CODE R.I.P. 掌編『復活の代償』後編

 派手な音を立てて閉まったドアを睨みつつ、秀明はうなった。
「なんだあの野郎、罪の意識ってモンがねえのかよ」
「織伏さんも、あんな風に考えてるんでしょうか」
 さすがの藤井も、苦い顔をしている。
「あの心酔ぶりなら、ありそうだな。ったく、才能ある若手の芽を摘み取って自分の手柄にしようなんて、恥知らずもいいとこだぜ」
 むかっ腹が立つが、ここでぼやいてはいられない。木下がいる前線基地へ向かおうと、藤井が先に立って更衣室のドアを開いた。しかし、ぎょっとした様子で足を止める。
「どうした?」
 肩越しに廊下をのぞこうとしたが、回れ右をした藤井が、
「羽柴さん、隠れて!」
と、押し返してきた。
「おい、なにを……」
「交代の従業員が来ます。早く!」
「早くったって、どこにも隠れるところなんか……」
 そうこうしているうちに、複数の足音が響いてきた。
 とうとう部屋の真ん中まで追い込まれてしまう。ロッカーを調べていた藤井が、中身が入っていないひとつを開けてその中に秀明を押しこめていく。
「ふたりいっぺんは無理だろ、どう考えても……!」
「しっ!」
 有無を言わさず押し込まれるが、そもそもロッカーの高さは秀明の身長より低い。後頭部をしたたかに打ったあげく尻餅をついたところに、藤井も乗り込んできて内側から扉が閉められる。間一髪で更衣室のドアが開き、男たちの騒がしい声がなだれ込んできた。
 空っぽとはいえ、狭いロッカー内に大人ふたり。しかもお互い上背があるときた。当然、身じろぎひとつできなかった。
 ──この体勢、ヤバくねえか……
 座り込んだ秀明の脚の付け根に、藤井がまたがっている。ちょうど骨盤の辺りを両ももで挟み込まれるような格好だ。腰に体重がかかっているが苦しくはなく、むしろ心地よい重みとして感じた。
 換気窓はあるがほとんど明かりは入らず、ドアを背にした彼女の表情までは判別できない。否、まともに顔を見ることなどできなかった。
 すると、それまで背筋を逸らせていた藤井が、なにを思ったのか秀明の方へ寄りかかってくるではないか。甘い花のような香りが、鼻腔いっぱいに広がる。
 軽くパニックに陥る秀明に、藤井はごく小さな声で、
「すみません。扉から離れておかないと、外から見えるかも知れないので……」
と、まるで言い訳するようにつぶやいた。
 ささやきは吐息に混じり、秀明の耳許をかすめる。ぞくっとした戦慄が背筋を駆けぬけた。
 密着した胸板に、やわらかいものが当たっている。細身だと思っていたが、意外とあるようだ。
 そして、とろけそうなぬくもり。
 接触している部分から彼女の熱が伝わり、流れ込んでくるような錯覚をおぼえた。
 ふと、秀明の脳裏に鮮明なビジョンが映し出された。
 あのスカート丈ならば、座り込めばおそらく裾がまくれ上がってしまう。
 ということは、今腰の上に乗っている部分は、もしかして──。
 ──ダメだ、落ち着け! 考えるな!
 固く目を閉じ、懸命に妄想を振り払う。
 この乗りかかられている位置なら絶体絶命、薄い布地越しでは悟られるのは必至だ。そんなことになれば、今後まともに顔を合わせられない。
 なんとか煩悩を消し去ろうと四苦八苦していると、すぐ側のロッカーが開く音が聞こえ、一気に現実に引き戻された。
 ジャラジャラと金属が擦れ合う音がしたかと思うと、すっとんきょうな声が上がった。
「あれっ? 俺の制服がねえんだけど、誰か知らねえ?」
「あん? 自分で持って帰ったんだろ」
「いや、たしかに置いて帰ったんだけどな。まさか盗まれたとか?」
「バッカ。女の制服ならともかく、野郎の盗んで誰が得するんだよ。なんか今日のパーティに臨時のやつらが入ってるみたいだから、そっちに貸し出されたんじゃないのか」
「なんだそれ。しょうがねえ、マネージャーに報告しに行くか」と言って、男は荒々しくロッカーを閉めた。内側から突っ張っている両手の平に、ビリビリと振動が走る。
 そのまま息を殺していると、男たちは来たときと同じような騒がしさで更衣室を出て行った。
 完全に気配がなくなったのを確認してから、藤井がもぞもぞと動き出す。あまり動かないでくれ、と思いながらこらえていると、やがて後ろ手でロッカーの扉を開いたのか、光が差し込んできた。
 藤井は座ったままの格好で身体を後ろへとずらし、先に外へと出た。続いて秀明も、両手をロッカーの端にかけて腰を上げた。暗さに慣れた目に、蛍光灯のあかりが沁みる。
 隣のロッカーにもたれて大きく息をつくと、床にへたり込んだままの彼女をおそるおそる見下ろした。
 無理な体勢で関節を痛めたのか、ストッキングに包まれた長い脚を投げ出すように座っている。黒いタイトミニが少しずり上がり、奥へいくにつれ淡い陰影を作っていた。
 つい目が離せないでいると、藤井は「あの」と口を開いた。視線を悟られたかと肝を冷やすが、
「その……すみません、無理やり押し込めちゃって……」
と、謝ってきた。うつむき加減なので、表情はよく分からない。
 あらためて羞恥が駆けあがってきた秀明は、
「……いいから早く立て! 行くぞ!」
と、わざと乱暴に急き立てた。
「は、はい!」
 あたふたと居住まいを正してから、藤井は立ち上がる。頬がわずかに赤みを増しているようだが、これといった変化はなさそうだ。反応がおもてに出る前で、本当に助かった。
 ひそかに安堵しつつ、秀明はさっさと更衣室のドアを開けて外へ出ようとする。
 しかし、
「羽柴さん。あれ……」
と、またもや藤井が呼び止めた。
「今度はなんだ。早く木下んとこに行かねえと、井越たちが先に着いちまうぞ」
「はい。でもあれ、花びらでしょうか?」
 彼女の問いかけに、秀明も振り返った。
 更衣室の片隅に置かれた、青いふた付きポリバケツ。ゴミ箱として使用されているのだろう。それだけならどこにでもあるものだが、すぐそばにピンク色のなにかが落ちていた。
 近くで見てみると、たしかにバラかなにかの花びらのようだ。
 室内を見渡してみるが、花瓶の類は置かれていない。生けていた花が散ったものではなさそうである。
「ここですかね?」
 藤井がポリバケツのふたを開けてみると、中には大量の花束があふれんばかりに投げ込まれていた。花はいずれもしおれておらず、濃厚な香りすら立ちこめるほどだ。
「なんだこれ……」
「枯れたから捨てた、ってわけでもなさそうですね。どうしてこんなきれいな花が……」
 もう一度室内を観察するが、花を飾っておけそうな棚やテーブルなどはない。会場で使用していた装花だとしても、わざわざ更衣室などに捨てはしないだろう。
 ふたりして考え込んでいると、いきなり藤井が顔を上げてふたたびロッカーを調べはじめた。ひとつひとつ取っ手に手をかけて開けようとするが、どれも鍵がかかっているのか開くことはない。
 しかし、さっき入っていた空きロッカーのふたつ隣だけは簡単に開いてしまった。中には男物のバッグやスニーカー、タオルやハンガーなどが雑然と詰め込まれている。扉の内側のフックには、ごてごてしたシルバーネックレスがぶらさがっていた。
「これ、さっきの人のロッカーですよね。制服がないって言ってた人の」
「ああ、たぶんそうだろうな」
 先ほどの金属音は、ネックレスを外してここへ掛けた音だろう。
「みんなちゃんと鍵をかけてるのに、この人だけかけてないんです。きっと、普段から鍵をかけないんでしょうね」
 こういう不用心な人間はどこにでも一定数いるものだし、取り立てて騒ぐほどでもない。
 しかし──。
 秀明にも、藤井が言わんとすることが何となく分かってきた。
「いつも鍵をかけない人間の制服だけが、なくなった……」
「潜入してる捜査員には、ちゃんと新品の制服が支給されています。だから、ここから持っていく必要はないはずです。とすると、制服を必要としている部外者がいたってことですよね」
 部屋の片隅に置かれた、ポリバケツをもう一度注視する。
 なくなったホールスタッフの制服。
 無造作に投げ込まれた、真新しい花束。
 まさか──。
 秀明はきびすを返し、ポリバケツのふたを開けた。一番上で咲き乱れている花束をどけると、その下からカーキ色の作業服が出てきた。引っ張り出してみると、作業服のさらに下には、スニーカーやキャップなども投げ込まれていた。
「そうか、ここで盗んだ制服に着替えたんだ」
「じゃあ、この作業服はなんでしょうか?」
「たぶん、出入りの装花業者を騙ったんだろう。花束を届けに来たふりをして中へ入って、ここで花と作業服を捨ててホールスタッフに化けたんだ」
 制服を着てさえすれば、建物内のどこにだって自由に行き来できる。
 そう、織伏京吾がいるパーティ会場にだって、疑われることなく入ることができるだろう。
 彼に恨みを持つ者が。
『復活の代償をいただきに行く』──。
「まずい、守屋がもうもぐり込んでるかも知れねえ! おまえは先に木下んとこに行け、俺はこのゴミ箱を持って後から行く!」
「はい!」
 言うが早いか、藤井は更衣室を飛び出して行った。
 残された秀明は、ポリバケツに証拠品を詰めなおしながらふと気付いた。
 ──もしかしたら、ふたり一緒に隠れる必要はなかったんじゃねえか?
 よくよく考えれば、ここは男子更衣室なのだから自分はバイトのふりをすればごまかせたのだ。ロッカーに隠れるのは、女の藤井だけでよかったはず。
 ──いや、部外者がいなかったからこそスタッフたちの本音が聞けたんだし、結果オーライとするか
 それに……。
 ──正直、役得だったしな
 やわらかな感触やぬくもりがよみがえり、秀明は思わず口許をおおってしまった。


「なるほどな、事情は分かった」
 木下警部補はいつもどおりの不機嫌そうな顔で、床に並べられた一連の証拠品をながめた。
「しかしここに作業着が捨てられてて、ホールスタッフの制服がなくなってたからって、守屋とやらの犯行だとはまだ決まってないだろう」
 木下は、秀明の言うことにはまず反対の姿勢を取る。嫌われているのは知っているが、毎回これだとさすがにうんざりだ。
「ですから、業者が出入りしていた裏口の監視カメラの映像をチェックすれば、不審人物は絞り込めるんじゃないですか」
 秀明は内心の苛立ちを抑えて提案した。
 会場装花を納入している生花店に問い合わせたところ、店員には作業用エプロンは支給しているがつなぎの作業服は渡したことがないという回答を得た。
 実際に応対した者への聴取によると、作業服姿の若い男が花束を抱えて「追加注文の分を持ってきた」と裏口から入ってきたらしい。パーティ開始直前で忙しさがピークに達している時間帯にくわえ、仕入れ担当者も外していたことから、たまたま近くを通りかかった者がろくに調べもせず通してしまったそうだ。
 間の悪いことに、出入りを監視していた捜査員もあらかじめリストアップしていた業者がすべて納入を終わらせていたため、自分の持ち場は終了したと思い招待客のチェックを手伝っていたという。まさに、警備の穴を突かれたかたちとなってしまった。
 裏口を監視するカメラの映像を解析する。といっても専門的な機材はないので、モニタールームで井越と小南に面通しをさせるだけだ。
 しばらく早送りをしていくと、帽子に作業服姿の男が裏口にあらわれた。斜め上からの画像なので、目許は帽子のふちでかくれてしまっている。それでも小南が、
「あ、これ。この右頬の大きなホクロ、たぶん間違いないです」
と、証言した。事務所へ抗議に来たときに見た守屋の顔で、もっともよく印象に残っているという。井越も、憮然とした表情でうなずく。
「この男が守屋だとすると、すでに施設内に入り込んでいる可能性が大です。一刻も早く捜査員に連絡して、確保を……」
「待て」
 秀明の進言を最後まで聞かず、木下は首をぐるりと回した。
「証言だけじゃ人相の確定は不十分だ、まずは守屋の顔写真を取り寄せるのが先だ。あと、本部のお偉方のゴーサインが必要だからな。まだ確保はするな」
 こともなげにそう言うと、木下は自分の携帯を手に取った。
 顔写真が先? お偉方に報告だと?
 手順を踏むのも時と場合によるだろう。これだからお役所仕事だと言われるのだ。
 今はまさに、非常事態ではないか。
 いいかげん苛立ちがつのってきている秀明は、木下の電話をさえぎった。
「そんな悠長なことをしている場合じゃないでしょう。守屋が織伏のすぐ近くまで来てるかも知れないんですよ!」
「だまれ! なら聞くが、もし人違いで誤認逮捕だったらどうするんだ。おまえはともかく、俺まで連帯責任を取らされるんだぞ!」
 木下が口元をゆがめて吐き捨てる。
「だいたいな、勝手に持ち場を離れやがって。先にこっちに報告して判断を仰ぐのが筋だろうが。普通なら始末書モンだ」
 井越たちを締め上げた件のことを、今さらのように非難してくる。
 この期に及んで、まだそんなことを言っているのか。
 とうとう爆発した秀明は、語気を荒げた。
「……始末書なんか、いくらでも書きますよ! 上の命令が大事だってんなら、俺の単独行動ってことにしておいてください。そうすりゃ、主任は減点にならないでしょうが」
「な……ッ、きさま……!」
 色をなす木下に背を向け、秀明は部屋を出て行った。
 廊下を踏みしめながら自問する。
 今、やつはどこにいる。
 考えろ。自分が守屋なら、どういう行動を取るのか。
 せっかくホールスタッフの制服を着ているのだ。ならば──。
「ご一緒しますよ」
 背後から聞き慣れた声がした。
「もしや」と思ったが、しかしどこかで「やっぱり」という思いもあった。
「……あのな」
「戻りませんよ。さっ、手分けして探しましょう」
 秀明がなにか言う前に、藤井は当たり前のように横に並ぶ。目が合うと、不敵な笑顔を浮かべた。
 まったく、こいつは本当に聞き分けのないやつだ。
 頑固で、しかし機転が利いて、行動力もあって、そして──。
「……しょうがねえな」
 そうぼやくと、彼女は今度こそ声を出して笑った。


 おそらくバックヤードにはもういないだろうと踏み、まずは会場周辺をくまなく回った。不審者がいないことを確かめたふたりは、残るパーティ会場へと向かう。
 大広間のドアをそっと開け、隙間から身を滑らせた。
「……織伏くんは、まったくバイタリティあふれる人物であります。彼と知り合ったのはかれこれ四十年も前になりまして、学生運動が盛んな時期でもあり……」
 壇上では、主賓のひとりがスピーチを述べている。招待客はみなそちらに注視しており、ホールスタッフもじゃまにならないよう壁際で待機していた。
 すばやく視線を走らせると、ひとりの男性スタッフがナフキンをかけたトレイを持っているのに気付いた。トレイはわずかに盛り上がっている。
 ここからでは客が間に入ってしまい、顔がよく分からない。二手に分かれて確認する。
 やがて、男の右側に回った藤井が、こわばった表情で視線を送ってきた。おそらく、目印である頬のホクロを認識したのだろう。
 守屋だ。
 秀明の四肢に緊張が走る。
 味方の捜査員を捜すが、どこへ行ったのか会場にいるのはみな本職のスタッフばかりだ。木下の命令で引き上げさせられたのか。
 とつぜん、割れんばかりの拍手が起こった。
 視線だけを壇上にやると、主賓とともに織伏が並んで立ち、満面の笑みで握手を交わしている。取材カメラのフラッシュがあちこちで光った。
 すると、守屋が動いた。
 壇上へと歩を進めつつ、トレイにかけたナフキンの中にゆっくりと右手を入れる。
 引き抜かれたその手には、場違いなほど黒光りする銃身がはっきりと見て取れた。
 ざわ、と全身が総毛立つ。
 考える間もなく、駆けだしていた。
 壇上のほぼ中央をのぞむ位置へと移動した守屋が、銃を構えた。とっさに秀明は叫んでいた。
「銃を下ろせ! 警察だ!」
 来客たちが驚いた顔でこちらを振り返る。瞬間、守屋の上半身が跳ね、かんしゃく玉が破裂するような乾いた音が響いた。
 弾は逸れ、背後の金屏風へと当たったようだ。壇上の織伏が奇声を上げてうずくまった。
 会場内に悲鳴の不協和音があふれ、招待客がばたばたと座り込んだ。いまや立っているのは自分と藤井、そして守屋だけだ。
 守屋は、制止の声を上げた秀明の方をにらんでいる。背後にいる藤井には注意を払っていないようだ。機転を利かせた藤井は、ほかの客と同じように頭を抱えてしゃがみ込む。これで、やつには彼女も警察官だとは気付かれないだろう。
「この会場には、すでに警察が配備されてる。おとなしく銃を渡すんだ」
 刺激しないように、ことさら抑えた口調で諭す。
 しかし興奮の極致にある守屋は、
「うるせえ、じゃますんな!」
とわめき、こちらに銃口を向けてきた。さすがの秀明も息を呑み、全身をこわばらせる。
「あの野郎、ブッ殺してやる。あの話は俺のモンだ。人が全身全霊を込めて書いた話を、簡単にパクリやがって……!」
 血走った目の下には、どす黒いくまが浮かんでいた。まさしく、狂気にとらわれた目だ。
 ぎりぎりと音がしそうなほど歯を食いしばった守屋は、両手で銃身を構えなおす。素人の射撃技術では簡単に弾は当たらないだろうが、それでもこちらの分が悪すぎた。
 心のどこかで「撃たれるかもしれない」と冷静に覚悟を決めつつ、秀明は片手を差し伸べてなおも説得を試みた。
「落ち着け、あんたはもう逃げられない」
「なにを……!」
「あんたのうったえはよく分かった。だから、これ以上罪を重くするな」
 秀明の言葉に、守屋は目を剥いた。
「テメエになにが分かるってんだ! 物書きでもねえくせに、俺の気持ちなんか……」
「物書きじゃないが、あの話は織伏には消化しきれてなかった。それは読んで分かったよ」
 すると、男はびくりと肩をそびやかせた。
 動揺を与えた隙を逃すまいと、一言一言を慎重に押し出す。
「読んだときに違和感があったんだ。これは織伏の書いた話じゃない、もっと若い感性の作家のものだってな」
「うそつけ……」
「うそじゃねえよ。これでもミステリ小説はけっこう読んでるんだ。あんまり読者をなめるなよ」
 くだけた調子で言うと、守屋はあきらかな困惑顔をつくった。
 いける。
 そう直感した秀明は、すばやく視線を藤井の方に投げた。
 すると、かがんでいた藤井が立ち上がり、手近にあったテーブルからクロスを引き抜いた。派手な音を立てて食器が床へ散乱する。
 背後の音に驚いた守屋が振り向くが、もはや遅かった。投網のように広がったクロスは、銃を構えたままだった守屋の頭をすっぽりとおおった。
 秀明はその隙に、布を取ろうと暴れている男の元へ駆け寄り、足元をすくって床へ突き倒した。
「ちきしょう、離せ!」
 右手をひねり上げると、素早く銃を取り上げて遠くへ放り投げる。腕をつかんだまま仰向けに転がし、胸に己の膝を押しつけて動きを封じた。
 駆け寄ってきた藤井が、どこからか手錠を取り出して守屋の右手首に、ついで左手首にもかけた。
 そして自らの腕時計に目を落とし、
「午後八時十七分!」
と叫んだ。
 秀明も続いて、罪状を述べた。
「銃刀法違反、および殺人未遂の現行犯で逮捕する」
 そこへ、会場のドアがいっせいに開き、捜査員たちがなだれ込んできた。もがく守屋を引き渡す。
「羽柴さん……よかった、無事で」
 かたわらの藤井が、安堵の声を漏らした。秀明はうなずくと、おおきく深呼吸をして辺りを見回した。
 華やかな会場はおびただしい数の男たちが行き交い、まさしく修羅場と化していた。その中で呆然とへたりこんだ織伏に、もはや最初の精力的な印象は見られなかった。
 そこにいたのは、くたびれたただの初老の男だった。


 普段は閑静な住宅街は、蜂の巣をつついたような喧噪に包まれ、辺り一帯にはいくつもの回転灯があふれた。
 祝賀パーティの模様を取材に来ていたマスコミのカメラが、ここぞとばかりにフラッシュをたきまくるのを、秀明はすこし離れた壁にもたれてぼんやり眺めていた。つい先ほどまで、面子が丸つぶれだと怒りをあらわにしていた木下も、今はもういない。
 守屋航平がいくつか質問に答えたところによると、やはり花屋の店員に化けてもぐりこんだという。銃は、インターネットの闇サイトで購入したらしい。綿田の件も含め、詳しい取り調べは所轄署であらためて行われることになった。
 出るところへ出れば、彼は正当な評価を得られた。こんなふうに、犯罪を犯す必要もなかったはずだ。
 いつも思う、「もう少し冷静になって考えれば、相談できる相手がいれば、かなりの数の犯罪は起きなかったのに」と。言っても詮無いことだが、たまにやるせなくなる。
 蝶ネクタイを外し、朝からずっと我慢していたタバコを取り出して、火を付けて深く吸い込む。それまで残っていた緊張の残滓が、ほぐれていくのが分かった。
 ぼうっと夜空を仰いでいると、
「お疲れさまです」
という声とともに、冷たいものが手の甲に押し当てられた。
 くわえタバコをしたまま、受け取った缶コーヒーのプルタブを開ける。すぐ横を、同じようにコーヒー缶を手にした藤井が陣取る。しばらくお互い無言でコーヒーを飲んでいたが、ようやく秀明は、
「……始末書モンだぞ」
とだけ漏らした。
 すると藤井は、小さく肩を揺らした。
「承知してます。書き方教えてください。羽柴さん、慣れてるでしょ?」
「……まあな」
 ぶっきらぼうに肯定すると、藤井は今度こそ笑い声を弾けさせた。
 その声にあたたかいものを感じながらも、秀明はひそかに後悔していた。
 ──あーあ、やっちまった……
 これから伸び盛りの、前途有望な後輩に汚点を残してしまった。
 組織からはみ出した自分は今さらどうなろうと構わないが、彼女の経歴に疵を付けるのは不本意だった。
 こういう事態を避けたかったから、コンビを解消しようと邪険にしたのだが、予想外のねばり強さで根負けしてしまった。
 携帯灰皿に吸い殻を落とすと、隣に聞こえないよう小さくため息をつく。そんな秀明の内心を汲んだのか否か、藤井は明るく言った。
「いいじゃないですか、大事には至らなかったんだから。やらない後悔よりやって後悔、ですよ」
 ね、と小首を傾げて無邪気に微笑む姿に、しょうこりもなく胸が騒いだ。
 ──くそっ、かわいいじゃねえか
 いけない、と何度自分に言い聞かせても、本人を目の前にすると気持ちが揺らいでしまう。
 頬が熱くなるのを感じ、ぷいと顔を背けた。
 もたれたコンクリート壁を通して、熱が伝わるような気がする。
 コンビを組むようになって半年。
 もはや秀明の隣は、彼女が必要不可欠な居場所となっていた。
 頑固で、しかし機転が利いて、行動力もあって、そして──いつでも自分についてきてくれる、大事な相棒。
 いつまで一緒にいられるかは分からない。
 しかし、今はこうしてともに過ごしていたかった。
 後輩として、相棒として。
 残ったコーヒーを一息にあおり、秀明は大きく伸びをした。



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