倫敦《ロンドン》の悪魔 ※サンプル※

やあ、ボス

 警察は俺を捕まえたと吹聴しているが、やつらはまだ見当もつけてねえ。
 偉そうに手がかりは掴んでるとしゃべっているのを聞いて、笑わせてもらったぜ。
 レザー・エプロンが真犯人なんざ、悪い冗談だね。
 俺は売春婦が大嫌いでな、捕まるまで切り裂くつもりだ。
 こないだのは大仕事だったぜ。レディには悲鳴すら上げさせなかったからな。
 捕まえられるもんならやってみな。俺はこの仕事が好きでたまらねえんだ、また再開するぜ。
 あんたらはもうすぐ俺の楽しいゲームを耳にするだろうよ。
 (後略)

──切り裂きジャックからの手紙




     一

一八八八年十一月二十八日付/ニューヨーク・トゥデイ誌
【切り裂きジャック──大英帝国の暗い影──】
 一八八八年秋以来、英国は底知れぬ恐怖に震えている。
 ロンドン東部、貧民街として悪名高いイーストエンド・ホワイトチャペル地区にて、一八八八年八月末から約三ヶ月間に相次いで売春婦が殺害されるという、前代未聞の事件が起こった。
 以下は、同一犯と思しき者の手による被害者たちである。

  一八八八年八月三十一日……メアリ・アン・ニコルズ(四三)
  一八八八年九月八日…………アニー・チャプマン(四七)
  一八八八年九月三十日………エリザベス・ストライド(四四)
  一八八八年九月三十日………キャサリン・エドウズ(四六)
  一八八八年十一月九日………メアリ・ジェーン・ケリー(二五)

 被害者はいずれも喉元を鋭利なナイフ状の凶器で切り裂かれたのち腹部を切開、一部の臓器が持ち去られていた。特筆すべきは五人目の被害者メアリ・ジェーン・ケリーで、彼女の遺体はもはや肉塊と化し酸鼻を極める状態だった。まさに悪魔の所業と言えよう。
 また、複数の犯行声明が各方面に届いており、署名はいずれも『ジャック・ザ・リッパー』となっていたが、すべて筆跡が違うため当局では愉快犯による悪戯であると見ている。


 犯行は真夜中の往来であったため犯行現場を目撃した者はほぼ皆無で、数少ない目撃証言を元に手配書を配布してはいるものの決定的な容疑者は挙がらず、スコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)の捜査は難航した。
 ヤードでは昼夜を問わず現場付近に警官を配置し警戒を強めたが、殺人鬼はどういうわけか水も漏らさぬ包囲網をいともあっさりとくぐり抜け、次々に売春婦を手にかけていった。
 有力な犯人像としては、ユダヤ人をはじめとする移民、ロンドン・ドッグに寄港する外国船船員、食肉業者、外科医などが候補に挙がっている。
 また、犠牲者の肉体に陵辱の痕跡がないことから、犯行の目的は性的衝動ではなく純粋に売春婦の殺害であると考えられている。
 いずれの事件も、人体解剖がごく短時間で行われていたことを考慮すると、ある程度の解剖知識を有した者である可能性が高い。また、迷路のごとき貧民窟を大量の返り血を浴びた状態で警官に見つからずに逃げおおせていることから、犯人はイーストエンド近辺に在住もしくは地理に詳しい人物と思われる。
 この記事を執筆している現在、真犯人は未だ逃走を続けており、ロンドン市民はこれからも眠れぬ夜が続くであろう。


『世界の工場』大英帝国は、産業革命により大幅な経済成長を遂げ、インドやオーストラリアなどの植民地を着実に増やし、その結果多くの富裕層を生み出した。
 しかしその影には、機械により家庭内手工業を奪われた労働者、大量に輸入される外国産の野菜や穀物で大打撃を受けた農民、そして貧困にあえぐ失業者たちが次から次へと流入した、日も差さぬ貧民窟の存在があった。事実、ホワイトチャペルをはじめとするイーストエンド一帯は、世界に類を見ないスラム街と化している。
 先の見えない閉塞感にとらわれた貧民たちは、自分たちを踏みつけにしておいて素知らぬ顔をしている特権階級を恨みつつ、安く質の悪いジンと扇情的なゴシップ誌とでささやかな憂さ晴らしをしていた。
 その混沌たる社会情勢が生み出したのが、かの『切り裂きジャック』だったのではないか。
 憎むべき凶悪殺人鬼は、大英帝国のかかえる矛盾を切り裂き、格差社会という名の腐敗した膿をロンドン中に露呈したのである。

──本紙ロンドン特派員/ウォルター・スタンフォード




 ウォルター・スタンフォードは足許に荷物を置き、空を仰いだ。
 紺碧の空と真っ白な帆布の対比は、印象派の絵画を見ているようだ。霧とスモッグで覆われた息苦しいロンドンとは大違いである。
 清冽な潮の香りを胸いっぱいに吸い込んだウォルターのもとに、同じく荷物を担いだ青年がやってきた。
「俺たちの乗る船はどれかな」
「あれじゃないか。ほら、船体に名前が書いてある」
 そう指差すと、彼──ダニエル・ヒューズはにっと笑った。
 ともすれば人を食ったような印象を与える笑みだが、ダニエルの場合は彫刻のように整った顔立ちと育ちの良さをにじませる雰囲気とで、悪感情は持たれにくい。むしろ、人懐っこささえ感じられるほどだ。
「ウォルター、大切なひとに別れは告げてきたかい?」
「支局長と貸長屋の大家と、行きつけのパブのマスターには挨拶してきたよ」
「俺が言ってるのはそんなんじゃない。まったくきみはつまらないな」
 ダニエルのあきれ声にかぶさるように、けたたましい嬌声が聞こえてきた。いずれも着飾って厚化粧をした、若い女たちだった。
 立ちのぼる香水と脂粉のにおいに圧倒され、ウォルターは思わずあとずさりした。
「ダニー、もう行ってしまうの?」
「ひどいわ、今度コヴェント・ガーデンに連れてってくれるって約束したじゃない」
 口々にしゃべる女たちにしがみつかれ、ダニエルはまあまあとなだめた。
「俺もきみたちと別れるのは辛いんだ。落ち着いたらニューヨーク行きのチケットを送るよ。ぜひ遊びに来るといい」
「本当? あたし、メイシーズに行ってみたかったんだ」
「かならずよ、ダニー。約束だからね」
「はいはい」
 人好きのする笑みを絶やさぬまま女たちにそれぞれキスをし、出航時間が迫っているから、とウォルターの腕を引っ張ってその場を立ち去った。残された女たちはハンカチを振りながらふたりを見送る。
 腕をつかまれたまま、ウォルターはたずねた。
「本気でチケットを送るつもりなのか」
「まさか。ああでも言わないと解放してくれそうにないからな、嘘も方便ってやつだ」
「……言葉の使い方が間違ってるぞ」
 人混みをすり抜けて桟橋を渡り、チケットを渡して船内に入る。
 会社が経費で取ってくれた部屋は第三デッキ内の二等室、同室者は四人でうち二人がベッドに寝そべっている。
 ダニエルが陽気に挨拶をするが、一人は肩越しにこちらをちらりと見、もう一人は寝ているのかふりをしているのか返事がなかった。
 荷物を置いたふたりはそれぞれ手帳と万年筆を取りだして上着のポケットへ突っ込んでから、キャビンを後にした。
 廊下の丸窓から外を見るとすでに出航が始まっており、大英帝国は文字通り海の向こうへとかすんでいた。


 一八八八年の十一月も、終わりに近づいていた。
 ニューヨークに本社を持つ大衆紙『ニューヨーク・トゥデイ』紙の記者であるウォルターは、同い年の相棒ダニエルとともに一年間のロンドン特派員生活を終え、リヴァプールからニューヨークへと向かう蒸気船へ乗り込んでいた。
 まとめ上げた記事の原稿と大型の荷物は、すでに本社へと送ってある。あとは手荷物とともにのんびり船旅を満喫するだけだ。ダニエルは男ふたりの船旅など楽しみようがないとぼやいているが。
 ふたりは暇つぶしに、船内をうろつくことにした。壁を伝いつつ狭い廊下を歩くうち、急に視界が広がった。吹き抜けになっており、階下はエントランスホールになっている。
 大西洋間の定期連絡船ということで、金持ち御用達のクルーザーほど豪華ではないが、一昔前の貨物船ほど劣悪でもない。良心的な乗船料と快適なスピードが売りの、典型的な中級客船だった。
 乗客はいずれも一等ないし二等室だろう、それなりにきちんとした身なりをしている。
 行き交う人々を見下ろしつつ、ウォルターは言った。
「ダニエル、ああいう女性と付き合うのはやめたらどうだ」
「ああいうって?」
「ロンドンで言うところの『街角の姫君』さ。こちらに来てからずいぶんと遊んでいたじゃないか。きみくらいの好男子なら、もっときちんとした女性とお付き合いできるのに、なにも春を売る女を相手に選ばなくても」
 気まぐれでやや軽薄なところを除けば、容姿は申し分なく立ち居振る舞いも洗練されたダニエルは、未婚既婚貴賎を問わず女性にもてた。彼の下宿に恋文が山ほど投げ込まれていたことも、また逢い引きと称してさまざまな女性と夜の街に消えていったことも、ウォルターは知っている。
 ウォルターの進言を、ダニエルは笑い飛ばした。
「その『きちんとしたお付き合い』ってのが、まず俺には気が重くてね。相手の両親にお伺いを立てて、シャペロンに監視されつつお茶を飲んだりなんて気詰まりじゃないか。だから、ああいう女たちと遊ぶのがいちばん気楽でいいんだよ」
「しかし、結婚するならいやでもそうするしかないだろう」
「いずれはね。だが俺たちはまだ二十五歳だ、しかるべき家柄のレディを妻に迎えて“リスペクタブル”な生活をさせてやれるだけの財力には及ばないし、家庭に落ち着くにも早いさ」
 もっともらしい屁理屈を並べているが、ようは束縛のない独身生活を謳歌したいということだ。
 苦い顔を見せるウォルターに、ダニエルはにやにやと笑いながら、
「本当に堅物というか、生真面目というか。きみだって自覚がないだけでけっこう人気があるんだぜ」
「まさか」
「きょう見送りに来ていたシャーリー、彼女はきみのことが気に入っていたんだ。時々声をかけられただろう? しかしきみがあまりにそっけないからあきらめたんだとよ。せっかく後腐れがない女なんだから、存分に遊べばよかったのに」
「あいにくだが、あの手の女性はどうも苦手なんだ」
「野良猫より娼婦の方が多いホワイトチャペルに住んでいたくせに、潔癖にもほどがあるぞ」
「住んでいたからこそ、だよ」
 ウォルターは盛大にため息をつきながら答えた。
 そんな彼をダニエルは、笑みを絶やさぬまま眺めていた。

     二

「夕飯はすませたし、これからどうする?」
 ウォルターの問いに、ダニエルは愛用の手帳をひらつかせた。
「俺は船の探検に出てみるよ。なにか興味深いネタが落ちてるかもしれないから」
「……またそれか」
 彼は暇さえあれば国内外の推理小説を読み漁り、自身もまた探偵の真似事をしていた。
 とはいえそれは本当に真似事で、例えば新聞沙汰になった殺人事件の犯人を考えてみたり、取材にかこつけて知り合いの警官から詳細を聞き出したり、また友人や同僚の記者を集めて討論してみたりする程度であり、実際に依頼を受けて調査するわけではなかった。
 いつか訊ねてみたことがある。
「そんなに事件を解決したいなら、警官か探偵になればいいのに」と。
 しかし当のダニエルは鮮やかな赤毛を指でもてあそびつつ、さらりと答えたのだ。
「あくまで趣味だからいいんじゃないか。飯の種になると負担になる。万が一犯人がはずれても誰も困らないし、責任も取らずにすむ」
 そして続けて、
「俺が新聞記者という職業を選んだのはそのためだよ。記者なら常に新しい事件に遭遇できるし、事件現場をうろついていても不審がられない。おまけに情報も手に入りやすいとくる。趣味を兼ねるにはもってこいだ」
と笑ったものだった。
 ダニエルの実家は金融業を営む豪商であり、本来なら新聞記者のような時間に拘束される厳しい職業に就く必要はない。
 ウォルターはそんな彼の言い分をすべて認めたわけではないが、一方で同意できる部分はあると考えていた。
 ともあれ、確かに誰に迷惑をかけてはいない。
 あえて言うならば、探偵ごっこにしょっちゅう付き合わされるウォルターが困るくらいだ。
「外界と遮断されたこの船は、いわば巨大な密室みたいなものだ。それに、これだけたくさんの人がいれば、すねに傷を持つ奴のひとりやふたりは乗り合わせているだろう。どうだ、なにも起こらない方が不思議じゃないかい?」
「小説じゃあるまいし、そんなに都合良く事件が起こるとは思えないけどな。まあ、好きにすればいいさ。ぼくはちょっと外の空気を吸いたいから、甲板に出てくるよ」
「ああ。また後でな」
 そう言ってウォルターはダニエルと別れ、甲板への出口へと向かった。


 外へつながる扉を開けたとたん、強烈な冷気と潮の匂いとがぶつかってきた。
 もうじき十二月、ただでさえ高緯度を航行中ということもあり、まさしく身を切られるような寒さだった。おまけにひどい強風で、揺れも感じるほどである。
 この寒空の中では、外の空気を吸うどころではない。そう思い引っ込もうとしたとき、目の端でなにかが動いた気配がした。
 すでに日も暮れ外は真っ暗で、船内から漏れた灯りだけが甲板に落ちているだけだ。
 ウォルターは暗闇の向こうに目を凝らした。
 声がする。
 男の大声と、風に吹き散らされそうな女の声だ。
 なんとなく足音を立てぬよう静かに歩き、声のする方に近づいてみた。
 暗闇の中、ふたつの影がもみ合っていた。耳を澄ますと、どうやら男がいやがる女をしつこく誘っているらしい。
 ウォルターはしばし考えた。
 助ける義理はない。しかし見過ごすのも寝覚めが悪い。船員を呼びに行こうにも、この時間だと待機室あたりまで走るはめになる。荒事は好まないが、見てしまったからには知らぬふりはできそうにない。
 ウォルターは意を決し、わざと足音を立ててふたりに近づいた。
 強いジンの匂いが鼻をつく。女の腕をひねり上げている労働者風の男は、かなり酔っているようだ。
「失礼、ぼくの連れになにか用でも?」
「ああ? 誰だあんた」
 いきなり現れた邪魔者に男は敵意もあらわにうなるが、酔いのせいか上体がふらつき呂律は限りなく怪しい。近くで見れば背丈も二インチ近く低いし、これなら投げ飛ばされる心配はないだろう。
 勇気を得たウォルターは、女の腕をつかむ男の手を振り払い、強引にふたりの間に身体を割り込ませた。
「すまなかったねシャーリー、ひとりにして。さあ行こう」
「──ごめんなさい、あなた。迷ってしまったの」
 さっき聞いた名前を適当に口にすると、女はとっさに機転を利かしたのか、ウォルターの言葉に応え寄り添ってきた。まだなにか言いたげな男からかばうようにして、女とともに甲板を後にする。
 廊下へ入ってドアを閉めると、女はうつむいて深いため息をついた。
「お怪我はありませんか」
 声をかけると、女は顔を上げた。
「ええ、大丈夫です。海を見ていたらあの方がしつこく声をかけてこられて、困っておりましたの」
「そうですか、それは……」
 そう言いかけたウォルターは、女の顔を見て絶句した。
 すみれ色の瞳は深く澄んでおり、ダークブロンドの髪はきちんとまとめられている。
 服装は真っ黒のドレスにこれまた黒いボンネットというもので、まだ若く、顔立ちは完璧なまでに整っていた。
 ぼうっと見惚れるウォルターを、女は困り顔で見上げてくる。
「あの、なにか……」
「あ、すみません」
 己の非礼に気付いたウォルターは、あわてて彼女から視線を外す。
 しかし胸はかつてないほど波打っていた。
「本当にありがとうございました。助かりましたわ」
「いや……。お役に立ててなによりです」
 ウォルターが視線をそらせたまましどろもどろに答えると、女はもう一度礼を言い会釈すると、落ち着いた足取りで去っていった。
 小さくなる後ろ姿を呆然と眺めていたウォルターは、いまだ静まらぬ鼓動を持て余していた。


 部屋に戻ると、なにやら熱心に手帳に書き込みをしていたダニエルが、ウォルターの顔を見るなり一気にまくし立ててきた。
「ウォルター、聞いてくれ。エントランスをぶらぶらしていたら、ある男が目に付いたんだ。その男の人相はこうだ。『白人男性、黒髪に黒い眼、まばらな口ひげに黒コートを着て医師風バッグを抱えていた』。きみ、これと似た格好の男に覚えはないかい」
 ダニエルに問われるも、夢見心地のウォルターは上の空で答えた。
「さあ、思い当たらないな」
「『切り裂きジャック』だよ、『切り裂きジャック』! ヤードが手配した人相書きとぴったり一致するじゃないか!」
「ああ──」
 駐在期間の後半、ロンドンではその話題で持ちきりだった。
 むろん探偵趣味のあるダニエルが放っておくはずもなく、自分の仕事をよそにウォルターの取材についてきたりと、真犯人捜しに熱中していたのだ。
「その男、エントランスの片隅でずっと行き交う女たちを見ていたんだ。人相といい、いよいよ怪しいと思うね、俺は」
「まだ決まったわけじゃないだろう」
「ああ、だが可能性はある。この船旅、退屈しなくてすみそうだ」
 興奮を隠そうともしないダニエルの様子に、ウォルターは苦笑した。
 すると彼は唇をぐいと曲げ、
「きみこそ担当だったくせに、気にならないのか?」
「そりゃあ気になるよ。あれだけ残忍な犯行を重ねたあげく、まんまと逃げおおせたやつだ。できることなら自分の手で一面を飾ってやりたいさ」
「そのわりには熱が入ってないな。なにか他に興味を引かれることでもあるのかい?」
 なかなか鋭い指摘である。
 ウォルターはさっきの出会いのことを話そうと思ったが、やめた。
 恋多きダニエルならば、女ひとり酔漢から助けたくらいで大げさな、と言いそうだったし、なによりも今は自分の胸に秘めておきたかったのだ。
「いや……別に、なにも」
「本当か? まあいいや。見てろよ、明日からあの男を詳しく調べてやるぞ」
 歯切れの悪い返事に、ダニエルは一瞬疑わしそうな目を向けたが、すぐに自身の発見した連続殺人事件の容疑者へと興味が移ったらしい。ひきつづき手帳に書き込みをはじめた。
 ウォルターは帽子と上衣を脱いでタイをほどき、二段ベッドの上段へ登って寝転がった。
 雰囲気から推測すると、いやしからぬ身分の女性のようだ。服装もきちんと観察していないが少なくても乱れた感じはない。どんな目的でアメリカへ行くのだろう。
 黒衣に黒のボンネットとなると、彼女は喪服を着ていたことになる。アメリカ行きと何か関係があるのか、どうか。
 切り裂きジャック事件の今後の行方が気にならないわけではないが、今は先ほどの女性の方がずっと心に残っている。
 こんな気持ちになったのは、はじめてだった。
 ウォルターは戸惑いを打ち消すようにごろりと寝返りを打ち、目を閉じた。
 気になるのは、単なる好奇心からだろうか。
 真実を突き止めたいという、新聞記者特有の探求心からだろうか。
 それとも──。
 まぶたの裏に、あのすみれ色の光がよみがえるようだった。

     三

 翌日、ダニエルは昼食を終えるなり昨夜見た男を捜しに行くと言い出し、当然のようにウォルターも付き合わせた。普段なら面倒だと思うところだが、ついでに自分も人捜しができそうだったので、黙ってついていった。彼が見つけたという“切り裂きジャック候補”にも興味があった。
 広い船内をくまなく見て回る。しかしダニエルの見た男もウォルターの捜す女も、どこにもいなかった。
 当然と言えば当然、名前も部屋番号も分からない人間を、何の手がかりもなしに捜しているのだ。見つかればそれこそ幸運というべきだろう。
 やがて歩き疲れたふたりはエントランスホールのソファに腰掛け、行き交う人々を眺めた。
 身なりのよいミドルクラスの乗客以外に、昨日はいなかった三等室らしき客の姿もちらほら見受けられる。この船の最下層デッキには、主にヨーロッパからの移民たちが乗船していた。
 彼らのほとんどは貧困や迫害から逃れてきた難民であり、同じ移民でも資金に余裕のある者は二等以上の部屋を取るのだ。
 彼らのようすを見つつ、ダニエルはつぶやいた。
「やれやれ、このままいくとアメリカには世界中の人種が集まることになるぞ。さしずめ人間の万国博覧会ってとこかね」
「入国を規制する法律が検討されているらしいな」
「今だって犯罪者や精神異常者は入国禁止だろう」
「ああ、しかし近いうち対象は娼婦や病人全般にまで及ぶらしい。そのうち中国や日本からの移民も排除されるんじゃないかって話だ」
 ウォルターの言葉に、ダニエルは背もたれに身を沈め鼻を鳴らした。
「いかにもお偉方の考えそうなことだな。まあこれまでが受け入れすぎだったんだし、ちょうどいい機会かもしれないな。どうせ今ごろ移住してきても、チャンスはないに等しいんだから」
 前世紀ならともかく、現在のアメリカは土地も市場も開拓され尽くされ、ツキが回ってくることはまれである。『新大陸に降り立った時点で、誰もが平等にスタートラインに立つ』なんてのは広告会社の宣伝文句で、現実には行きの船の中で彼らの将来は決定しているも同然だった。
 そのとき、ダニエルががばっと身を起こした。ある一点を見つめている。
「どうした?」
「いたぞ、あの男だ!」
 そう言うやいなや、ダニエルは席を立った。



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