CODE R.I.P. 掌編『マリッジブルー』

 どこかのビールのCMで、仕事帰りの一杯は「ネクタイをはずし、上着を脱ぎ、携帯の電源を切り、そして飲む」のが最高だと言っていた。
 今の秀明も、まさにそんな状況だった。
 もっとも、在庁番といえどいつ何時呼び出されるか分からないので、携帯の電源を切るわけにはいかないのが唯一違う点だが。
 霞ヶ関の官庁街からすこし離れた路地にある、小さな居酒屋のカウンター席。
 隣には、同じように至福の一杯に癒されている同僚が座っていた。一気にジョッキを半分も開け、
「あー! やっぱコレやなー」
と、東京のど真ん中でアウェイな大阪弁を繰り出した。
「昼からずっと水分控えとったからな。むっちゃ効くわー」
「水分は取れるときに取っとけよ。いったん呼び出し食らったら、飲みたくても飲めねえだろ」
「わかってるって。心配性やなあ、秀明ちゃんは」
 だからちゃん付けで呼ぶなっつーの。
 そう言おうと思ったが、やめた。どうせまた適当に受け流されるだけだ。
「で、どないすんねん。山崎係長にはもう報告したんやろ?」
「ああ、何度も確認された。絶対勘付かれてると思ったんだけどな」
「いやー。あのヒトはそんなとこまで気ィ回るタイプやないで」
 先日、結婚が決まった旨を上司に報告したところ、当然のように相手について訊かれた。ここまで来て隠す必要もないので正直に答えたところ、こちらの予想をはるかに上回る驚きっぷりであった。
 いちおう「彼女が捜一にいたときにはまだ付き合いはなかった」という点を強調しておいたが、実際はどう思われているのだろう。
「そら一般的に見たら、“後輩に手ェ出す悪い先輩”やろな」
「……やっぱ、そうなるか」
 もし披露宴をしていれば、きっと司会者が『おふたりは職場で出会い……』とかなんとか紹介するに違いない。
 そう言うと、嶋元は目をぱちくりさせた。
「なんや、式挙げへんのか?」
「いや、式は挙げるけど披露宴はしないつもりだ。親族だけの会食のあとに二次会って流れになるかな」
「へえー」
 うっすらと水滴が浮かんだジョッキを傾け、嶋元は訊ねた。
「ええんか、それで」
「ああ。向こうも半蔵門だけはいやだっつってたし、誰を呼んで誰を呼ばないってのも、面倒だろ」
 半蔵門とは、警察共済組合が運営している某ホテルのことだ。とはいえ、有名老舗ホテルがプロデュースしているので、施設も料理もサービスも申し分ない。そのうえ現職警察官は優待割引があるので、よく結婚式に利用されている。
 すると、嶋元が真面目な顔を作った。
「面倒って言うけどさ、上司とかそのへん呼んどかな後々出世にひびくやろ」
「いいよ、そんなの。どうせ出世できるタイプじゃねえし……」
「羽柴やなくて、藤井ちゃんのことやがな。六本木署のお歴々をないがしろにするような真似させるんか?」
 厳しい口調に、秀明はいったん口を付けたジョッキをカウンターに戻した。
 そう、実はそれが気がかりだったのだ。
 警察は完全な縦社会、くわえて体育会系的な世界でもある。本来なら共通の上司であった山崎に仲人を頼むくらいはしなければならない。
 もちろんジミ婚が禁止されているわけではないが、仲人も立てず上司も呼ばないとなると、職場での居心地が悪くなるのは必至である。
 秀明自身は上司に煙たがられているくらいだから、今さらどうってことはない。しかし、祐希は新しい職場に異動してまだ半年だ。
 今後のことを考えれば、せめて直属の上司くらいは呼ぶべきだ。式に参列してもらうだけでもいい。
 そう提案したのだが、祐希はそういう点には無頓着らしく、笑ってかわすだけだった。
 もともと彼女は、結婚願望が希薄だった。
 絶えず結婚をせがまれるよりはましだが、付き合いだしてもなんのリアクションも見せないのも、また不安ではあった。
 結局、付き合いだして半年ばかり経ったころにようやく反応を返すようになったため、まずはプロポーズの予約(?)を取付け、昇任してからあらためて申し出たのだ。
 もしかしたら、断られるかもしれない。そう思ったことは何度もあった。
 祐希はなにより仕事に精力を傾けている。
 自分と結婚することが彼女の負担になるのでは、と秀明は危惧していた。
 ふたを開けてみると存外あっさり受け入れてくれたが、そうするまでにさまざまな葛藤があっただろうと容易に推測できた。その葛藤を乗り越えて、自分とともに歩むことを選んでくれたのは、本当にうれしかった。
 だからこそ、今後の生活に支障をきたすようなことはしたくなかった。
 できる限り、仕事を続けやすい環境を整えてやりたかった。
 どちらか一方だけが快適なのが、どちらか一方だけに負担が偏るのが、正しい結婚生活だとは思えなかったからだ。


「……やっぱ、もうちょっと説得してみるよ」
「せやなあ。個人的には、内輪だけの式もええもんやとは思うけどな」
 嶋元は、空のジョッキを取りに来た店員に二杯目のビールを注文した。
 そして、
「盛大にやってまうと、なんかあったときが大変やしな」
と、ぽつりとつぶやいた。
 秀明は、嶋元の披露宴に出席したときのことを思い出した。
 あれはたしか、捜一に異動になった年だったから、自分たちが二十七のときだ。金モールのついた警察礼服を身につけて高砂席におさまっている姿は、緊張していたこともありどこか借り物のようだった。
 そして、その隣に座っていたのは──。
 秀明はしばしの逡巡のあと、思い切って口を開いた。
「なあ、今でも連絡取ってるのか?」
 誰とは言わなかったが、嶋元はすぐに悟ったらしい。わずかに視線を揺らめかせ、答えた。
「いんや、全然。今どこでどうしてるのかも知らん。アイツも実家に縁切られてもうたらしいからな、調べようもないわ」
「……そうか」
 重苦しい沈黙。
 余計なことを訊いてしまった、と今さらながら後悔していると、嶋元がジョッキを手に取った。
「俺なあ、たまに思うんや」
「なにを」
「子どもな。あのまま黙って育てたらよかったなって」
 思わず隣を見る。
 嶋元はどこか遠い目で、ジョッキの向こうを透かすように眺めていた。
「里沙があんなことになったんも、元はといえば俺が仕事ばっかりでほったらかしにしてたせいやし、最後まで責任取るべきやったんかもしれん。子どもに罪はないんや、せめて経済的な不安がないようにだけでもしたったら……」
「それは違うだろ」
 途中でさえぎる。
「だいたい、責任取るってなんだよ。そんなのは、罪滅ぼしをしてる自分に酔ってるだけの自己満足だ」
 つい、口調が荒くなる。
「第三者の俺から誰が悪いなんて言えねえけど、いい歳した大人なんだから、やっていいことと悪いことの区別くらいついて当然だ。里沙さんは自分で自分のツケを支払ったんだから、嶋元が全責任を負う必要なんてない」
 嶋元の元妻である里沙とは、何度か会ったことがある。飛び抜けて美人というわけではなかったが、愛想のよくない秀明にも笑顔で対応してくれた、感じのよい女性だった。ふたりの間に、学生時代からという付き合いの長さを感じられる余裕を感じ取った記憶がある。
 結婚一年後には、嶋元は異例の若さで警部補へと昇進した。将来を考えてのことだったのだろう。
 出世街道を確実に手にし、幸福な新婚生活を営んでいるはずだった。
 それなのに──。
「ただでさえ血の繋がらない子どもを育てるのは、並大抵のことじゃない。その子が大きくなってなんかやらかしたとき、それこそ全責任を負えるのかよ。そんな──」
 妻の裏切りによって生まれた子を。
 さすがにその先は口に出来なかったが、おおよそは察したのだろう。嶋元は無言でジョッキをかたむけている。
 秀明もそこで打ち止めにした。
 里沙を責めても、嶋元が苦しむだけだというのは分かっている。
 彼女はもう、十分すぎるほどの代償を支払っているのだ。
 寂しさを紛らわせるために走ったかりそめの欲望と引き替えに、家庭と、相手の男と、男の妻から請求された多額の慰謝料とを手放した。
 あとに残ったのは、誰にも望まれない腹の中の子どもだけ。
 さっきはああ言ったが、嶋元に罪がないとは言えない。だがそれを、同じような立場の秀明が糾弾できるはずもなかった。
 明日は我が身とならぬ保証など、ありはしない。
 それが、怖かった。
 これ以上、この話を続けるのはお互いによくない。
 秀明はそう考え、タバコを取り出した。リセットの意味も込めて一服する。その間、嶋元はずっと口を開かなかった。
 自分が落ち着いたのを確認してから、息苦しさを取り払うべく話題の矛先を変えた。
「今ならうちの親父の苦労も分かるよ、二十六でいきなり八つの子持ちになったと思ったら、嫁さんが先に逝っちまってさ。おまけに残された息子は懐かない上にグレるしよ。途方に暮れたろうな」
 すると、黙っていた嶋元もようやく答えた。触れて欲しくない話題から逸れたからだろうか、口調が軽くなっている。
「親父さんも刑事やったっけ? わざと困らせるようなことばっかしてたんやろ」
「まあな。でも補導だけはギリギリのラインでかわしてた」
「やろな。まあそのおかげでこうして刑事やってられるんやから、世の中どう転ぶか分からへんもんやな」
 過去に警察のお世話になった経歴があれば、採用時に目をつけられてしまう。よほど重大事件を起こしでもしない限りは大丈夫らしいが、それでも真っさらな方が圧倒的に有利である。
 中学時代に仲間とつるんで暴走行為や喧嘩を繰り返し、学校でも大問題になったくらいだったが、調書に残るようなヘマはしなかった。行き場のない屈折した感情を父にぶつけるのが目的だったが、本格的に捕まってしまうと警察内での父の立場を悪くするというのを、ガキの頭でもきちんと認識していたのだ。
 当時はまさか自分が刑事になるなんて思ってもみなかったが、あのとき補導や逮捕をされなくてよかった、と心底思う。
「いつだったか忘れたけど、親父に訊いたことがあるんだ。『俺のことを引き取って後悔したことないか、赤の他人なのになんでこんなに迷惑かけられなきゃならないんだ、って思ったことはないのか?』ってさ」
「なんて答えはったんや?」
「『あるわけないだろ。子どもが親に迷惑かけるのは当たり前だ』だとさ。拳骨付きでな」
 秀明の答えに嶋元は天井を仰ぎ、
「すごいなー。俺には一生かかってもその境地にはたどり着かれへん。まさしくガンダーラやわ」
などと、脈絡のないことを言った。
「羽柴が結婚するって決まって、一番喜んでるのは親父さんとちゃうんか」
「……そうだな」
 父は、十二年前の事件のことを知っている。
 もう誰とも付き合う気がない、と面と向かって誓ったわけではないが、うすうす感じ取ってはいただろう。
 急かされることもなく、探りを入れられることもなく、なにも訊かないことが父子の暗黙の了解になっていた。ひとり息子が独身を貫くだろう事実を、父なりに受け止めたようだった。
 そのためか、年明け早々に結婚の報告をしたとき、声も出ないほど驚いていた。
 そして次に、相手の女性はすべてを納得済みなのか、と確認された。
 秀明は説明した。
 祐希の職業も出会いも、過去の事件も河本の一件も、今の自分の弱さも未熟さもすべて知った上で受け入れてくれた、と。
 すると父は目に見えて安堵の色を浮かべ、すぐしきりに照れた。まさか自分が“新郎の父”になる日が来るなんて、考えてもみなかったのだろう。
 そしてぽつりと、
『母さんが、生きていればよかったな』
と、つぶやいた。
 自分は、母になにひとつ親孝行をしてやれなかった。
 ドロップアウト寸前から這い上がり国立大学に合格したことも、父の背中を見て警察官になったことも、捜査一課に抜擢されたことも、五十二歳の父が先年ようやく昇任した警部補に三十三歳でなれたことも、そして結婚することも、なにひとつ教えてやれなかった。
 女手一つで子どもを育て、苦労の末やっとつかんだ平穏で安定した生活も、わずか半年で喪った母。
 母は、幸せだったのだろうか。
 自分は、誰かを、祐希を幸せにしてやれるのだろうか。
 隣のことも忘れて考え込んだ秀明の背中を、嶋元が派手にぶっ叩いた。
「いてっ! この野郎、加減しろよ」
「まーた難しいこと考えてるんやろ。普段はブレーキ壊れた重戦車みたいに飛ばすくせに、ときどき慎重派になるんやもんなー」
「うるせえよ。テメエこそ気球みたいにフワフワしやがって、ちっとは地に足つけろよな」
「あらやだ。秀明ちゃんの口から『地に足つけろ』だなんて言葉が出る日が来るなんて。一番生活力なさそうやのに、やーねー」
「…………」
 自分とあまり変わらない背丈でしなを作られ、秀明は脱力した。
 しかし、これでいいのだ。
 いつも明るくお調子者で通っている嶋元の、一瞬だけ見せた素顔。
 過去に縛られ、傷つけられ、血を流し続ける。まるで、かつての自分のようだ。
 そんなつらい姿を、見たくない。
 過去は帳消しにならない。
 罪は消えない。
 後悔しない日は来ない。
 だが、必ず夜は明け、朝が来る。
 秀明は祐希に出逢って変わることができた。
 ──否、はずだ。
 待ち焦がれた朝は、やってくるのだろうか。


 ドアを開けた祐希は、目を見張った。
 一時間ほど前に羽柴から、突然「家に寄りたい」とメールがあった。当日の打診など初めてだったため、なにか緊急の用事でもあるのかと焦ったが、そうではなかった。やってきた彼は、明らかに酔っていたからだ。
 羽柴はかなり酒に強い。ワインを飲むと回るようだが、ビールや焼酎、日本酒などでは乱れることがない。せいぜい、多少饒舌になる程度である。
 その彼が、玄関に入るなり祐希に抱きついてきた。
「めずらしいね、秀明さんがこんなに酔っぱらうなんて」
 くっついて離れようとしない羽柴を引きずり、どうにかソファに座らせる。冷たい水を与えると、一息に飲み干してしまった。
「たまには酔ったっていいだろ。俺だっていろいろあんだよー」
 ろれつが回っておらず、目も据わっている。いつもきちんとスーツを着ているのに、今はネクタイどころかシャツのボタンが二つほど開いており、腕まくりも折り目がめちゃくちゃだ。
 祐希は隣に座り、顔をのぞき込んだ。
「どうしたの、つらいことでもあったの?」
 視線が合うと、ふっと逸らされた。なにか抱えている証拠だ。
「仕事のことなら、差し障りのないところだけでもいいから話してみて。気が楽になるでしょ」
 今は在庁番だと連絡を受けていたが、なにか過去の事件や管轄外の揉め事が関わっている可能性がある。守秘義務に抵触しない程度までなら、聞いてあげられるだろう。
 すると、かろうじて座っていた羽柴がなんの前触れもなく横様に倒れ、祐希のひざ上に突っ伏してきた。
 気分が悪くなったのかと驚くが、そんな気配はない。体勢を器用に入れ替え、本格的にソファの上に寝転がってしまった。とはいえ、大柄なせいでソファに収まりきらず、足がだいぶはみ出してしまっている。
 ほとんど聞こえないような小声が、下から聞こえた。
「しばらく、このままでいて」
 薄い部屋着を通して、重みと体温が伝わる。クーラーを入れているから暑くはないが、触れ合った部分が熱を孕んでゆくのが分かった。
 うつ伏せた羽柴の髪を、そっと撫でた。ワックスで固められた髪は、短く整えられている。普段は撫でられる側だが、たまにはこうやって撫でる側になるのもいいものだ。
 しばらくそうしていると、やがて落ち着いたのか顔を伏せたまま話し出した。
「……なあ、祐希はさ」
「うん」
「ほんとに、俺と結婚していいのか?」
「へ?」
 思わず間の抜けた声で返すと、羽柴は祐希の腿に額をすりつけ、
「あんまり俺がしつこいから仕方なくオーケーしたとか、そういうんじゃないのか?」
と、つぶやいた。うつ伏せなので、どんな表情をしているのかはわからない。
「なにそれ。あたしがいつそんなこと言ったのよ」
「そんな風に思ってねえかなって……」
「失礼ねえ。疑ってるの?」
 本気で怒っているわけではないが、いちおう締めておくべきかと、軽く頭をはたく。
 すると今度は身体を回転させて、腰にしがみついてきた。目を閉じ、下腹部に顔を埋めている。
 ここでようやく祐希は、羽柴が甘えていることに気がついた。
 最近はそうでもないが、つきあい始めのころは照れが先行するのか、ぶっきらぼうな態度が抜けきらなかった。今でも人目がある場所でのスキンシップには消極的である。
 その彼が、酒の力もあるだろうがこんな風に甘えてきている。
 普段の厳めしさを脱ぎ捨てた、素顔のままで。
 ──初めてだな、あたしの前でこんなにリラックスしてるのって……
 そう思うと、胸の奥がじいんと疼いた。
 なにがあったのか気にはなかったが、祐希はこれ以上追求しないことに決めた。できるだけ優しく語りかける。
「仕方なくなんて思ってないよ。あたしなりにいろいろ考えて決めたことなんだから、心配しないで」
 もう一度、髪を撫でる。
 しばらく乱れた毛流れをくしけずると、羽柴は身じろぎした。そのままの体勢で、
「……不安なんだ」
と、消え入りそうな声で言った。
「なにが? あたしが相手じゃご不満?」
 わざと意地悪な質問をしてみると、子どものように首を振る。
「違うよ。逆に、その……俺でいいのかなって……」
「あたしが秀明さんに不満を持ってないかってこと?」
 はっきり言ってやると、図星だったらしくまたもや顔を埋めた。耳が赤くなっているのは、酔いのためか、それとも。
「……それもあるけど……」
「まだあるの?」
 そこで、途切れた。
 言うべきか悩んでいるようだ。
 急かさずに辛抱強く待っていると、やがて腹をくくったらしく答えた。
「俺は、おまえを幸せにできるのかが不安で……」
 驚いた。
 そんなことで悩んでいたのか。
 たしかに羽柴は仕事にかけては絶対の自信を持ち、自らの信念を貫く強さを持っていた。その反面、プライベートでは意外なほどナイーブだった。
 おそらく、過去の一件を引きずっているのだろうが、ここにきてまだ悩んでいたのか。
 ──ううん、違う。『今だからこそ』かも
 恋愛に関してひどく臆病だった羽柴が、ようやく一歩を踏み出した。その先に控えた『結婚』の二文字は、相手と自分の今後を左右する人生の岐路だと感じたのだろう。
 だとすれば、杞憂だと笑い飛ばしたり、反対に意気地がないと責めたりするのは逆効果である。
 祐希は一度深呼吸をした。
「あたしは、秀明さんに幸せにしてもらうつもりはないよ」
 そう答えると、羽柴はがばっと起き上がった。
 わずかに赤らんだ目許には、明らかな狼狽の色が浮かんでいる。
 祐希は安心させるため、笑みを浮かべた。
「だって、一緒に幸せになるんでしょ?」
「え……」
 瞠目する羽柴に重ねて、
「秀明さんは、あたしに幸せにしてもらうつもりだったの?」
と、たずねた。
 すると彼は眉を寄せた。
「いや、そんなつもりは……」
「でしょ? あたしだってそうよ。秀明さんにレールを敷いてもらうつもりも、頼りっぱなしになる気もない。あたしたち、一緒に歩いていこうって決めたんじゃない」
 祐希はそっと、羽柴の両頬を包み込んだ。
「いつかも言ったけど、全部自分で背負い込まなくたっていいんだからね。責任も義務も問題も、ぜんぶ分け合って解決していくのが結婚だと思うんだけどな」
 秀明さんは責任感が強いからなあ、と笑うと、羽柴はたちまち赤面した。
「……そう、だな。たしかに、俺ばっかり気負いすぎてたかも……」
「そうよ。もっとあたしのこと信用してよ」
「信用してないわけじゃないよ。ただ、いろいろ考えすぎただけで……」
 あわてたように弁明する姿に、祐希は今度こそ吹き出してしまった。
 ふと、ある言葉が浮かぶ。
「ねえ。もしかして、世に言う『マリッジブルー』ってやつじゃないの」
「でもそれって、普通女の方がなるって言わないか」
「そお? なんかで読んだけど、意外と男の人もブルーになるらしいよ」
 家族を養うという重圧や、家長としての責任、経済的な懸念。
 真面目な人であればあるほど、そういった漠然とした不安に襲われるという。
 酔いが醒めかけているのか、神妙な顔をしている羽柴に、祐希は言った。
「もっと甘えていいのよ。だってあたし、もう後輩じゃないんだもん。秀明さんの奥さんになるんだもん」
 そう言ってやると、羽柴はさらに顔を赤くした。どうやら、素面に戻りつつあるらしい。
 しかし、こちらとしては酔ったときだけ甘えられるのは物足りない。いつも本音でぶつかってきてほしいし、なにより──。
「なんか俺、すげえカッコわりぃ……」
 手のひらで口許をおおう。照れたときのお決まりのクセだ。
 ──なにより、もっと甘えてほしいから。
 もっともっと、誰も知らない顔を見せてほしいから。
「そういうとこも、ぜーんぶ好きよ」
 祐希は笑いながら、軽くキスをした。すると、ようやく緊張が解けたのか、羽柴はわずかに微笑んだ。
 王子さまのキスで、お姫さまは永い眠りから目覚めた。
 でも、お姫さまのキスで王子さまだって、永い冒険を終えることが出来たのだ。
 物語は結婚式でフィナーレを迎えるけど、人生はこれからまだまだ続く。
 だからこれからは、もっともっと頼ってほしい。
 パートナーなんだから。
 祐希は目を閉じ、額を合わせた。



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