秀明は運んできた使用済みの皿を厨房へ戻すと、人差し指と中指とでネクタイを少し押し下げて一息ついた。軽く息を整えたのち、空のトレイを手にふたたび会場へのドアを開けた。
ざっと見たところ、回収せねばならない皿やグラスはなさそうだ。秀明は壁際に立ち、会場内をぐるりと見渡した。右耳に装着したイヤホンからは、ひっきりなしに本部からの無線が入ってくる。
普段は人待ち顔で来客を待つテーブルや椅子は壁際に押しやられ、小さな芸術品のような料理が並べられている。何人かがテーブルの前で料理に手を伸ばしているが、大半は飲み物片手に今日の主役である織伏京吾のスピーチに耳を傾けている。いや、実際は聞くふりをしているだけで、めいめいが好きなように雑談を交わしていた。
「……このような晴れがましい栄誉を得ましたことは、ひとえに先輩をはじめ皆様のご指導、励ましの賜物と心から感謝しております」
織伏の声は、還暦をいくつか超えているとは思えないほどよく通る。スピーチは内容こそ殊勝だが、口調にはどこか傲岸さが感じられる。
壇上に掲げられた『窓雪社ミステリ小説大賞受賞祝賀会』という文字をながめつつ、顎に手をやって考えた。
今回受賞した『復活の代償』は、事件が起こるずっと以前に秀明も読んでいた。発表されるやいなや、インターネットや書評などを中心に絶大な評価を得た今作は、織伏にとって初のミステリ小説であり、そのあまりの話題ぶりにミステリ好きの血が騒ぎ、めずらしく単行本で買ったのだ。
実を言うと、秀明はこれまで織伏京吾の名は知ってはいたが、著作を読んだのはこれが初めてであった。
もともと織伏はこれといったジャンルに特化せず、時代小説やSF小説や人情ものなど、さまざまな方向に手を出してきた作家だった。二十年ほど前に高名な賞を取って一躍時の人となったが、その後は大きなヒット作に恵まれず、新聞のコラムやテレビ番組のコメンテーター業などの文化人として、メディアに細々と登場していた。
このまま作家として忘れられていくのだろうか、と思われていた矢先、満を持して単行本が発表され、日本でも五本の指に入る大手出版社の文学賞を取ったのだ。マスコミ各社はこぞって織伏の名を書き連ねた。
実際、『復活の代償』はひじょうに読み応えのある、面白い作品だった。
暇を見つけながら少しずつ読もうと思っていたにも関わらず、その秀逸なストーリーとこれまでにない斬新な展開に引き込まれ、徹夜で一気読みをしてしまったほどである。世間で騒がれているのも納得できる、クオリティの高さだった。各方面の書評も、『誰も予想だにしなかった結末』『ミステリ界に新たな旋風を巻き起こした』『生まれ変わったかのような新鮮さ』と、高評価ばかりである。
しかし──。
赤ら顔をてらてらと光らせてスピーチを続ける織伏の姿を眺めつつ、秀明はずっと感じてきた違和感を反芻した。
『復活の代償』のあと、過去の著作を流し読みしたときに抱いた、違和感。
彼はどうして、今までミステリを書かなかったのだろうか。
これほど完成度の高い作品を書ける腕を持ちながら、どうして当たりもしない凡作ばかりを発表していたのか。
そして、時代に取り残され落ち目だったこの初老の作家が、なぜこれほど生き生きとした良作を手がけることができたのか。
作家の年齢と作品が必ずしも比例するとは限らない。それは物書きではない秀明にだって分かる。
しかし、彼がいままで発表してきた作品とは、どことなくテイストが違う。
根底にあるのは年相応のこなれた文体だが、時折ひどくみずみずしい感性がにじんでいるのだ。
「……今回の受賞を励みに、さらなる文学の高みに向け、これからも努力をして参る所存でございます。これからも変わらぬご支援をお願いしますとともに、あらためてこのような賞をいただきましたことに、深く御礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました」
大きな拍手とともに、織伏のスピーチが終わった。とっさに周囲に視線を走らせるが、異変は見受けられない。
秀明はさりげなくその場を離れた。
井の頭公園で男性の変死体が発見されたのは、十日前の出来事だった。
男性の身元は持っていた運転免許証から、大手出版社・窓雪社の綿田篤郎であることが分かった。死因は絞殺、死亡推定時刻は午前一時過ぎと見られている。
綿田の自宅は柏市内で、井の頭公園とは正反対である。なぜこんな時刻に、こんな場所にいたのか。
警察は殺人事件と断定、管轄の吉祥寺署に捜査本部を設置して捜査に当たることとなった。
聞き込み調査の結果、若い男性と話をしていたという目撃証言を得ることができた。同時に、鑑の方向から彼が織伏京吾の担当編集者で、『復活の代償』の執筆に深く関わった事実も明らかになった。
これだけなら特筆すべき点ではない。しかし、事件発生から三日後、綿田の仕事用メールアドレスに、一通のメールが届いたのだ。差出人は無記名、アドレスは誰でも登録できる無料ウェブメールである。
『織伏京吾、次はお前だ』
犯行予告。捜査本部は色めき立った。
当該メールアドレスを調べてみると、すでにアカウントは削除されていた。サービス運営元に情報開示を求めたところ、登録郵便番号は東北地方の過疎地域であることが判明した。氏名もデタラメで、明らかに使い捨てである。綿田のメールボックスに残っている既読メッセージに手がかりがないか探ったが、捨ててしまったのかそれとおぼしきメッセージは見当たらなかった。
平行して織伏の元へ捜査員が飛んだが、当人は知らぬ存ぜぬの一点張り。秘書である井越にも事情を聞くも、心当たりがないと言うばかり。
しかし織伏への犯行予告ならば、直接当人へ渡るルートを取るのが普通だ。織伏には一般に開かれた公式サイトもあるし、本人の目に止まる前にスタッフによる検閲があるにせよ、メールアドレスも付記されている。
担当編集者の綿田宛で犯行予告が届いたということは、犯人が何かしらの関連性を匂わせている事実を現している。
それなのに、織伏サイドでは心当たりがないと言う。
何やらきなくささが漂うが、警察としては「分からない」と言われればそれ以上は強く出られない。仕方なく、一週間後に控えていたホテルでの授賞式を延期するよう申し入れてみたが、これまた出来ないとにべもない返事である。それどころか、織伏に犯行予告が来たことも公表しないでくれと逆に頼まれてしまった。
賞を受賞し世間で話題になり、これからさらに本が売れることは想像に難くない。物騒な噂が立てられれば、売り上げに響くと考えたのだろう。こちらが身の安全を第一に考えるよう説得しても、無駄だった。
せめてもと、パーティ会場をホテルから人の出入りが把握しやすい、六本木にあるゲストハウス『ブリリアントガーデン麻布』へと急遽変更してもらい、ひそかに警察を配備して身辺警護を取り付けたのだが、それも織伏本人と彼が運営する事務所連中は渋い顔をした。結局目立たぬように、会場入口へ警備員に扮した二名、会場内の給仕に六名、会場装花や食材調達などの業者をチェックするのに二名、建物周辺に六本木署から応援に駆けつけた捜査員を配し、残りは会場内の一室を前線基地としてパーティを警護することになった。
給仕役は四係から三人、吉祥寺署からふたり、六本木署からひとりという構成になっている。秀明はそのうちのひとりである。
自慢じゃないが、給仕など学生時代のバイトでもしたことがない。窮屈な制服に辟易していたところ、六本木署の刑事課長が近づいてきて「よくお似合いですな」などとお世辞を言われ、さらにげんなりした。
刑事課長は続いて、
「彼女なんてほら、本職にも劣りませんな。誰も刑事だなんて気付きませんよ」
と、やに下がった声でささやいたきた。
その視線の先には、同じく給仕係に配された藤井の後ろ姿があった。
上半身は秀明と揃いの白シャツに黒の蝶ネクタイとカマーベスト、下はミニ丈のタイトスカートにハイヒール。
今までパンツスーツしか目にしたことがなかったせいか、スカートから伸びる長い脚がまぶしいほどだ。さらに、ウエストをぎゅっと絞ってボディラインを強調したカマーベストに、極めつけは腿から足首へと走るバックシームときた。肌色のストッキングだからまだいいものの、黒色だった日にはさぞ目のやり場に困っただろう。
「彼女、語学が堪能だそうで。いやあ、ぜひうちに来て欲しいですよ」
「そうですか」
どこまで本気なのか定かではない刑事課長の言葉を、秀明は聞き流しておいた。
正面ではこのミッションの実質的な指揮官である木下警部補が、作戦の要項を説明していた。ともかく、今日のところはパーティがつつがなく終わればそれでいいのだ。本格的な捜査は、別の班が水面下で進めている。
蝶ネクタイと首の間に指を入れ、秀明はひそかに息を吸い込んだ。
飲み物の入ったグラスを運ぶのは本職の従業員──『ブリリアントガーデン麻布』のホールスタッフたちで、秀明たちはもっぱら空いた皿などを片づける役目である。しかし、彼らは警察官が潜入しているとは知らない。挙動不審になってしまうと、招待客などに勘付かれてしまうからだ。事実を知っているのはゲストハウスの責任者数名のみであり、他のホールスタッフたちは自分たちを単なる臨時バイトだと思っている。
立食パーティということもあり、来客のすぐ近くをうろついても不審がられることはない。これまで見てきたところ、怪しげな人間はいなさそうだ。
山積みの皿を厨房へ返し、また会場へ戻ってきたところで、背後から声をかけられた。
しかし一瞬、自分のことだとは分からなかった。日本語ではなかったからだ。
イヤホンを外して振り向くと、上品そうな白人の老夫婦が立っていた。男の方が口を開くが、何を言っているのかさっぱり分からない。感じからして英語ではなさそうだが、どちらにせよお手上げだ。
本職に振ろうかと辺りを見回しかけたところ、傍らから低い女性の声がした。見ると、いつの間にいたのか、藤井がにこやかな笑顔で立っていた。
どうやら通じたらしく、老夫婦は相好を崩して早口にしゃべり出した。藤井はうなずきながら聞き入り、時々返事をしている。なんとなくアサクサとかギンザとか、それらしい単語が聞き取れるのみで、あとはまったく理解不能だ。
最後に男の方が、藤井の頬に己のそれを合わせた。洋画などでは見慣れた風景だが、実際に目の前でやられるとさすがに面食らう。
老夫婦が立ち去ったのち、秀明は藤井に礼を言った。
「助かった。なんて言ってたんだ?」
「東京でおいしいお寿司が食べられるお店を、と聞かれたので、外国人向けのお店を紹介しておきました」
「……あれは何語だ? 英語じゃないよな」
「フランス語です」
彼女が通訳をしているところを見るのは、実ははじめてである。これまで何度か持ち込まれたことはあったようだが、すべて自分のいない場所か筆談だったのだ。
「へえ。フランス語も話せるのか」
単純に感心していると、
「留学先がパリだったんで、どちらかというとそっちの方がメインですね。英語は困らない程度で、それほど得意じゃないです」
と、返された。
なるほど。偶然かもしれないが、これならたしかに非アジア系外国人が多い地域を管轄する六本木署も欲しがるだろう。
ふと、秀明の目の端になにかが止まった。
首をめぐらせると、織伏の秘書である井越と事務所のスタッフとが、こそこそと額を突き合わせている。秀明の視線を感じ取ったふたりは大げさに肩をそびやかせ、あからさまに焦った様子で会場を出て行ってしまった。
刑事としての勘が、警報を鳴らす。
怪しい。
「藤井、ここ頼む」
短く言い捨てると、秀明はふたりの後を追った。
カーペット敷きの廊下に出て、辺りを見回す。角を曲がる靴のかかとがちらりと見えた。
気付かれないよう慎重に尾行していくと、やがてスタッフ専用のバックヤードへと出てしまった。ふたりは従業員用の男子更衣室へと入っていく。この時間だと、まだ交代のホールスタッフは出勤しておらず、人が来ないと考えたのだろう。
秀明が更衣室へと近づこうとしたとき、
「羽柴さん」
と声をかけられ、ぎょっとして振り向いた。
「おまえ……!」
「尾行失敗ですよ。マル対だけじゃなく、背後にも注意しないと」
にっこりと笑う藤井に、眉を寄せる。
「会場を頼むって言っただろ。戻ってろ」
「だめです。会場はほかにもいますけど、ここでなにかあったらどうするんですか。刑事はふたりひと組が基本ですから」
たしかに、彼女の言うとおりだ。ひとりだと連絡手段や非常時に対応できない場合があるため、捜査はかならずふたりで行うことになっている。
しかし、勝手に持ち場を離れてしまうのは、イコール命令に背くということだ。
自分は慣れているからどうってことはないが、藤井を巻き添えにするわけにはいかない。
わざとドスの利いた声を出し、追い払おうとする。
「いいから戻れ!」
「戻りません! ほら、こんなことしてたら会話が聞き取れませんよ」
更衣室の方を指差され、秀明は小さく息をついた。
そうだった。こいつは俺以上に頑固で、一度決めたら動かないんだった。
「……勝手にしろ」
「そうします」
あきらめ口調で吐き捨てると、藤井はすました顔で答えた。
更衣室のドアの両端にそれぞれ立ち、室内の会話に聞き耳を立てる。誰もいないと油断しているのか、意外と声が大きい。
「──いつ来ていた?」
「三十分ほど前です。今度は、先生宛のアドレスに直接。送信元は携帯電話からのようです」
「携帯か。となると、すぐ近くまで来ている可能性があるな」
「どうしましょう。警察に連絡を……」
「バカ! そんなことをすればあれも話さなければならないだろう! 絶対ダメだ!」
「しかし、それでは先生が……」
あれとはなんだ。
秀明は藤井と顔を見合わせた。
思えば、織伏サイドは最初から捜査に非協力的であった。綿田との関係も頭から否定し、捜査に必要な情報もこちらがしつこく要求しないと提出しない。おまけに、なにかを隠しているような態度とくる。
なにか、知られては都合の悪いことがあるのだ。
そしてそれは同時に、犯人に繋がる重要な手がかりであるに違いない。
しかし、現時点で本部の木下にこの会話の内容を報告したとしても、彼らはきっと空とぼける。立ち聞きだけでは証拠にならないのだ。今この場で締め上げねば、またうやむやにされてしまうだろう。
秀明の腹は固まった。
藤井の方を見ると、彼女も同じ考えなのか小さくうなずいた。
ドアノブに手をかけ、一気に中へ踏み込んだ。両側にロッカーが並んだ殺風景な部屋の隅で、男ふたりが固まっていた。
「お話、もう少し詳しくうかがわせていただけませんか」
ふたりは声も出ないほど驚いた様子だったが、すぐに井越はえりを正した。
「なんのことでしょうか。それよりあなたがた、会場の警備に当たってるんでしょう。こんなところでなにをしてるんですか」
口調こそ居丈高だが、語尾は震えている。
秀明はひるまず、たたみかけた。
「失礼かと存じましたが、少し聞かせていただいた。犯人からコンタクトがあったようですね。どのような内容ですか?」
ことさら険しい顔で質問する。こういうときは、己の人相の悪さが大いに役に立つ。
そこへ、背後に立っていた藤井が、
「今はなによりも、織伏氏の身の安全を確保することが最優先です。何かあってからでは遅いんです。お願いします、お聞かせください」
と、あくまで丁重な姿勢で続けた。
秀明の恫喝だけでは、場合によっては相手がよりいっそう頑なになってしまう。女性である藤井の慇懃な態度は、そういった感情を軟化させる役目を担った。
まさに飴と鞭、である。
果たせるかな、井越はしばらく口をもごもごさせていたが、やがて観念したように大きくため息をついた。
「……メールが、届いたんです。サイトで公表しているアドレス宛に……」
「どのような?」
「……『復活の代償をいただきに行く』と……」
「それだけですか?」
受賞作のタイトルをもじったのか。
ますます綿田との関係が疑われる。
いや、疑わしいどころか、何らかの事実を示唆しているとしか思えない。
秀明は縮こまっている井越に、さらに訊いた。
「先ほどの会話に出てきたあれとは、いったいなんのことですか。察するに、事件に強く関連することのようですが」
「…………」
井越は唇を噛んで、うつむいたままだ。
もはやクロなのは間違いないが、この様子では口を割らせるには骨が折れそうである。
どうしたものか、と思案しかけたところで、傍らにいたもうひとりの男が顔を上げた。まだ若く、二十代半ばといったところか。
「差出人は、見当がついてるんです。ただ、公にすることができなくて……」
「小南!」
井越が鋭く制するが、小南と呼ばれた若い男は泣きそうな顔で続けた。
「あれの……、『復活の代償』の、本当の作者です」
秀明と藤井は、ふたたび顔を見合わせた。
「本当の作者とは、ゴーストライターの類ですか?」
「いいえ、もともとあれは、作家志望の素人が書いたものなんです。それを……」
「黙れ、小南!」
たまりかねた井越が、小南につかみかかる。藤井が間に割って入るが井越は、
「おまえこそ、先生を裏切る気か! あれほど目をかけていただいたというのに、この恩知らずが!」
と、わめき散らした。
「小南さん、続けてください」
「……先生が、綿田さんに持ちかけたんです。『このネタをくれないか』って。先生はもうずいぶん前からスランプに陥ってて、担当だった綿田さんも頭を悩ませてて。そんなとき、編集部に持ち込みしてきたやつがいたんです」
──まだ若く、希望に満ちていた青年だった。
一世一代の大傑作だと自負する、四百枚分もの原稿用紙をたずさえて窓雪社の門を叩いたという。
窓雪社では基本的に原稿の持ち込みは断っており、たまたま面談した綿田も最初は渋ったそうだ。しかしあまりの熱心さに、とりあえず青年の原稿をあずかり、結果は後日連絡というかたちにした。
さほど気乗りせず原稿を読みはじめた綿田だったが、驚いたことに非常に作品のレベルが高かった。久々の拾いものに歓喜した彼は、軽い気持ちで織伏に「将来有望な若手を見つけました」と漏らしたという。
綿田からすれば、埋もれていた宝物をこの手で発掘した喜びの方が大きかっただろう。作品を見せたのも、単行本の帯に織伏が推薦文を書いてくれれば箔がつく、という下心があったくらいで。
しかし、織伏にとってその作品は“応援すべき若き作家が書いた意欲作”ではなく、“手つかずのままの金の卵”でしかなかった。
まだ誰にも発見されていない、自分だけが使えるとっておきのネタ元でしか。
彼はいやがる綿田から強引に原稿を奪い取り、自分の懐に入れた。
「無名の作家をデビューさせたところで、一人前に育てるまでには金も時間もかかるし、次回作以降で取り戻せるかどうかは賭けでしかない。その点、文壇ですでに地位を確立している自分なら、一度で大きく当てることができる。ベストセラーになった暁には、分け前をくれてやる」と、そそのかして。
そうして数ヶ月後、綿田が青年に「次作に期待する」とだけ書かれた便箋を添えて原稿を返却したのとほぼ同時期、窓雪社から織伏京吾の書き下ろし新作『復活の代償』が出版された──。
「……盗作、というわけですか」
あらましを聞き終えた秀明は、苦々しくつぶやいた。
話し終えた小南はがっくりとうなだれており、対する井越は藤井に押さえられ、ふてぶてしい表情でそっぽを向いていた。
「織伏氏をはじめとする皆さんは、最初から犯人の心当たりがあったんですね。しかしその男のことを我々に話すと、盗作の事実が明るみに出てしまう。だから、口をつぐんでいた」
「……まだ決まったわけではないですから、うかつなことは言えなかっただけです」
「もしかすると、綿田さんが殺害された時点で、何かしら思うところがあったのではないですか?」
「…………」
もはや井越は反抗的な態度を隠そうともしなかったが、秀明はかまわず続けた。
「その、作家の卵の名は何というんですか」
「たしか、守屋航平とか言いましたっけ。出版してすぐに、うちの事務所へ殴り込んできましたよ。とっとと追い返しましたけどね」
インターネットの掲示板でも盗作を訴えたようですが、相手にされなかったみたいですよ、と井越はせせら笑った。
罪の意識のまるでなさに、部外者の秀明もさすがに気分を害したが、いまはそんなことを言っている場合ではない。
殴り込んできた、ということは織伏の事務所の人間は守屋の顔を見たと言うことだ。
「連絡先は……」
「知りませんよ。その手の資料は綿田さんが管理してますからね。お知りになりたかったら綿田さん本人に聞かれればよろしいでしょう」
皮肉たっぷりな口調に、秀明は今度こそあからさまに眉を寄せ、握りしめたこぶしを収めるのに苦労した。藤井が目配せしなければ、胸ぐらのひとつもつかんでいたところだ。
盗作を公的に罰するには、被害者が著作権侵害として民事訴訟を起こすか、刑事告訴を受けた捜査機関が捜査するかになる。どちらにせよ、いくらここで盗作の事実が判明したとしても、被害者の訴えがなければ警察は動くことができない。井越もそれを承知しているのだろう、焦りもせずにぶつぶつとぼやいている。
「だいたいね、ぽっと出の新人風情が受けるわけないんですよ。経験豊富な先生がうまく組み直されたからこそ、『復活の代償』は完成し賞を取ったんです。極上の食材ならば、そこらの主婦が家庭で晩飯に出すよりは一流シェフの手で素晴らしい料理に仕立てた方が、よりいっそう価値が増すというものだし、ひいては食材のためにもなるんです」
織伏の取った行動を、まるで賞賛するかのような言い草。そうとう先生に心酔しているのだろう。ここまでくると、もはや崇拝といってもよい。
いいかげんうんざりした秀明は、
「……もうけっこうです。では上司に報告しますので、これからご同行ねがいます。さっきの話をさらに詳しくお聞かせいただきたい」
と、さえぎった。
「はいはい、なんでもしゃべりますよ。捜査のお役に立てれば幸いですな」
あれほどふてぶてしかった井越だが、うそのように従順になった。きっと醜聞が明るみに出ることが決定的になったことで、やけになっているのだろう。藤井が井越の腕を取ってうながすと、
「子どもじゃないんだから、ひとりで行けます。ではお先に」
と、振り払って出て行ってしまった。
小南もぺこぺこと頭を下げながらそれに従った。
後編へ続く