易会社の社長をしている父の耳にも入るだろう。きっと、学校も辞めさせられてしまう。
 そして学校を退学させられたという悪い噂は、方々を駆け巡る。
 そうなれば、日向子の人生は一巻の終わりだ。
 恐怖と絶望感がこみ上げ、目尻が熱くなる。ぐす、と鼻を鳴らしたそのとき、下草を踏む軽い音が聞こえた。
 ──誰? あれを見つけた人なの?
 にわかに動悸が速くなり、耳の中に反響する。がさがさと繁みがかき分けられ、危うく悲鳴を上げそうになった。
「あら……」
 繁みの間から顔を出したのは、誰であろう二宮環だった。泣きべそをかいている日向子を、小首をかしげて見下ろしている。
「こんなところでどうなさったの? お加減でもお悪いの?」
 すっかり虚脱状態の日向子は、返事ができなかった。舌がもつれて、上手く言葉にならない。
 それを見た二宮さまは、すっと目を細めた。形のよい淡紅色の唇を持ち上げ、
「もしかして……お忘れ物かしら」
と言った。
 ──二宮さまが……!
 よりによって、憧れの二宮さまに見つけられてしまうなんて。
 羞恥と自己嫌悪で、日向子の全身は今にも沸騰しそうだった。
 彼女の顔を見られず、たまらず面を伏せた。あふれる涙が鼻の脇を通り、次々とこぼれてゆく。
「……すみません、わたし……わたし……」
「泣かなくてよろしいのよ。さあ、お顔を上げて」
 繁みをかき分け隣にやってきた二宮さまが、優しく声をかけた。そっと肩に手を添えられ、日向子は重い頭を上げた。
 二宮さまは改めて名を名乗り、まずは涙をお拭きなさいな、とレエスのハンケチを差し出した。混乱しきった日向子は、素直に受け取る。石けんの香りのするハンケチを目許に当てていると、昂ぶった感情が徐々に落ち着いてきた。
 そうして日向子が静まるのを待っていたかのように、
「これ、お返しするわね。どなたかに見られる前に、隠しておしまいなさい」
と、二宮さまは上下をノート二冊で挟んだ状態で差し出した。
 あわてて鞄にしまう日向子へ、静かに語りかけた。
「失礼だとは思ったのだけれど、中身を拝見したわ。成瀬日向子さん、とおっしゃるのね?」
「……はい」
 きっと、鉛筆をご覧になったのだろう。ごまかしようのない物的証拠を前に、日向子は観念してうなずいた。
「そう。何年生?」
「三年生、です……」
「学校に雑誌を持ってくるのは違反、というのは、もちろんご存じよね」
「……はい……」
「ましてや、あのような内容の……」
 二宮さまは、皆まで口にしなかった。日向子は死にたくなるような心持ちで、ただうなずくのみだった。
 日向子の忘れ物は『新青年』という、モダーン好みのインテリ青年向け娯楽雑誌である。
 内容は最尖端の流行動向や映画評論など多岐に渡るが、もっとも人気が集中しているのは若手作家による探偵小説だ。その多くが猟奇殺人や死美人や吸血鬼といったグロテスクな筋書きで、良家の子女ならば手に取ることはおろか、新聞広告を目にすることも憚られる代物である。日向子もまた、家人に知られぬよう細心の注意を払って購読していた。
『少女の友』や『少女画報』のような健全な少女雑誌ですら、婦女教育によくないと憂慮する当学校において、このような雑誌を持ち込んでいると知られれば、必ずや不良の烙印を押される。それほど危険な雑誌だった。
 品行方正な二宮さまは、きっと日向子を軽蔑なさっているに違いない。
 否、そうされるのが当然なのだ。
 ──続きが気になったからって、学校に持ってくるんじゃなかった……
 すっかり萎縮してしまった日向子の肩に手を置いたまま、
「安心なさって。わたくし、誰にも言いつけたりはしないわ」
と、二宮さまは穏やかに言った。
 ──え……。今、なんておっしゃったの?
 信じられない思いで、まともにお顔を見る。そこには、楽しくて仕方がないといった笑顔があった。
「その代わり、少しお話ししませんこと」
「は、はい……」
 思わずうなずくと、二宮さまは日向子の顔をのぞき込んできた。あまりの近さに、心臓がダンスを踊りはじめる。
「日向子さんは、こちらをずっとお読みになっているの?」
「はい、この一年ほど……」
「読み終えた雑誌は残していらっしゃる?」
「一応、すべて……」
 すると、二宮さまの瞳がきらめいた。ぐいと身を乗り出し、
「じゃあ、江戸川乱歩先生の『陰獣』が掲載されている九月号と十月号もお持ちなのね。素晴らしいわ!」
「は……?」
 とっさに返事をしかねた日向子を尻目に、二宮さまはうきうきした調子で両の指を組み合わせる。
「お願い。その二冊、わたくしに貸してくださらないかしら。ご迷惑でなければ、他の号も」
「はあ……」
「嬉しい! ありがとう、感謝するわ」
 頬を生き生きと染めてはしゃぐ二宮さまに、日向子はただただ呆然とするしかなかった。
「あの、二宮さまは『陰獣』をお読みになったことがおありなんですか?」
 問うと、彼女は大きくうなずいた。
「ええ。夏の増刊号を兄の部屋から拝借して読んだのだけれど、父に見つかって取り上げられてしまったの。それ以来、続きが気になって気になって仕方がなかったのよ。これでやっと、大江春泥の正体が明らかになるのね!」
 人気探偵小説家の江戸川乱歩が手がける『陰獣』は、八月号増刊と九・十月号の三回にわたって連載された。この作品は大反響を呼び、掲載号が売り切れて増版されるほどだった。
 それにしても、優等生で知られる二宮さまが、よりによって不良雑誌の『新青年』を、ましてや猟奇殺人を扱った『陰獣』を読んでいたとは。本来ならば、それらからこの世でもっとも縁遠い存在であるはずなのに。
 あまりにも予想外な事実に戸惑う日向子をよそに、二宮さまは夢見るような表情で続けた。
「甲賀先生に大下先生、小酒井先生の作品も読めるのね。ほかにどんな作品があるのかしら?」
「ええと……。よく書かれているのは、海野先生や夢野先生ですね。夢野先生は十月号に載った『死後の恋』という作品が、良くも悪くも強烈な内容でしたわ」
「まあ!」
 日向子の答えに、二宮さまの瞳がさらにきらめきを増した。
「『死後の恋』なんて、秘密めいた題だこと。どんなお話なのかしら。あ、内容はまだ言わないでね、読んでからのお楽しみにしたいから」
 軽く尖らせた唇の前に人差し指を立て、二宮さまはいたずらっぽい表情を作った。
 学校有数の令嬢たるこの方が、こんな顔をするのか。
 こんな溌剌とした──。
「それにしても、『新青年』の購読を許していただけるなんて、日向子さんのお家は寛容なのね。うらやましいわ」
「いえ、うちも本当はダメなんです。特に父が『女らしくせよ』とうるさくて。だから、お花のお稽古のついでに隣町の本屋でこっそり買ってるんです」
 そう説明すると、二宮さまの眉が険しくなった。
 そこではじめて日向子は、自分がひどく馴れ馴れしい口調であったことに気づいた。 つい二宮さまにつられてしまった。
 あわてて謝ろうとするが、
「そう、あなたもなの。どうして世の父親という人種は、娘を抑圧しようとするのかしら。やんなっちゃう」
「え……」
「いいじゃないの、女学生が探偵小説を読んだって。ねえ?」
 お下げに編んだ黒髪を指先に巻き付けつつ、二宮さまは続ける。
「だいたい、婦女子が殿方と同じように娯楽に興じてはいけないって風潮自体がナンセンスだわ。雑誌もだめ、映画もだめ、銀ブラもだめって、うるさいったらありゃしない。アムステルダムオリンピックでの人見選手の活躍をご覧なさいな、婦女子だって殿方と同等に活躍する時代が来たのよ。それをまだ明治の腐った価値観を引きずっているなんて、馬鹿馬鹿しいことこの上ないわ」
 なんとまあ、立て板に水とはこのことだ。
 二宮さまの辛辣かつ流暢な弁舌にあっけに取られていると、突然矛先を向けられた。
「そう思わないこと?」
「は、はい。そうですね」
 つい同意すると、二宮さまは微笑んだ。いつもお見かけする令嬢然としたそれではなく、少年のような笑みだ。音で表すなら「にっこり」ではなく「にやり」となるだろう。
 その笑みに、日向子の心臓はいっそう高鳴った。
 二宮さまは、こんな雑誌を読む日向子を軽蔑しなかった。
 そればかりか、同調してくださった。
 日向子が好きなものを、同じように好きだと言ってくださった。楽しげに語ってくださった──。
 早まる鼓動は、胸の奥深くに隠していた本音をも揺さぶり、やがて喉元へと押し出していった。
「──わたしが探偵小説を好むのは、謎解きや犯人捜しの妙を楽しむのであって、決して殺人を犯したいからではありません」
 一度堰を切った本音は、濁流のように唇からほとばしってゆく。
「たしかに、探偵小説の題材は反社会的なものが多く、少年少女によからぬ影響を与える懸念はあるとは思います。けれどそれが直接不良行為の原因につながるかというと、わたしも疑問が残ります」
 二宮さまは口を挟まず、静かに耳を傾けている。
「探偵小説を読むから不良になる、という決めつけは、他に原因があるのを認めたくない大人の、責任転嫁ではないかと思われるのです」
 一息に話してしまってから、日向子は口許を抑えた。
 じわじわと後悔がわき上がってくるが、同時に憑き物が落ちたようにさっぱりとした心持ちになった。
 本当は、コソコソと隠れて探偵小説を読むのがいやだった。
 まるで非合法の活動をしているみたいで、また後ろ暗い趣味を持つ自分が汚れたもののように思えて、誰にも心中を明かせなくなっていた。
 天真爛漫で裏表のない早苗にも、本当の自分を見せることができなくなっていた。
 それがいま、誰にも打ち明けられなかった本音を、二宮さまにぶちまけてしまった。
 ご迷惑ではなかったろうか、と、おそるおそる顔を上げると、意に反して二宮さまは今日一番の晴れがましいお顔をなさっていた。
「日向子さん……、あなたもなのね」
「え?」
「あなたも、そう考えてらっしゃったのね。まるでわたくしの本心を代弁してくれたかのようだわ」
 しろい頬がますます紅みを増し、茶色がかったエキゾチィクな瞳は濡れたように輝いている。
 しなやかな両の指を情熱的に組み合わせ、
「わたくしの他に同じ考えを持つ方がいらっしゃるなんて……。しかも、この学校に」
と、つぶやいた。相当感極まっているらしい。
「日向子さんのおっしゃるとおりよ。わたくしたちは、自由に小説を楽しむことすら許されない。なぜだか分かる?」
 いつの間にか二宮さまの指は解かれ、代わりに強くこぶしを握りしめていた。
「世俗的な小説を読むと、外の世界に憧れを抱いてしまう。周りの大人たちは、それが怖いのよ」
 圧倒される日向子を置いてけぼりに、二宮さまは続ける。
「わたくしたちは花なの。温室で大切に育てられ世間の風に当たったことのない花々は、やがて極上の花束として上流社会に出荷される──。そう、結婚市場によ」
 かなり力を込めて握っているのだろう、二宮さまの指はすっかり色を喪っていた。
「妻を支配下に置きたい男たちは、無菌状態の花を欲しがるわ。なにも知らず、余計なことを考えない、自分たちに都合の良い花をね。なら枯れない造花でいいと思うでしょ? でもそれではいけないの。理由は単純よ。社交界でぼろを出さない会話の必要があり、お家のために子どもを産んでもらわないといけないから、生花でなければならないの。わたくしたちはさしずめ『人形の家』のノラなのよ!」
 そこまで一気に言うと、二宮さまは袴に包まれた両膝にこぶしを勢いよく打ち下ろした。
 いまや探偵小説がどうとかいう話ではなくなっている。かなり思考が飛躍したようだ。
 しばし息を整えていたが、
「……ごめんなさい、ちょっと興奮しすぎちゃった」
と、きまりが悪そうにつぶやいた。
 そこには、日向子が見かける“品行方正な憧れのお姉さま”はいなかった。
 日向子と同じ“抑圧に苦悩する、ひとりの少女”だった。
 およそ伯爵令嬢とは思えない伝法な物言いで、二宮さまは大仰に溜息をついた。
「あーあ。どうして殿方って、あんなに頭が硬いのかしら。きっとポマードで髪を固めすぎて、脳ミソまでガチガチになってるのよ」
「本当ですね。うちの父なんてポマードの付けすぎで、ちょっとやそっとの風では一筋だって乱れませんもの」
 日向子の言葉に、二宮さまは表情をゆるめた。
 ずりずりと膝でにじり寄り、
「わたくしたち、よいお友達になれそうだわ。これからも仲良くしてくださる?」
「わ、わたしとですか!?」
 思いも寄らない申し出に、日向子は目を剥いた。
「わたくし、あなたにこれまでないくらいのシンパシイを感じているのよ。それに、探偵小説のお話が思う存分できるんですもの。こんな素敵なことってないわ。ね、いいでしょう?」
 才色兼備で手の届かない、憧れのお姉さま。
 つい昨日までは、そう思っていた。遠くからお姿を拝見するだけで満足だった。
 だけど、今日知った二宮さまの素顔は、誰よりも自分に近いものだった。
 シンパシイを感じたのは、日向子も同じ。
 これはきっと、神様のお引き合わせなのだ。
 一生に一度出会えるか否かという運命の人との──。
「わたしで……わたしで、よろしければ」
「いいに決まってるじゃない、よろしくね。これから『ヒナちゃん』ってお呼びしてもいいかしら」
 朗らかに笑う二宮さまに、日向子の胸は熱くなった。
「じゃあ、わたしは──」

     二

「──ちゃん、ヒナちゃんってば」
 遠くから、声がする。
 ああ、この声は──。
 軽く揺さぶられ、日向子は波間をたゆたうような眠りから目覚めた。
 目の前に、硬い板のようなものがある。その上に突っ伏していたのなら、学校の机だろうか。
 寝ぼけ眼で頭を上げると、自分をのぞき込む視線とぶつかった。
「……環、おねえさま……」
「え?」
 大きな目が何度か瞬くのをぼんやり眺めていた日向子は、我に返って周りを見回した。
 学校ではない。
 古く狭苦しい、雑居ビルデングの一室。壁紙は薄汚れ、ところどころ剥がれている。
 自分が突っ伏していた机は学校のそれではなく、いくつも引き出しが取り付けられている。右手奥、日向子から見てちょうど九十度の角度には、同じ机がふたつ並べて置かれていた。
 そして、目の前に立っているのは──。
「す、すみません、所長!」
 あわてて立ち上がる。勢いが付きすぎて椅子が後ろに倒れてしまった。
 そうだ、ここは銀座の探偵事務所。
 日向子はここの事務員として働いていて、所長の二宮環から留守番を言いつかっていたのだ。
「ずいぶん気持ちよさそうに寝てたわよ。起こそうか迷ったくらい」
 くすくす笑いながら、環は薄手のオーバーを脱いだ。下からあらわれたのは、夢に出てきた紫色の着物ではなく、モダンな洋装だった。対する自分は、色こそ同じ紫だが、葡萄柄の着物である。
 気恥ずかしさとみっともなさに、思わず両手で己の頬を包む。
「わたしったら、いつの間に……。留守番失格ですわ」
「いいのよ、気にしないで。それより──」
 部屋の隅に置いた衣紋掛けにオーバーを引っかけた環は、こちらを振り返った。口許に笑みが浮かんでいる。
「ヒナちゃんに『お姉さま』って呼ばれたの、久しぶりだわ」
「すみません、寝ぼけてしまって。所長って呼ばないといけないのに……」
「違うの。昔にかえったみたいで、すごく懐かしくなっちゃった」
 ふふっ、と環は笑う。
「お客も来ないようだし、今日はもう閉めましょ」
「あ、はい。すぐ片付けますね」
 促され、日向子は完成させておいた書類を手に取った。


 通常より三十分ほど早く事務所を閉めたふたりは、階下のバーで準備をしていたユキ子に挨拶してから銀座の大通りに出た。
「葛葉さん、また警察に呼ばれたんですか?」
 九段下の『二宮探偵事務所』をたたみ、銀座にあるバーの二階に移転したのは、半年前のことだ。
 あらためて開業した『エヌ・ケイ調査事務所』においては、環の夫である葛葉も『所長』に当たるのだが、つい今までのくせで環の方を「所長」と呼んでしまう。必然的に彼は名字で呼ぶことになる。よく考えたら環も「葛葉さん」なのだが。
「ええ。これでもう三度目よ。今は暇だからいいけど、お客が来たらどうしてくれるのよ。貴重な働き手を返して欲しいわ」
 まったく、と環は唇を尖らせた。
 先月依頼のあった桐ヶ谷家の一件は、ひとり娘の節子さんが結婚相手として連れてきた浪岡という男の調査であった。
 調べてみると、浪岡は過去にも同様の手口で、両家の令嬢を籠絡して駆け落ちし、令嬢が持ち出してきた金が尽きたところで彼女を遊郭に売り飛ばした前科があった。
 証拠を集め桐ヶ谷家に提出したところ、さすがのお嬢さんも目が覚めたらしく、浪岡とはきっぱり縁を切ったという。
 講談の類なら大団円で終わるところだが、浪岡は恨みの矛先をこの探偵事務所へと向けた。
 ピストル片手に事務所へ押しかけ、桐ヶ谷家から受け取った報酬をよこせと脅迫してきたのだが、応対した葛葉によっていともあっさりと返り討ちにあった。その手並みは素人目ながらも鮮やかなもので、そういえばこの人は元憲兵であったと今さらのように思い出した。
 結局浪岡はお縄になったのだが、その後が面倒だった。
 やれ事情聴取だのなんだのと、何度も警察がやってくる。刑事たちの興味は元憲兵の探偵という奇妙な経歴だけでなく、彼を飛び越して妻の環へ、果ては一介の事務員である日向子にまで及んだ。
 駆け落ち中の伯爵令嬢と嫁入り前の娘への介入を阻止すべく、葛葉はふたりの盾となり警察の呼出に応じて出頭するようになったのだ。
「ヒナちゃんにも迷惑かけちゃったわね。お父さま、怒っていらっしゃるんじゃないの?」
 両親には、環の事務所で働くことは伝えてある。本音では職業婦人まがいの真似をさせたくないらしいが、雇い主が二宮家の令嬢ということで、なんとか大目に見てもらっているのが実情だ。
 とはいえ、両親は環が駆け落ち中の身である事実までは把握していない。二宮家は環の家出を対外的には伏せており、また一社長とは言え所詮は平民の成瀬家が、伯爵家に問い合わせすることなど恐れ多いため、かろうじて秘密は守られている。
「とりあえず、今のところは大丈夫です。ただ、いつ警察から連絡が行くかは……」
「そうねえ。しばらくお休みしてもらった方がいいかもね」
 思案顔で言う環に、
「あの、その件で折り入ってお話が……」
と、切り出した。
 先日の休暇明けからこっち、いつ話をしようかと悩んでいたのだ。
 日向子の思い詰めたようすに、着物の柄と同じ葡萄を思わせる環の目が、軽く見開かれる。
「なんだか深刻そうね。じゃあ、どこかで腰を落ち着けて話しましょうか」
「はい、お願いします」
 そうしてふたりは、銀座通りを南に向かった。

     三

 銀座五丁目より南で婦人ふたり連れで入店できる喫茶店といえば、『不二家』や『森永キャンデーストア』、『資生堂パーラー』などが代表選手だ。
 しかし今日は逆に女性の耳がない方がよかったので、去年開店したばかりの『テラス・コロンバン』に入ることになった。
『テラス・コロンバン』は、店の正面がショウウインドウのようにガラス張りで街路に直接面しており、行き交う人々を眺めつつお茶を飲むことができる。それがいたく尖端的だとして流行作家たちがちょくちょく立ち寄ることで有名な店だ。今日は残念ながら、文士さまのお顔拝見とはいかなかった。
 ガラス扉を開け、店内に入る。会社の終業時刻まで間があるからか、同時にそろそろ夕食の支度に取りかかる時分であるからか、サラリイマンも婦人客も少なかった。
 日向子は紅茶と名物のメランゲ、環は食欲がないからとプレーンのソーダ水のみを注文した。
 注文を待つ間、ふたりはなんとなく往来を眺める。
 今年──昭和七年──は、目まぐるしく世相が変わった。
 中国との戦闘で幕を開け、いまだ戦火は収まろうとしない。三月の血盟団事件に続き、五月には海軍将校による首相暗殺事件が起こった。七月のロサンゼルスオリンピックで日本が七つの金メダルを獲得し、一時は明るいムードになったのも束の間、つい一週間ほど前にはアメリカのギャング映画さながらの銀行強盗事件が発生した。
 そういう日向子とその周辺にも、さまざまな変化が起きた。
 環は、上海旅行から帰ってきた年明けから、なにやら意気消沈していた。いや、実際は今からおよそ一年半前、葛葉がふっつりと姿を消してからだ。
 そこへ突然、当の葛葉が戻ってきた。なぜか憲兵将校ではなく、ただの探偵として、そして環の夫として。
 日向子には詳しい理由は聞かされていないが、別に構わなかった。
 ふさいでいた環が目に見えて明るくなり、よりいっそう綺麗になった。葛葉もまた、軍服を着ていたときのような近寄りがたさがなくなった。
 ふたりの間になにがあったのかは知らないが、絆は固く結ばれ、傍目にも幸せそうに見える。
 それで、十分だった。
 注文の品を運んできたウエートレスが去ってから、日向子は失礼にならないよう注意しつつ口を開いた。
「実は……。勝手なお願いなんですが、事務所のお手伝いを止したいと思いまして」
「まあ」
 ソーダ水のグラスにささったストロウをもてあそんでいた環の手が止まり、葡萄を彩る長いまつげが上下した。声音に落胆と申し訳なさをにじませ、
「やっぱり、こないだの件で申し訳ないことをしたのね」
「いえ、違うんです。それより前から、ずっと考えてたんです」
 日向子はしばし逡巡したが、思い切って続けた。
 知らぬうちに、頬に血が昇ってくる。
「その……。近く、お嫁入りが決まりそうで……」
「まあ!」
 さっきと同じ言葉だが、今度は一転して喜びと驚きが混じっていた。
「そうだったの、おめでとう!」
「ありがとうございます。それで……」
 なおも続けようとした日向子だったが、その前に環の表情ががらりと変わった。柳眉を跳ね上げ、身を乗り出してくる。
 日向子が次の句を継ぐより先に、
「もしかして、お相手の方に探偵事務所へのお勤めを禁じられたの?」
「え、いえ、それは……」
「どうなの? 止めるよう無理強いされたんじゃないの? 正直におっしゃいな」
 環の指の間で、ストロウは無残にもへし折られている。こちらの首をへし折られる前に、急いで釈明した。
「いいえ、そうではないんです。その……お相手の方がお仕事でしばらくイギリスに行かれるとのことなので、できればついて行きたいと考えているんです」
「ずいぶん遠いのね。たしかヒナちゃんのお父さまは、貿易会社の社長さんでいらしたわね。お相手は仕事関係の方なの?」
「はい、父が以前お世話になった方の息子さんなんです」
「ふうん……」
 グラスに浮かんだ氷をストロウでつつきながら、環は口の端を持ち上げた。
 さっき夢で見た「にやり」である。
「ヒナちゃんの顔を見る限り、気の進まない縁談って訳じゃなさそうね」
「え、それは……。その……」
 いったん収まった頬の熱が、またもやぶり返してくる。
“顔を見る限り”とは、いったい自分はどんな顔をしているというのだ。
「その方のこと、好きなんでしょ。ね、どんな方なの?」
 いったん興味を持った環が、解放してくれる見込みはほとんどない。日向子は諦めて婚約者の人となりから馴れ初めまでをかいつまんで話した。
 最初に縁談の話が持ち込まれたのは、今年の初夏だった。
 日向子とて突然の縁談に抵抗がないわけではなかったが、母に拝み倒され仕方なく顔見せだけのつもりで出席した。
 いざ会ってみると、相手の男性は見た目こそ十人並みだが、海外留学者にありがちの軽薄さもなく、さっぱりとした飾らない性格で、気負ってきた日向子はほっと肩の力を抜いたものだった。
 日向子が結婚を決意したきっかけは、ふたりで会うようになって三回目だった。
 歌舞伎座の階段で、将棋倒しが起きた。幸い自分たちのいた場所からは遠かったから大事には至らなかったものの、事故が起きた瞬間、彼はとっさに日向子を守ってくれたのだ。
「なるほど。人間、いざというときどういう行動を取るかで、本質が現れるものだからね」
 思うところがあるのか、環は大きくうなずいた。
「その一件で、彼は信頼できる人だって確信したのね」
「はい」
 熱くなった頬を押さえつつ、日向子もまたうなずく。
 本当は、自由恋愛にあこがれていた。身分の垣根を越えた魅力的な男性と運命の出会いをしたかった。
 そう、環のように。
 しかし、探偵業務の手伝いをしていると、女を食い物にする男に、そしてだまされる女の多さに驚かされる。
 詐欺師の中には目星を付けた令嬢に近づくため、わざと運命的な出会いを演出する者もいる。
 浪岡がいい例だ。
 雇った悪党を節子さんに絡ませた上で、自分が救ってみせた。節子さんは仕組まれた罠だと知らずに運命の出会いと思い込んだ。
「あたしも昔はお見合いだけはゴメンだって思ってたけど、今になってみると身元や家柄が保証されている分、いたって安全な出会いのひとつなのよね。考えてみれば、あたしだって敦さんとはお祖父さまやお父さまに引き合わされたようなものだし」
 運命の出会いは、偶然からはじまるとは限らない。
 偶然からはじまる恋が、すべて幸せになれるとは限らないのだ。
「でもよかったわ、ヒナちゃんのお相手が信用できる人で。事と次第によってはあたしが検分してやろうと思ってたんだけど、必要なさそうね」
 果たして婚約者は、環のお眼鏡にかなうだろうか。神妙な顔で品定めされている場面を想像して、日向子はつい笑ってしまった。
「幸せになってね、ヒナちゃん」
 小首をかしげ、環は微笑する。
 その目は、嫁いでいく妹を見つめる慈愛に満ちていた。
「──はい、お姉さま」
 日向子もまた、姉に対する敬愛を込めて、見つめ返した。

     終章

『テラス・コロンバン』を出るころには、銀座通りは人の波で埋め尽くされていた。
 混雑を避けるべくそのまま西側を歩き、市電の停留所を目指す。
「先日お休みをいただいた旅行は、両親と最後の思い出作りのためだったんです」
「そうだったの、孝行娘ねえ。あたしとは大違いだわ」
 家出中の伯爵令嬢は、感心しきりのようすである。
「急なお願いで本当に申し訳ないんですが……」
「いいのよ。いつまでもヒナちゃんに勤めてもらうわけにもいかないし、おめでたいことなんだから気にしないで」
「新しい事務員の方が決まるまでは、お手伝いに寄せてもらいましょうか?」
 環は基本的に事務仕事を嫌がる。机にかじりついて書類とにらめっくらするより、外で聞き込みする方が何倍も好きなんだそうだ。自分がいなくなれば事務仕事がおろそかになるだろう。
 日向子はそう提案するが、
「いいってば。ヒナちゃんは結婚準備に専念なさいな。ちょうどあたしも事務仕事に落ち着かないといけない頃合いだし」
「どういう意味ですか?」
 訊ねると、彼女は片手で口許を押さえた。心なしか、頬が少し赤くなったようだ。
 そして、
「まだヒナちゃんには言ってなかったっけ。あのね……」
 そっと身を寄せ、素早く耳打ちしてきた。
「──赤さんが!?」
「そうなの。ついこないだ分かったんだけどね」
 うふふ、と環は頬をゆるめた。
「すごい、おめでとうございます! 葛葉さんにはもう伝えたんですか?」
「ええ。ビックリしすぎて声も出なかったわよ」
 驚いているようすを想像し、日向子もまた笑ってしまう。
 停留所で電車を待っている間、環はあでやかな笑顔で言った。
「結婚しても子どもができても、あたしたちはずっとお友達よ」
 探偵小説と少女小説に夢中になっていた女学生は、もうじき人の妻となろうとしている。
 熱っぽく近代の女性について語っていた女学生もまた、伴侶を得て子を成そうとしている。
 お互いに劇的な非日常と自由恋愛にあこがれた時間は、とうに過ぎ去ってしまった。
 でも、これだけは言える。
 大人になっても、それぞれの道を歩こうとも、真の友情はなくならない。
“妹”と“お姉さま”は、今日限りで決別しよう。
 明日からは“親友”だ。
「──はい!」
 日向子は大きくうなずくと、環の手を取って強く握った。





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