「だからすぐ帰ってくるってば! いちいち追っかけてこないでよ!」
「とんでもない、洲崎へなど行かせるわけには断じてまいりません!」
脱兎のごとく逃げ出す所長を追いかけ、葛葉敦もまた坂道を駆け下りた。しかし革靴と駒下駄では、性能に圧倒的開きがある。みるみるうちに引き離され、敵は九段坂の停留所から発車しつつある市電に飛び乗ってしまった。
所長はタラップに足を掛けた体勢でこちらを振り返り、
「昼過ぎには帰るわ。それまで留守番しといて、頼むわよ!」
と、大声で叫んだ。まるで天勝一座の女軽業師のような身のこなしである。
「待っ……、お嬢……」
諫めたくとも息切れで思うように声が出ない。敦は両膝に手をつき息を整えた。いったん眼鏡を外し、額に浮き出た汗をぬぐってから、大きくため息をつく。
また逃げられてしまった。これで何度目だろう。
「娘を連れ戻せ。ただし腕ずくではなく、本人に納得させた上でだ」と、二宮家当主・宗次郎より直々に命ぜられたのが一月前。
伯爵令嬢、二宮環。
女学校を卒業するとほどなく家を飛び出し、九段坂で探偵の真似事をしているという。
最初はすぐ終わる任務だと思っていた。
良家の令嬢ということもあり、根気よく説得すれば事の重大さに気付いて自主的に戻ってくれるだろうと信じていた。
それが、まさか──。
──こんなじゃじゃ馬だなんて、聞いてなかったぞ
納得もなにも、話すら聞いてもらえないのだから手の打ちようがない。おかげで毎日追いかけあいをするという、不毛なやりとりをせざるを得なくなってしまった。
ふたたび大きく息をつき、敦は事務所へと戻るべくきびすを返した。
ふと足元に違和感を覚え、視線を落とす。下駄の鼻緒が今にも切れそうになっている。
ここに来てから、もう三度目だ。
しょっちゅう全速力で走っているのだから無理もない。
鼻緒も持ち主と同じく、慣れないお役目に連日悲鳴を上げているのだから。
二
事務所のドアノブに手をかけた敦は、ただならぬ気配を感じた。
誰か、いる。
所長と自分のふたりしかいないはずの事務所に、たしかに誰かが入り込んでいる。
反射的に懐のブローニングに指をかけた。ドアを盾にするような体勢で、そっと室内をのぞく。
「やあ、おじゃましてるよ」
ひとりの男が、来客用の長椅子に腰掛けたままこちらを振り返った。にこにこと人を食ったような笑みを浮かべ、
「鍵も掛けないで不用心きわまりないね。きみ、助手だろう? しっかりしたまえよ」
「……どちらさまでしょうか」
すると男は立ち上がり、白麻の上着を脱いだ。長椅子の上へ無造作に投げてから、両手を顔の横でひらめかせる。
「そんな怖い顔しなくても、物盗りやスパイの類いじゃない。ほら、その証拠に丸腰だ」
男が武器を帯びていないことを確認してから、敦は懐から手を抜いた。念のため、部屋の隅に立てかけてあるほうきを確認する。いつでも手の届く距離だ。
「ぼくの顔に見覚えはないかい? これでも有名人の自覚はあるんだがね」
ふんぞり返る男の顔をにらみつつ、頭の中でさまざまな資料を繰っていく。やがて先日の新聞記事に行き当たった。
「──暗智大五郎探偵、ですね」
「ご名答」
男──もとい、暗智探偵はもじゃもじゃの頭髪をかき上げ、口角を上げた。
お茶の水に事務所をかまえ、数々の難事件を解決し、警視総監とも懇意という名探偵である。ついこないだも『マジシャン』なる怪人が起こした事件を解決したと、新聞各紙を賑わせていた。
我が所長も「自称・探偵」ではあるが、暗智氏の前では児戯にも等しい実績しかない。当然、繋がりがあるとは思えない。
「なにか御用でしょうか」
たずねると、暗智はからりと笑った。
「心配しなくても、捜査協力とかじゃないさ。ここの所長に頼むくらいなら、並越警部に依頼したほうがよほど解決が早くなる」
「…………」
おっしゃるとおり、とは、助手の口からは言えない。黙っていると暗智は手にしたシガレットケースから葉巻を取り出した。
器用にカッターを使うと、優雅な仕草で火を付けた。独特な香りが室内に充満する。
「白状すると、きみの顔を拝みにきたんだ」
「ぼくの?」
眉を寄せる敦に背を向け、暗智は部屋の奥へと歩み寄り窓を開けた。七月の熱風がぬるりと室内を舐める。
窓辺に腰掛けた暗智が煙を吐き出すと、風がゆっくりとそれらを散らした。
「そう。葛葉くん、だっけ、きみ、東京中の探偵の間でちょっとした噂になってるぜ」
こちらから名乗るより前に、当然のように名を呼ばれるのは、いい気分ではない。
ますます眉を寄せる敦に、暗智は続けた。
「『金城鉄壁の令嬢探偵に、男の助手が入った』ってね。環嬢を狙っていた一部の不良探偵どもは、いても立ってもいられないようだ」
「……なるほど、そういう意味でですか」
「まあね。なんたって彼女は陸軍きっての名家の令嬢だ。後ろ盾が欲しい弱小事務所のやつらからすれば、格好の獲物だからね。これまで捜査協力にかこつけて、どれだけのやつらが近づいてきたことやら」
「そういうあなたは違うんですか?」
敦がたずねると、暗智はとんでもないというふうに瞠目した。
「まさか、御厨女史の愛弟子だぜ。ちょっかいをかければどういう結果になるか、一目瞭然だ」
御厨とは環の師匠に当たる女探偵で、この事務所の前所長である。現在は引退してニューヨークに住んでいると資料にあった。
敦は直接面識がないが、環の無謀かつ力任せの捜査方法から推測するに、相当な女傑であるということはうかがえた。
「環嬢を狙うやつは、彼女の持つ資産や縁戚関係等が利益になるかどうかしか見ていない。自分に実力も自信もないから、余所から威を借りて少しでも飾ろうというわけさ。同じ探偵とも呼べない馬鹿どもだね」
ああそうそう、ぼくはそもそも彼女には興味ないから、警戒しなくても大丈夫だよ、と暗智はわざとらしく付け足した。
「そんな環嬢がそばに置く助手とはどんな男なのか、純粋に気になってね。なるほど、難攻不落の要塞を守る騎士というわけか。役者に不足はなさそうだ」
暗智の双眸がきらめく。好奇心があふれ出し、今にもこぼれてしまいそうな目だ。
居心地の悪さについ視線を逸らすと、暗智は「ところで喉が渇いたな」と、茶を要求してきた。図々しい客であるが、敦はこれ幸いにとキッチンへと入った。ヤカンに湯を沸かして茶筒を手に取ったところで、壁の向こうから、
「ああ、すまないが日本茶よりコーヒーのほうが好みでね。淹れてもらえるとうれしいね」
という注文が飛んできた。図々しいを通り越していっそすがすがしいほどである。
仕方なく敦は、フィルターの準備をした。
環の元へ来るまではコーヒーを淹れるどころか飲むことも稀だったが、毎日のように淹れさせられたおかげで、今では手間取らず支度できるようになった。もっとも、使命が終われば縁のなくなる技術ではあるが。
ミルで一杯分の豆を挽いていると、暗智の明るい声がかけられた。
「きみ、二宮から派遣されてきたんだろ? その格好、書生かなんかかい?」
絣の下に立襟シャツを着込み、袴に下駄履きという敦の服装を指しているらしい。
どこまで知っているんだ、と警戒しつつ、慎重に返した。
「ええ、今年の春から住み込みで……」
「小千谷さんはお元気かな?」
出るはずのない名前が唐突に飛び出し、不覚にもミルを挽く手が止まってしまった。一呼吸置いて平静を取り戻した敦は、ふたたびハンドルを回す。
「一年ほど前だったかな、とある事件でお会いしてね。今もまだ東京にいらっしゃるはずだが。どうだい?」
「……あなたのおっしゃる小千谷さんが、ぼくの知人と同じ方だという前提であれば、お変わりありませんね」
これではっきりした。
暗智は『すべてを知っている』のだ。
フラスコの湯が沸騰しているのを確認してから、挽き終わった豆をロートに移す。じわじわと湯が上昇し、あたりに芳しい香りが立ちこめる。
攪拌しようとヘラを持つ敦の手に、別の手が添えられる。いつの間にきたのか、すぐそばに暗智が立っていた。
葉巻とコーヒーの香りが入り交じり、敦は軽くめまいを覚えた。
「ああ、いい香りだ。ぼくはこの攪拌の瞬間が大好きでね、ちょっと手伝わせてくれたまえよ」
そんなことを言いつつ、暗智は敦の手からヘラを抜き取り、勝手に攪拌をはじめた。
肩が触れるほどの近さが、いっそ不気味である。
こうして並ぶと暗智は、五尺九寸近い敦とほぼ同じ丈だ。
反対側に一歩退いた敦を追いかけるように、暗智がさらに身を寄せてくる。にやり、と意味ありげな笑みを浮かべ、
「そんなに避けないでくれよ、傷つくじゃないか」
「……あなたが近すぎるんですよ。ぼくのことを調べてどうするつもりですか? なにを企んでるんですか?」
敦の質問に、暗智はサイフォンから視線を外すことなく答えた。
「心外だな、なにも企んでやしないよ。間違っても環嬢にバラすこともしないさ。そんなつまらないこと、するわけないじゃないか」
「…………」
真意の知れない暗智に、敦はますます警戒の意を強めた。
そんな敦の内心を読んだか読まずか、暗智は二度目の攪拌を終わらせた。濃褐色の液体が、フラスコに満ちる。
敦が用意したコーヒーカップに注ぎつつ、暗智は謳うように言った。
「秘密は持つ者を美しく、より魅惑的にする。それは女だけじゃない──分かるかい?」
「さっぱり訳が分かりませんが」
「きみから秘密を奪うほど、ぼくは無粋じゃないってことさ」
もじゃもじゃ髪の下からのぞく大きな目が、奇妙な光を放っている。よくは分からぬが、本能的に危機を感じた。この暑いのに、鳥肌が立っている。
後ずさる敦を満足そうに見やると、暗智はコーヒーカップを手にキッチンを出て行った。
三
たっぷり一時間かけてコーヒーを堪能した暗智は「さて、きみんとこのじゃじゃ馬ボスが帰還する前に退散するか」と言いながら席を立った。
ここぞとばかりにドアを開け、退室をうながす敦の肩を、暗智は女のような細指でさらりとなぞる。
「いつでも遊びに来たまえ。楽しみにしているよ」
葉巻のようにねばっこく、奇妙な香りのする声音だ。
「……所長があなたへの訪問を必要としなければ、ぼくが参ることはありません。あしからず」
「言うと思った。つれないね。ああ、あと……」
つい、と暗智は敦の左脇を指さし、片目を閉じた。
「『これ』はもう少し小ぶりなほうがいいな。いくら着物で隠れるとはいえ、ボスに感づかれては台無しだ。そのための書生服だろう?」
ぐっと顎を引く敦に笑いかけ、
「彼女はよほどきみを信用しているらしい。損なわないように気をつけたまえよ。それでは、また会おう!」
そう一方的に宣言すると、暗智は今度こそ事務所を出て行った。
軽やかな靴音が完全に遠ざかったのを確かめてから、敦は今いちど深呼吸をした。
──なんなんだ、あの男は……
暗智大五郎。奇妙な男だ。
だが、探偵としての技量は相当に高い。手持ちのカードはいかばかりか、計り知れない。
──暗智探偵か、覚えておこう
そう敦が胸に刻んだと同時に、事務所のドアが開いた。
「ただいま、葛葉……。って、なにこの匂い?」
中へ入るなり、環が鼻をひくつかせた。
窓を開けておいたおかげでだいぶ換気はできているが、完全に葉巻の匂いを消すことはできなかった。
テーブルに残っていたカップに気付いた環が、ぱあっと表情を明るくする。
「もしかして、依頼人が来たの? ねえ、絶対そうでしょ! どんな依頼だったの?」
敦が返答する前に、うきうきと両手を組み合わせる。ここ数日、依頼が途絶えて暇をもてあましていたところだから、環の喜びようは尋常ではなかった。
「やだもう、待っててくれたらいいのに。ねえ、連絡先聞いてるわよね? どんな人だったの、教えてよ!」
まだ一言も説明していないのに、新たな依頼人だと決めつけてひとりで喜んでいる。そんな無邪気な環のようすに、敦は複雑な思いを抱いた。
素直で真っすぐと言えば聞こえはよいが、裏を返すと疑うことを知らず、思い込みが激しいということだ。
──これでよく今まで、探偵稼業をやってこれたな……
ひそかに嘆息しつつ、敦はコーヒーカップを片付けるべくキッチンへと向かった。
洗い場でカップを持ち上げると、ソーサーとの間に小さな紙切れが差し込まれていた。二つ折りにされたそれを開く。
「健闘を祈る ──D・K」
苦笑しつつ敦は、紙片を握りつぶしてくずかごへと捨てた。
了