吉原基礎知識

吉原には独特な慣習や用語があってわかりにくいので、小説の内容に関することだけを簡単にまとめました。 専門家ではないので、間違いなど多々あるかもしれないので、ご注意ください。

初出:2006.1.4/最終更新日:2021.3.10

吉原概説

江戸時代、唯一の公認遊郭であった吉原は、徳川幕府開設のごく初期の元和四(1618)年の設立から移転・火災での焼失を繰り返しつつも営業を続け、昭和三十三(1958)年までの三百四十年間、あまたの男たちの心をかき立ててきました。
岡場所と呼ばれる非公認の遊里とは違い、格式と見栄を第一とする吉原は、大名や豪商の接待などに使われる社交場でもあり、また服飾や流行の先端を切っていた芸能界としての面も持っていました。

故・杉浦日向子氏は「当時の花魁は現在でいうハリウッド女優のようなものであり、一般庶民には手の届かない憧れの存在であった」と語っています。
そうすると、吉原遊郭はさしずめハリウッド映画界・大尽客はセレブ・吉原雀(遊女や客の噂話に敏感な人)はマスコミといったところでしょうか。

廓のなかそと

明暦三(1657)年に、吉原は浅草に移転を命じられます。
廓の中は下図のような構成になっており、下図のピンク色の部分には遊女屋以外にも、八百屋や花屋・畳屋・銭湯などの一般商店や、菓子屋や蕎麦屋といった食料品店も数多くありました。
遊女屋には、大見世・中見世・小見世のほか、廓の東西端にある切見世と呼ばれる最下級の見世がありました。
中でも東の羅生門河岸の客引きはすさまじく、「一度つかんだ腕はたとえもげても離さない」というところから、羅生門の名がつきました。

吉原 廓のなかそと概要図

  1. 見返り柳。お堀沿いの土手から横道に逸れる坂道の入り口にあり、吉原への目印とされました。
  2. 大門。左右に監視所があり、怪しいやつやお尋ね者、脱郭を企てる女郎などの出入りを見張っていました。
  3. 仲の町。吉原のメインストリートで、両側に引手茶屋が並びます。花魁道中とは各遊女屋の前の筋からここを通って茶屋へ行くこと。
  4. 水道尻。火事避け祈願の灯籠がありました。
  5. 九郎助稲荷。この他、各隅合計四ヶ所にお稲荷さんがありました。
  6. おはぐろどぶ。廓をぐるりと囲んでおり、遊女の逃亡を阻んでいました。東西には河岸見世が立ち並んでいました。

遊女いろいろ

江戸中期には、太夫・格子・散茶の三種類しかなかった遊女の階級ですが、後期になると細かく分かれます。
時代によって揚代やランクは変わりますが、代表的なものは以下になります。
実際の金額は料理や酒・チップ代などが加算され、数倍になるようです。
作中のキャラクターにあてはめると、『十六夜綺譚』のなよ竹と雲路は呼出し、『羅生門の鬼』のおまつとすずめは局女郎となります。

新造付き呼出 (しんぞうつきよびだし)
最高級の遊女で、張見世(ショーウィンドウでの顔出し)をせず、仲の町を道中する権利を持つ。揚代(価格)は一両一分で、現在の約十万円(一両=約八万円と換算した場合。時代により貨幣価値は異なります)。
昼三 (ちゅうさん)
張見世をしない見世昼三・張見世をする平昼三など、いろいろな種類があります。揚代は三分で、約六万円。
付廻 (つけまわし)
これもいろいろ種類があり、のち座敷持と同義になりました。揚代は二分で、約四万円。ここまでが「花魁」と呼ばれます。
座敷持 (ざしきもち)
自分専用の座敷(客用座敷と寝室の二部屋)を持つ。揚代は二分と一分(約二万円)とがありました。
部屋持 (へやもち)
自分専用の部屋(寝室のみの一部屋)を持つ。揚代は二分ないし一分。大見世では最下級ですが、小見世では上妓です。
新造 (しんぞう)
二朱女郎とも。キャリアの短い新人や稼ぎの良くない遊女で、大部屋を屏風で仕切った割床で客を取ります。揚代はニ朱(約五千円)が相場。
局女郎 (つぼねじょろう)
最下級の遊女で、局と呼ばれる長屋を仕切った部屋で客を取ります。揚代は一切(約十分)で百文(約千円)が基本ですが、実際は三~四百文程度になります。

また、吉原には遊女の身の回りの世話をする者たちもたくさんいました。

禿 (かむろ)
遊女屋に売られて間もない、十歳前後の少女。おもに花魁について雑用をこなしました。花魁ひとりにつきふたりの禿がつきます。
振袖新造 (ふりそでしんぞう)
略して振新・もしくは単に新造とも。禿上がりの見習い遊女で、客は取らずに花魁の身の回りの世話や客が立て込んだときの名代(代理)などに立ちました。花魁ひとりに対し、ひとりないしふたりつきます。なよ竹には卯花ひとりです。
番頭新造 (ばんとうしんぞう)
略して番新。年季明けの遊女がなるものが多く、三十歳以上の女が大半。これも客は取らず花魁の専属マネージャーとして、客の人柄などで良し悪しを判断したり、あしらい方を教えたりします。花魁ひとりに対しひとりかそれ以上つきます。
遣手 (やりて)
遊女屋が抱えるすべての遊女の総監督者。四十歳前後の遊女出身の女がなりました。往々にして厳しく取り締まるため、遊女たちから恐れられていました。
楼主・内儀 (ろうしゅ・ないぎ)
遊女屋の主人と、その女房。
若い者 (わかいもの)
若い衆(わかいし)とも。遊女屋で働く男たちのこと。歳を食っていてもこう呼ばれます。
芸者 (げいしゃ)
男女とも遊興時の三味線や長唄などを専門としており、女芸者は身体を売りません。

吉原遊びのプロセス

『十六夜綺譚』の中で一部説明していますが、ここではおもに大見世でも上妓である花魁買いの手順について説明します。
吉原はとにかく「格」と「見栄」を第一としますので、客に面倒な手順を踏ませてそのつど多額の代金を巻き上げました。
客の方も、この手順を「粋」にかまえないと、通人とは言われませんでした。

  1. まずは引手茶屋へ行き、好みの遊女を指名します。どんな遊女がいるかわからないときは、「細見」というガイドブックを参照しましょう。ここで酒や料理を頼み、飲み食いしつつ遊女が来るのを待ちます。
  2. 茶屋から指名のあった遊女が、道中して客を迎えに来ます。
  3. 初会の客は引付座敷と呼ばれる大広間で、三々九度の真似事をします。このとき遊女は非常によそよそしく、箸も取らねば一言も口を聞きません。それが終われば大宴会。しかしその後も遊女が肌を許すことはありません。
  4. 二回目の登楼を「裏」といい、遊女も多少は心を許して言葉を交わしたり食事をしたりするが、まだ肌は許しません。
  5. 三回目でようやくその客は「馴染み」と認められ、遊女も帯を解きました。このとき客は多額の床花(チップ)を弾まないと、のちのちの扱われ方に響くこととなるので、がんばって大金を使いました。
  6. 以後馴染み客になっても、登楼するたび引手茶屋は通さないといけません。また、いったんひとりの遊女と馴染んだら、今度は勝手に別の遊女のもとへ通うのは浮気扱いとなり厳禁。破ればよってたかって折檻されます。

ちなみに、大見世では必ず茶屋を通さなければなりませんが、中見世の平昼三以下や小見世は張見世で選んで直接登楼することができました。
これを素上がりといいます。

遊女の一日

吉原には昼見世・夜見世のふたつの営業がありました。
実際の本番は夜見世で、昼見世の客はおもに外泊禁止の武士などが大半で、閑散としていたようです。

時刻 時刻(現在) 内容
朝四ツ 午前十時 遊女の起床時間。お風呂に入ったり食事をしたのち、手紙を書いたり雑談したりと自由な時間を過ごします。そのあと昼見世に出るものは身支度を整えます。
昼九ツ 正午 昼見世がぼちぼち始まります。
昼八ツ 午後二時 客が少ないので遊女たちもあまり熱心にお勤めせず、手紙を書いたり手相を占ったりしてもらって適当に過ごします。
昼七ツ 午後四時 昼見世終了。食事を取ったのち続いて夜見世の準備にかかります。
暮六ツ 午後六時 夜見世のはじまり。遊女たちが張見世につきます。この少し前からすががき(三味線による唄なしのBGM)が鳴り響き、花魁による道中が行われます。
夜五ツ 午後八時 登楼した客の宴会もそろそろ終わり、客と遊女は床につきます。
夜四ツ 午後十時 いちおう閉店時間ですが、早すぎて商売にならないので延長して営業しています。大門だけは閉じられます。
夜九ツ 午前零時 夜見世終了。中引け・引け四ツともいいます。遊女屋は店じまいします。
夜八ツ 午前二時 大引け。遊女たちの就寝時間です。廊下にも見世の外にも、ほとんど人はいません。
明七ツ 午前四時 茶屋の者が客を迎えに来ます。客と遊女の別れを後朝(きぬぎぬ)といいます。
明六ツ 午前六時 大門が開き、朝帰りの客が仲の町を行き交います。馴染み客なら大門まで見送り、そうでないなら見世の入口まで。客を送った遊女は、二度寝します。

好かれる客・嫌われる客

上客といわれるのが、大名やその留守居役などの高禄武士・豪商・裕福な若旦那などで、粋な格好で惜しみなく金を使う客は「通人」と呼ばれ、もっとも歓迎されました。
逆に嫌われるのが、参勤交代などでお国許から出てきた下級武士やろくな稼ぎのない職人・奉公人階級で、遊び方を知らない野暮な武士は「浅黄裏」と呼ばれ軽蔑されました。

また通人ぶって知ったふりをする客は「半可通」とよばれ、これも敬遠されました。

参考文献

  • 江戸吉原図聚(中公文庫) /三谷一馬 著
  • 図説 浮世絵に見る江戸吉原 (ふくろうの本)/佐藤要人 (監修), 藤原千恵子(編集)
  • 大江戸ものしり図鑑―ひと目で八百八町の暮らしがわかる/花咲一男 (監修)
  • 遊女の知恵 (江戸時代選書)/中野 栄三
  • 芸術新潮 2017年06月号