慣れないワインでやや酔いの回った秀明は、主が席を外した椅子の背もたれを眺めつつ、ぼんやりと思った。
「会話は最高の調味料」というのは、本当だ。それが例えほとんど聞き役に徹していたとしても、意外なほど肩の力が抜けて気分良く過ごせた。
なぜだろう。
しばし考えて、彼女が昔の自分しか知らない相手だからという結論に達した。
昔は人並みに友達づきあいもしていたが、警察官になってからは意識して人との関わりを避けてきたのだ。
となると、ほぼ十年ぶりということになる。自分で選んだ道とはいえ、よほどため込んでいたのだろう。
やがて席を立っていた連れが戻ってきた。最後に並べられてたドルチェの皿を見て、
「あれ、先食べててくれてよかったのに。ごめんね」
と、言った。
「いや、食おうかどうしようか迷ってた」
「なんでよ。もうおなかいっぱい?」
「俺、甘いの好きじゃねえんだ」
相手は「あれ、そうだっけ」という顔をした。
「河本、食うか?」
「ちょっと待って」
ナントカのコンポートとやらが盛られた皿を押しやると、河本彩は真顔で制した。いらないのかと思いきや、
「先に自分の食べちゃうから置いといて。あとでお皿交換しよ」
などと、しれっと答えた。
「ふたつ並べて食えばいいだろ」
「いやよそんなの。食い意地張ってるみたいじゃない」
へんなところで見栄を張る様子に、ふと後輩のことを思い出した。
たまに差し入れで、菓子などが係内で配られたりする。そんなとき、たいてい秀明は自分の分を甘いものが好きな後輩に分けてやるのだが、どうやら彼女は素直にもらうのが恥ずかしいらしく、まず一度は断ってみせる。しかし再び勧めると、今度は照れたように笑いながら受け取る。
普段の気の張りようを見ている分、そのギャップがなんだかおかしくて、秀明は笑顔見たさについ毎回譲ってしまうのだった。
そんなことを思いながら、何気なくつぶやいた。
「やっぱ女ってさ、デザートはほっとかないもんか?」
すると、河本はするどく切り返してきた。
「誰のこと言ってるの?」
「え、いや、一般論として……」
「『気になる子』のこと?」
いきなり核心をズバリと突かれ、絶句してしまう。そんな秀明に、河本はにやりと笑った。
「刑事さんってさ、ポーカーフェイスを崩しちゃダメなんじゃないの? 顔にバッチリ書いてますけどー」
そうだった。
こいつはおっとりした真奈美とは対照的に、勘がするどく思ったことをズバズバ言うタイプだった。
つい指が滑ってメールに書いてしまったことを、秀明は今さらながら後悔した。
「どんな子なの? ユー、白状しちゃいなよ」
「誰がユーだ、誰が……」
あきれて話を打ち切ろうとしたところ、河本はふと真面目な表情になった。
「羽柴くんってさ、聞き上手になったよね」
「そうか?」
「あんまり詳しくないけど、事情聴取とかで人の話聞いたりすること多いんじゃないの? そんで、その裏にある本音を探ってるような気がする。あたしの話聞きながら、無意識のうちにそれやってたでしょ。探り入れられたの分かったもん」
痛烈な台詞に、秀明は思わず居住まいを正した
「……悪い、そんなつもりじゃなかったんだけど……」
「別にいいよ、相談したいって持ちかけたのこっちだしね。それより、いつもそんなんじゃ疲れるでしょ。たまには聞いてもらう側になるのもいいんじゃないかな」
「…………」
そうかもしれない。
この十年、誰にも心を開くことなく神経を張りつめてきた。それが、きょう昔なじみとのたわいない会話で思いのほか癒された。やはり、かなり緊張がたまっていたのだろう。
それに、この気持ちは打ち明ける相手がいない。河本なら今の仕事とは関係ないし、ちょうどいいかもしれない。
なにより、誰かに聞いてもらいたい気がするのだ。
河本は、今の一匹狼気取りではない、素のままだった自分を知る人間なのだから。
レストランを出て、すぐ近くでまだ営業していたカフェに入り直した。
驚いたことにさんざんデザートを食ったくせに、河本はまだキャラメル・マキアートを注文した。よくもまあそんなに甘いものばかり入るものだ。
「──あの『気になる子』っての、後輩なんだ」
熱いコーヒーをすすりながら、秀明は切り出した。
「じゃあ婦警さん?」
「今は婦警って言わねえんだけど、まあいいや。どっちかっつーと、女刑事って方がしっくりくるかな」
「へえー、カッコいい! やっぱドラマとかに出てきそうな感じなの?」
「そうだなあ。背ェ高くて足もすっげー長くて、パッと見モデルみたいないい女だな」
我ながら褒めすぎのような気がしなくもないが、本人には絶対言えない分、この場なら少しばかり誇張したって許されるだろう。
「ふーん。見てみたいな、写真とかないの?」
「んなの、あるわけねえだろ……、っと」
「なに?」
「きょう、俺の代わりに電話に出ただろ。あれ、その子だ」
席を外している間に応対してくれたという。
河本も、ああ、とうなずいた。
「じゃあ、勘違いさせちゃったかな。彼女じゃないってフォローしといた方がいいよ」
「聞かれてもないのに、わざわざこっちから言い訳するのもなあ……」
秀明の消極的な返事に、河本はスプーンでキャラメルシロップをかきまぜながら訊ねてきた。
「なによ、告らないの?」
「まさか。後輩だぞ」
驚いて否定すると、河本は不思議そうに首を傾げる。
「後輩がダメって、警察は社内恋愛御法度なわけ?」
「いや、そうでもないけど……」
そう、警察は意外にも同業者間による“結婚を前提にした交際”が歓迎される傾向にあるのだ。
警察官は結婚する際に、非公式ではあるが上司が相手の身元調査をする。本人や身内が前科者や政治活動家などであれば、厄介なことになる。とはいえ、拘束力はなくあくまでも推奨されないというだけだから強引に結婚することも可能だが、まず出世は絶望的、職場で肩身の狭い思いをすることになる。
その点、女性警察官は採用時に身元調査済みであるから、反対されることはない。
上としては若い者がいつまでも独身でいると、女性問題を起こしたり借金トラブルを招いたりするのではと気が気でない。それならば早々に身を固めて責任感を持ってほしいと考えているのだ。早婚が推奨され、見合い話も多いという。
秀明は素行がよろしくないのに加えて上司の覚えも悪いので、紹介されたことはない。しかし同僚たちの噂によると、実は彼女には所轄時代から降るように縁談が持ち込まれており、今もたまに舞い込むという。だがいまだ独り身であるところから考えると、どうやらすべて蹴っているのだろう。
「男に負けじと仕事に打ち込んでる姿を見てるとさ、下手なこと言って困らせたくないなって思うんだ」
「ふうん……」
河本は泡の立ったマキアートを含み、少し考える風になったが、すぐに、
「それだけじゃないでしょ。あのことも引っかかってるんじゃないの」
と、言った。
痛いところを突かれ、秀明は黙り込んだ。
「それは……」
「やっぱり」
はあ、と河本はため息をついた。
「あれはさ、羽柴くんが悪いんじゃないよ。そりゃあたしも当時は熱くなって責めたけど、真奈美だって許したし、ちゃんと後始末もしたじゃん」
「あれは、親父がやったことだよ」
遠い過去に記憶を馳せる。
そもそものきっかけは大学時代、中学から高校にかけてつるんでいた仲間が金の無心をしてきたことだった。
ドロップアウトした彼らからすれば、まっとうな道を歩んでいる秀明は妬ましく、かつ良い金づるだったのだろう。就職が決まったころに接触してきて、内定先への脅迫をちらつかせたことからも、それは分かる。
要求を無下にしたまでは良かったが、彼らは恋人である真奈美を盾に取ることにした。
帰宅途中の真奈美を車で拉致しようとナイフで脅したが、はずみで彼女の顔に傷を付けた。そこへ秀明が割って入って抵抗したため、彼らは拉致をあきらめ逃走したのだ。
「犯人は分かってたけど、俺は真奈美をこれ以上傷つけたくなかったし、なによりあいつらの報復が怖かったから、黙ってることにするつもりだった。だけど、親父が事件として処理するのが正しい責任の取り方だって教えてくれたんだ」
奇しくも事件現場は、神奈川県警で強行犯刑事をやっていた父が勤務していた所轄地域だったため、父の指揮のもと事件はすぐに解決、略取未遂と傷害という罪状で終わるはずだった。
しかし、そこから芋づる式に別の事件が浮上してきた。
「一歩間違ったら真奈美もああなってたのかと思うと、ゾッとしたよ」
「あたしも後から聞いた。捕まって本当によかったよね」
手口がやけに手馴れていることを不審に思った父が詳しく叩いたところ、彼らは数年前から帰宅途中の学生やOLをたびたび拉致して集団暴行を加えていた事実が明るみに出た。そのうえ、半年前に捜索願が出されていた女子高生が、彼らの手にかけられ山中に埋められていたのだ。
「もし被害届を出さずに泣き寝入りしてたら、真奈美はずっと不安な日々を過ごすことになっただろうし、闇に葬られそうになってた事件が発覚することもなかった。殺された女の子だって、今も土の中にひとりぼっちだったろうな。あのときぐらい、警察が頼りになると思ったことはなかったよ」
「……それが、警察官になった理由?」
河本に問われ、秀明は無言でうなずいた。
今の自分を知る人には信じられないだろうが、学生当時はサラリーマンになるつもりだった。しかし父の仕事ぶりを目の当たりにし、内定をもらっていた大手企業を辞して警察官採用試験に挑んだ。二世警察官と呼ばれるのはいやだったため、あえて神奈川県警ではなく警視庁を目指した。
「親父からは反対されたけどな。『どんな職業でもいいけど、警察だけはやめとけ。どうしてもって言うなら、せめて刑事にはなるな』ってさ」
秀明が八歳の時に亡くなった母の再婚相手である父は初婚だった。結婚して半年で突然血のつながらない息子とふたり残され、さぞ戸惑ったことだろうが、父はなさぬ仲の息子を母方に送り返すことなく、男手一つで育てることを決意した。
しかし働き盛りだった父は、いきおい仕事に生活の重心が傾きがちで、結果的に秀明が荒れる原因となった。父はそのことをずっと悔いていたらしく、せめて息子には家庭を大事にしてほしいと考えて、勤務態勢が不規則で家を空けやすい刑事にはなってくれるなと諭したのだ。
けっきょく黙って講習を受けて刑事になったので後で怒られてしまったが、それでも捜査一課に引き抜かれたと話すと、所轄畑である父は喜んでくれた。
「お父さんからしたら、今は自慢の息子じゃないの」
「ならいいけどな」
秀明はポケットから取り出したタバコをくわえ、火を付けた。
その手許を眺めていた河本は、
「……よかった」
と、ぽつりと言った。
「なにが?」
「羽柴くんに、好きな子ができてよかった」
視線を自分のカップに戻し、河本は続ける。
「年末に会ったときに言ってたでしょ、あれから誰とも付き合ってなかったって。当事者でもないあたしが責めまくったせいだと思って、申し訳なかったんだ」
「俺が自分で選んだんだから、河本のせいじゃねえよ。仕事が忙しくて今まで出会いがなかったってのも事実だしな」
「そっか……」
河本は顔を上げ、笑顔を見せた。
「その子と、うまくいくといいね」
しかし秀明は冷めかけたコーヒーをあおり、答えた。
「いや、このまま仕事仲間でいたいんだ。だから、打ち明ける気はないよ」
「羽柴くん……」
そう、このままでいいのだ。
このまま、先輩後輩の関係のままで。
それが、一番いいのだ。
あそこ、と指差されたマンションは、公園のすぐ脇にあった。
前まで送ると申し出たのだが、河本は「このへんは治安いいから大丈夫」と譲らない。しかたなくこちらが折れ、公園の中央にある池のほとりまで付いていくことにした。
「真奈美は元気か?」
「うん。上の子が年少さんで、下の子がこないだ一歳になったって。旦那さんも優しい人だし、仲良くやってるよ」
「ならよかった」
不思議なものだ。
もう二度と関わらないと決めたのに、十年も経ってからこうして近況を聞くことになるなんて。
しかしこれで、引きずってきた重石が軽くなったような気がする。
真奈美が幸せでいてくれてよかった。
本当は、少し罪悪感があったのだ。
傷を負わせたあげく逃げるように別れておいて、そのくせ別の女性に心を寄せていることが、どうしようもなく卑怯に思えてならなかった。
むろん、真奈美が新たな幸せをつかんだからといって、罪が軽くなるわけではない。しかしこれで、ようやく新しい一歩を踏み出すことができそうだった。
それでも、やはり想いを打ち明けることはできない。
迷惑をかけたくないというのももちろんだが、それ以上に自分のせいで再び誰かを傷つけたくはない。黙ってさえいれば、少なくても関係を壊さずに済む。
──せいぜい、片想いが関の山だな
なんとも情けない話だが、それがもっとも分相応というものだろう。
「ところで、さっき言ってた彼氏の話だけど」
秀明は話題を変えた。
「結婚するんだったら、どうにかしたほうがいいんじゃないか?」
「分かってはいるんだけどね……」
一転、今度は河本がため息をつく。
「どうにかする」とは、河本が彼氏に対して数枚猫を被っていることだった。
本来はポンポン言う性格なのに、現在付き合っている彼氏の前ではおとなしくしているらしい。
「初対面のときにしおらしくしてたら、その印象のまま決定しちゃったみたいでさ。今さらこんなんでしたとは言えなくて……」
「でも一緒に暮らせば、いやでもバレるだろ。どだいずっと演技し続けるのは無理な話だ」
「そうなんだよねえ……」
河本の話を総括して考えるに、彼氏はどうやら女性観が凝り固まっているらしい。女らしく家庭的でしとやかな方がいい、そういう態度がにじみ出ているという。
河本が肩をすくめてこぼす。
「表立っては言わないんだけどね。でも『女はかくあるべし』ってプレッシャーをひしひしと感じるのよ」
曲がりなりにも刑事を稼業にしている秀明としては、なんとなく不穏なものを感じる。
こういう男はとかく女性を支配したがる。DV加害者によく見られるタイプだ。
むろん全員がそうなるとは限らないし、普段のふたりの関係を見てみないことには安易に決めつけることは出来ない。
「彼氏は、自分の気に入らない女にはどういう態度を取る?」
「なにも。無関心っていうか、視界にすら入れないって感じかなあ。あたしが一緒だと、あからさまな態度は見せないんだけどね」
ということは、恋人には矛先を向けていないのか。本心を隠しているのか、自分でも気付いていないのかは分からないが、今はまだそれほど深刻な状況ではないだろう。
「河本、彼氏のことは好きか? 本気で結婚してもいいと思ってるか?」
そう訊ねると、彼女は一瞬動きを止めたが、ややあってうなずいた。
「じゃあ、ちゃんと本当の自分を見せたほうがいいぞ。会ったこともない人を悪く言いたくないけど、後になって分かったら『だまされた』って感じるかもしれないから、一度腹を割って話し合った方がいい」
「…………」
河本は、長い間うつむいていた。
もともと自分の顎あたりまでしか身長がない彼女がうつむくと、ほとんど顔が見えなくなる。
そういえば、平均的な女性はこのくらいの背丈だっけ。
いつも隣にいる後輩がかなり長身なので、すっかり忘れていた。
ふいに河本の右手が動き、目許を押さえる。洟をすする音が聞こえ、あわてて取りつくろう。
「悪い、首突っ込みすぎた」
「ううん、いいの」
河本はうつむいたまま首を振った。
「あたしも、ずっとそう思ってきたから。でも今さら本当の自分をさらして否定されるのが怖かったの。あたしも羽柴くんのこと言えないよね」
秀明はコートの左ポケットを探り、手に触れたハンカチを取り出した。街灯の明かりに照らして女性に渡しても差し支えないものかを確認した後、手に握らせる。すぐに押し返されるが、もう一度つかませると彼女は礼を言って受け取った。
落ち着くのを待ってから、身体を折り曲げて諭した。
「大丈夫だ、話せばきっと分かってくれる。相手だって河本が好きだからプロポーズしてきたんだろ。ちょっとばかりガサツで口が達者なくらい、なんとも思わねえって」
最後の方は茶化すようになってしまったが、河本は顔を上げた。
秀明をじっと見つめ返すと、涙に濡れた頬をゆるめ、
「口が達者はともかく、ガサツってなによ。失礼なヤツ」
と、こぶしで胸元を小突いてきた。
減らず口につられて笑ってしまった秀明に、彼女は言った。
「明日、イエスの返事する。そんで、そのときに全部ぶちまけちゃう」
「そうか、がんばれよ」
「うん。ありがとね」
河本の返事を聞くか聞かないかというとき、コートの右ポケットに突っ込んだままだった携帯が鳴った。
ディスプレイを見ると、うるさい上司である。せっかくいい話の最中だというのに、一気に両肩が重くなる。
「ちょっと待っててくれ」
片手を上げて断りを入れてから背を向け、電話に出た。冷え切った耳朶に嫌味な声がぶつかって、頭の中に侵入してくる。
たいして急ぎでもない用件を手早く切り上げ、秀明は向き直った。
「悪い……、河本?」
さっき吹っ切れた笑顔を見せた友人は、またもやうつむいていた。
「どうした、まだなにか……」
不審に思った秀明が声をかけた、そのとき。
「──ごめん、手遅れだったみたい」
低い低い、別人のような声。
「──河本?」
うつむいたままの彼女に再び声をかける。
すると、河本はゆっくりと顔を上げた。
「だって、あたし──」
ぽたり。
河本の垂れた前髪からしずくが落ちる。
よく見ると、全身ずぶ濡れだ。
雨は降っていない。そもそも、すぐそばにいる秀明は濡れてもいないのだ。
ざわり、となにかが背筋を這い上がる。
寒気か。それとも。
声を出したかったが、舌が凍ったように動かない。
「──もう、死んじゃったから……」
地の底から響くが如き声とともに、河本は顔を上げた。
懐かしい昔なじみは、もういなかった。
そこにいたのは────。
「──……っ!!」
秀明は、声にならない悲鳴を上げて飛び起きた。
全身が小刻みに震え、耳の奥で鼓動がガンガン響く。冷や汗で額が冷たくなっていた。乱れた呼吸を必死に整え、あたりを見回す。
ここは、どこだ。
まばゆい照明、暖色系のインテリア、穏やかに流れるR&Bの音色。
ああ、ここは──。
「羽柴さん!」
廊下につづくドアが開き、転がるように部屋の主が駆け寄ってきた。
「どうしたの、大丈夫!?」
「祐希……」
そうだ、ここは祐希の部屋。
仕事帰りに寄って軽くビールを空けた後、ソファでうたた寝したのだ。
掛けてくれていたらしいブランケットをどけ、何度も深呼吸する。呼吸が整うにつれ、全身の震えは徐々に収まっていった。
いったんキッチンへ立った祐希が、水の入ったコップを手に戻ってきた。受け取って一気に飲み干す。冷たいミネラルウォーターが臓腑に沁み入り、ようやく人心地がついた。
「ずいぶんうなされてたよ。悪い夢見たの?」
「ああ……」
「──彩さんの?」
静かに問われ、空のコップを持ったまま祐希の顔を見た。おおかた、寝言で河本の名でも口走ったのだろう。隠しようもないので、素直にうなずく。
「見たの、きょうだけじゃないでしょ」
「……知ってたのか」
「うん。たまに呼んでたから」
河本の最期の姿は、独り寝の夜に何度も夢に見た。祐希と一緒のときは解放感が勝つのかあまり見ないので、気付かれていないと思っていたのに。
「今さらうなされるなんて、刑事になりたてでもないのに情けねえな。死体なんかいやってほど見てんのに……」
「そんな言い方しないで」
自嘲気味につぶやくと、思いのほか強い調子でさえぎられる。
「友達が殺されて遺体をまともに見て、平気な人なんているわけないじゃない。ついさっきまで一緒にいて笑ってた人だもの、つらくて当然だよ」
強い光を放つ瞳が、秀明を見つめていた。
「あたしだって、あのときの様子がたまに夢に出てくるの。あのときだけじゃない、今までの事件の被害者も、みんな変わり果てた姿で……」
『あのとき』とは、祐希がパリで巻き込まれた殺人事件のことだろう。彼女もまた、トラウマとして抱えているのだ。
場数を踏んで凄惨な現場に慣れたようでも、確実に傷は増えつづけ、痕となって残る。意図的に神経を麻痺させておかなければ、とても刑事を続けることなどできない。
秀明はいくつもの修羅場を経て、自らの心を守る術を身につけた。
感情移入しすぎない。常に平常心を保つ。亡くなった被害者への追悼の意は忘れずに、だが遺体を一個の証拠品として認識する。
結果、いっぱしの刑事となった今では、よほどの惨殺事件であっても動揺することはなくなった。
それが、知り合いの──それも、自分が多分に絡んだ事件の──遺体を目の当たりにして、これほどあっさりと崩壊するなんて。自分の精神状態がいかにもろいかを痛感した。
分かっている。
あの日あのときあの公園で、自分と河本を尾行していた石田はすでに殺意を固めていた。たとえ秀明が河本を送り届けたとしても、おそらく部屋まで押しかけて犯行に及んだであろう。百歩譲って当日はなにもなくとも、近いうちに悲劇は確実に起きていた。
もはや秀明には、どうすることもできなかったのだ。
だが、それでも。
自分が河本と連絡を取っていたことで、彼女は殺されてしまった。
秀明は、立てた両膝に額を押しつけた。
自分のせいで。
自分のせいで、またひとり傷つけてしまった。
「羽柴さん」
ささやきとともに、髪がふわりと撫でられる。
顔を上げると、祐希がいたわりの表情を浮かべてのぞき込んできた。
「忘れろとは言わないから、せめて自分を責めすぎるのはやめて。でないと、羽柴さんが壊れちゃう」
祐希は一言一言を噛みしめるようにつぶやきつつ、秀明の髪をゆっくりとくしけずった。
その手の動きに感情を揺さぶられ、手首をつかんで引き寄せてきつく抱きしめた。
「祐希……」
「大丈夫、大丈夫だよ」
やさしく背中を撫でられ、秀明は唇を噛みしめる。
もう誰も、傷つけたくない。
それなのに、こうしてまたひとつ大切なものをつくってしまった。
祐希は自分をしっかり保っている、強い女だ。
きっと大丈夫だろうと思う。
だが──。
しなやかな身体を腕の中に感じながら、秀明はかたく目を閉じた。
了