CODE R.I.P. 1 Rest in Peace ※サンプル※

     一

 彼にはここ最近、日課にしていることがある。
 会社から帰宅してまず部屋の明かりをつけ、それから受信機のスイッチを入れる。ほんとうは一日中聴いていたいのだが、勤務時間中はまず無理だから、こうして日中は自宅で充電器に載せておき、帰ってから寝るまでの間だけスイッチを入れることにしている。
 もっとも、彼が会話の内容を聴き逃すことはない。
 リアルタイムで聴ける受信機とは別に、専用の録音機も同時に起動しているからだ。こちらは二十四時間フル回転で働いているため、万が一聴き逃していても、あとから確認することができる。
 だから彼は、受信機のスイッチを入れるのと同時に、録音機の再生ボタンも押す。早送りで関係ない部分を飛ばし、女の声が聞こえたときだけ再生する。
 だいたいちゃんと会話が聴き取れるのは、夜も遅くなってからが多い。仕事中は携帯を事務所のデスクの引き出しに入れているらしく、ほとんどは聴くに足らない雑音ばかりである。
 傍受した内容を拾っていくと、自分の知らない部分が次々と見えてくる。違う世界の専門用語、仕事仲間や女友達とのたわいない会話、自宅に帰ってからの物音。
 そして──。
 彼はそうして、彼女の生活を覗き見しつづけてきた。
「もしもし、河本です。いまいい? ……あ、仕事中か。大丈夫?」
 つけっぱなしにしていた受信機から、彼の恋人である彩の声が流れてくる。
 彼はすかさずテレビを消し、携帯サイズの受信機を耳に押し当てた。時刻は、十時四十分をすこし過ぎたところ。
 相手は誰だ。
 ごくりとつばを飲み込む。
「たいへんだね、こんな遅くまで。もういい歳なんだからさ、無理しすぎると身体壊しちゃうよ。……ええ? ちょっと、それは聞き捨てならないわね。男と女じゃ同じ三十過ぎでも全然違うのよ」
 あはは、と笑いながら彩はしゃべる。残念ながら、電話の相手がなんと言ったかは、聴こえない。
 しかし、ようやく来た。
 相手は、男だ。
「どうしようかな、メールのほうがいい? ……うん、あたしは大丈夫だよ、シークレット登録してるから。メールボックスは見れないし、電話も名前が出ないようにしてるの。だって、説明するのもややこしいしさ。大丈夫だって、バレなきゃいいのよ」
 どうやら、電話の相手のメールボックスはシークレット登録しているらしい。
 シークレットにしなければいけない、男。
 いやな予感が、ひとつひとつ当たってゆく。彼は手の中の受信機を握る手に力を込めた。
 そして同時に、彩の物言いが気に障った。
『バレなきゃいい』とは、当然自分のことだろう。その声は、自分をあきらかに軽んじていた。
 そんな女だったのか、おまえは。いつからだ。いつから、そんな。
 ──きっと、あのときからだ


 とある大手外資系企業に勤める彼に、人事異動が言い渡されたのは、暮れも押し迫ったクリスマス直前だった。
 同僚の中でもずば抜けた営業成績を誇る彼の異動先は、本拠地でもあるニューヨーク。セールス部門のアシスタントマネージャーという要職であり、数年勤め上げればこのまま残るにしても、また日本へ呼び戻されるにしても、ともに安定した地位が約束されるのは確実だ。実力を認められ、出世頭と同僚から羨望のまなざしを受け、彼はまさに人生の絶頂であった。
 幼いころから挫折という言葉にもっとも遠い世界の住人で、ありとあらゆる物事が彼の思い通りに運んだ。
 学業も、人間関係も、仕事も、そして恋も。
 うまくいかないことなど、ありはしなかった。
 今度の転勤先でも、きっとうまくいくはずだ。そう確信した彼は、さっそく彩に報告した。
「おめでとう、大出世ね」
 予想通り彼女はたいそう喜んでくれたが、同時にこれからも心配もしたようだ。複雑な表情で、
「……でも、これからあたしたち、どうするの?」
と、たずねてきた。
 もちろん、彩がそう言うだろうと計算に入れてきた。
 彼は余裕たっぷりにグラスを傾けた。
「結婚しよう、彩」
 そう、プロポーズだ。
 折りしも世間はクリスマス、タイミング的にもちょうどよい。
 彩も三十を過ぎたし、これ以上歳を重ねると見栄えが悪くなる。そうなる前に、中小企業のOLになどそろそろ見切りをつけ、家庭に落ち着くべきだ。
 自分の給料だったら専業主婦でも十分やっていけるし、駐在夫人としてサポートしてもらわないと困る。海外には駐在夫人同士のコミュニティーがあり、その中で上手に交流する必要がある。そうでないと、夫である自分の出世にも響いてしまう。
 とりあえず本音は隠しておき、考えてきた渡航や結婚のプランをひととおり述べた。
「もちろん、一緒に来てくれるよな。異動は四月からだから、こっちで簡単な式だけ挙げてもいいし、向こうで両親だけ呼んで挙げてもいいし。英語はこれからスクールに通えば、当面はなんとかなるだろ。不安なら俺が教えるから心配しなくていいよ。あ、あと仕事は辞めてもらわないとならないけど、とくに引継ぎとかないんだろ、ああいうのって。だいじょうぶだよな?」
 自分では、最大限彩のことを考えた条件だと思う。譲歩と言っても差し支えないほど。
 これほどの好条件ならば、二つ返事でオーケーがもらえるだろう。
 そう信じきっていた。
 それなのに──。
「ごめん、少しのあいだ考えさせて」
「……え?」
 一瞬、なにを言われたのか理解しかねた。
 手にしたグラスを、あやうく取り落としそうになった。
 ──いま、なんて……
 眼の前の恋人は、ひどく申し訳なさそうな、どこか苛立ちを抑えているような、なんともいえない表情でひたすらテーブルの一点を見つめていた。デザートをつついていたフォークを静かに置くと、もういちど繰り返した。
「ごめんね……」


 年末年始は、今までにないくらい最悪な気分だった。
 なんど連絡しても返事は来ず、大晦日にやっと『地元へ帰るから、初詣には行けない』とだけメールが返ってきたのみ。
 低俗な正月番組をだらだら観つづけ、ようやく彩と会う段取りになったのは、連休も終わりかけの一月六日であった。
 正直、会う前はどんな顔をすればいいのか、なんて会話をすればいいのか、とまどっていた。あのクリスマスの一件がまだ尾を引いていたのだ。
 しかし、それも杞憂に終わった。
 人々でごった返す待ち合わせ場所に現れた彩は、信じられないくらい明るかった。気構えていた彼が拍子抜けするくらい。
 いきいきと生気にあふれ、いつにもまして笑顔が魅力的で、バーゲン三昧で騒がしい街を、彼女はいかにも楽しそうに闊歩した。
 この変わりようはなんなのだ。
 クリスマスのときには、満を持したプロポーズに浮かぬ顔をし、二週間近く連絡をろくによこさなかったくせに。地元に帰ったときに、なにかいいことでもあったのか。
 さりげなく尋ねてみても「昔の知り合いとばったり会ったの、それだけ」と、あいまいな笑みを浮かべてはぐらかされてしまう。
 だがプロポーズについては、なにも言わなかった。
 本当は返事を問いつめたかったが、あまりしつこくせっつくのもみっともないと思い、あえて聞かなかった。
 ともあれ、機嫌がいいのはなによりだ。昔の知り合いとは、北原さんを含めた同級生かなにかだろう。
 例の話も、そのうち受け入れるはずだ。断る理由など、彩にあるはずもない。将来が約束されているのだから。
 そう楽観していた彼だったが、もうひとつ恋人の態度で気になる部分を発見した。
 デートの最中だというのに、やたら携帯をチェックするのだ。
 約束してるのか問うと、あわてて携帯から視線をはずし、うんちょっと、などと適当に返される。なにかを隠しているのは明らかだった。
 どういうことだ。
 いままで、恋人は自分に隠しごとなどしなかった。言い換えれば、隠しごとをしない女だから、付き合ってきたのだ。
 すると今度は、もっと信じられないことが起こった。
 久々に会ったのに、セックスを拒まれたのだ。正確には、彩の部屋に上がるのを、だが。
 もっとも、これまでも予定が合わない等の理由で拒まれたことはあるし、会うたび毎回というわけでもない。だが今日はとくに問題がある日でもないのに、食事のあとひとり暮らしの彼女の部屋に行こうと誘ったら、いきなり断られたのだ。では自分の部屋はどうかと聞いてみたが、それにも首を横に振り、もう帰ると言い出した。 
 しかし彼も分別があるので、とりあえずその場は理解のあるふりをして収めた。対する彩は申し訳なさそうな、どこかほっとしたような、微妙な表情である。
 なんだか腑に落ちない。
 みぞおちの辺りがもやもやする。
 そうして彼は、彩が化粧を直しに席を立ったすきに、携帯を手に取った。罪悪感など、これっぽっちもなかった。
 メールボックスを確認するが、不審な点はない。では、通話記録はどうだ。なにもないことを祈りつつ、彼は慣れない他人の携帯を操作した。
 発信記録の中に、名前が登録されていない番号があった。記録をさかのぼっていくと、最初は一月三日。それから数回。最新の記録は、その番号の羅列だった。
 これは誰だ。
 これはいったい、どういうことだ。
 名前を登録できない相手なのか。
 ほとんど無意識のうちに、彼はその番号を書き留めていた。


「こないだはありがとね。羽柴くんに会えてよかった。また昔みたいに戻れたらって、ずっと思ってたから……」
 やや照れを含んだ声で、恋人は話す。
 こないだとは、暮れに地元に帰ったときのことだろう。
 とすると、ふたりは同郷で、以前はなにかしら付き合いがあったと思われた。元彼だろうか。
「え、彼氏……? んー、いるけど、今はちょっと……。ケンカってわけじゃないけど、ちょっと顔合わせづらくて。だってさ、聞いてよ……。あ、やっぱこれは会ってから話すわ。ぜひとも他の男の人の意見も聞きたいからさ」
 ぎり、と右手に力がこもる。
 なんだ、この言い草は。俺のことを、バカにしているのか。
 耳に押し当てた受信機が、火を噴きそうなほど熱を持っていた。
「ねえ、また会えるかな。うん、今すぐじゃなくてもいいけど、近いうち。あはは、おんなじか。羽柴くん忙しそうだからさ、あたしがそっち行くよ。……うん。え、いいの? こっちまで来てもらって。仕事終わってからになると思うけど、いいかな? おすすめのレストランがあるんだ。『アルカンジェロ』って言うんだけどね。けっこうおいしいんだよ」
 誰だ。
『羽柴』とはいったい誰なんだ。
「じゃあ、また時間とか場所とか連絡するね。お仕事がんばって。……ん、おやすみ。じゃね」
 声が途切れ、ぱくん、と軽い音がした。携帯を折りたたんだ音だろう。
 それきり、声は聞こえてこなかった。電話のあいだ切っていたテレビのスイッチを入れたのか、かすかにCM曲らしき音楽が聞こえてくるだけだ。
 彼もおなじく、手にした受信機のスイッチを切った。伸ばしていたアンテナを収納し、いまいましげに投げ出す。
 本当は、こんな姑息な真似をしたくはない。しかし、だからといって彩を問いつめるのも避けたかった。
「あの男は誰だ、説明しろ」など、みっともなくてできやしない。
 彼は恋人にとって、理解のある懐の深い彼氏でいなければならないのだ。ほころびを、作ってはならない。
 誰にも気づかれないように浮気の調査をするのと、嫉妬をむき出しにするのとだったら、彼は前者を選んだ。人の目に自分が醜く映らない分、まだましに思える。嫉妬に狂う男だと呆れられるのは、プライドが許さない。
 プルタブを開けたまま放っていた缶ビールを、ひといきにあおる。エアコンの温風でぬるくなった液体が喉を通る不愉快さに、彼は眉をしかめた。
 彩の声が脳内をかけめぐる。
 彼の知る恋人は女性らしい話しかたをする人で、さっきのようにあけすけな調子で話すところは聞いたことがない。あれが、彼女の素顔なのだろうか。
 恋人の台詞は石ころのように頭の内側のあちこちにぶつかり、そのたびに最悪の場面がフラッシュバックする。
 整理する必要がある。彼は必死で乱れる心を落ち着けた。
 彩は『羽柴』とやらと会うようだ。もちろん、俺には内緒で。
 その『羽柴』とは、どうやら昔付き合いがあり、最近関係が復活したらしい。はっきりは言わなかったが、おそらく──。
 そして、ふたりで俺の悪口を言うつもりなのだ。彼氏に対する不満を他の男にうったえていた恋人の声音には、たしかに研があった。
 昔の男と、俺をあざ笑うのだ。
 笑う、この俺を?
「……ふざけるな」
 知らぬうちに力がこもり、手の中のビール缶がひしゃげる。嫉妬と憎悪の念で、全身が灼かれそうだった。
 この俺を笑うやつなど、いてはならない。
 俺はすべてを持っている。すべてにおいて勝っている。彩にとって、俺は『羽柴』より優れていなければならないのだ。
 よく考えろ、俺はいまなにをすべきなのかを。
 これから、どうすべきなのかを。
 長い時間をかけて頭を整理し、彼はおもむろに自分の携帯を取った。手に、ある電話番号を書き付けたメモを持って。
 
     二
 
「さむ……」
 藤井祐希は、膝頭をかるくこすった。
 空調は効いているが、このだだっぴろい室内では足許にまでは温風は届かない。とくに最近は環境保護とやらで、暖房設定温度が低めにされているから、冷えは確実に身体を侵食していった。
 それでも、寒空のした歩き回ることに比べれば、天国とはいえる。幸か不幸か、提出せねばならない書類は山積みだ。
 係の中でもいちばん下っ端の自分には、仲間が「これも修行の一環」とばかりにあらゆる書類を押し付けてくる。いまも、昨日片付いた事件に関するすべての書類をさばいている最中だった。
 祐希が籍を置く警視庁捜査一課四係は、現在大部屋で待機中である。俗に言う“在庁番”というやつだ。出動命令が入ればいつでも飛び出すための待機要員だが、最近は手の空いている係がいること自体、珍しい。実際、本庁に来てから一年経つが、在庁番になったのは数えるくらいしかなく、たいがいはいつもどこかの捜査本部に詰めていた。
 同僚はみな、思い思いに時間を過ごしている。パソコンで資料の整理をしている者、昇任試験の勉強をしている者、情報を集めによその部署へ行って席を外している者。
 祐希はボールペンを置き、軽く伸びをした。飲み物でも入れようと席を立つと、斜め向かいから声をかけられた。
「藤井、ついでに俺のも頼む」
 見ると、声の主は手許の文庫本に視線を落としたままだ。
「コーヒーでいいですか」
「おう」
 そっけない返事。あいかわらず視線は活字を追っている。
 だがこの人に限っては毎度のことなので、祐希はいまさら怒りもしない。ついでのついでで、今席にいる全員分のコーヒーを入れるべく、給湯室へ向かった。
 手早く入れたコーヒーを配り歩き、最後に文庫本を読みふける肩越しにカップを差し出した。
「羽柴さん、どうぞ」
 そこでようやく、羽柴は読みかけのページに指をはさんだまま、本を閉じた。椅子を半回転させ、こちらを見上げる。
「悪いな」
「いいえ」
 反射的に笑みを浮かべ、彼のデスクにカップを置いた。
 誰にでも平等に接せねば、と肝に銘じているつもりだが、無意識のうち彼にだけよい顔をしてしまう。いかんいかんと戒めつつ自分のデスクに戻り、再び本を開いた羽柴をさりげなく注視した。
 こころもち伏せた顔は真剣そのもので、本の世界に没頭しているようだ。中身はきっと、ミステリ小説だろう。長身で体格もよいため、一見スポーツマンタイプと思われがちだが、じつは根っからインドア派らしいことを、祐希はこの一年で知った。
 本庁に来てからコンビを組んでいるのが、この羽柴秀明だった。年齢は、たしか自分よりも四つ上と言っていたので、三十二歳のはずだ。
 本来、新人指導にあたるのはベテランと相場が決まっているが、彼は係の中でも若手の部類に入る。通常ではありえないコンビであり、紹介されたときはこんな若い人で大丈夫なのかと不安になったほどだ。
 しかし一年が過ぎ、なぜ羽柴が自分と組まされたのか、ようやくわかってきた。
 ひとつ、めんどう極まりない新人教育を押し付けられた。きっと誰もが自分と組むのをいやがったのだろう。
 ふたつ、彼自身が問題を起こすから。
 彼はやたらと単独行動をしたがり、仲間であるはずの係の同僚にさえ煙たがられている。せめてこれ以上の迷惑をかけられないようにと、上の連中は右も左も分からぬ新人を背負わせたに違いない。
 どちらにせよ、自分がこの四係でのやっかい者だったことには変わらないのだが。
 「だった」と過去形にしたのは、最近ようやく自分はここにいていいのだと思えるようになったからだ。三百人を超す捜査一課員のうち、女性警察官はわずか一割にも満たない。これだから女は使えないと言われるのも、どうせ女だからと卑屈になるのもいやだった。甘えず媚びず、歯を食いしばって這いずり回った結果、距離をおいていた仲間たちの態度も少しずつ氷解してきた。
 ──羽柴さんも、だいぶ慣れてくれたようだし
 異常なまでに人付き合いの悪い彼も、最近では新人があとをついて回ることを受け入れたらしい。祐希は、カップのふちをくわえた唇をこっそりほころばせた。


 しばらく無心で書類作成に専念していた祐希は、けたたましく騒ぎ出した携帯の着信音に、はっと顔を上げた。いつのまにかみな席を外しており、デスクについているのは自分だけだった。どこで鳴っているのか。
 あわてて周囲を見回す。どうやら羽柴の机に置きっぱなしの携帯が発信源のようだ。
 無断で他人の携帯に出るのは憚られる。祐希は困惑したが、そのうち留守番電話に切り替わるだろうと思い直し、ほうっておくことにした。
 しかし着信音はいつまで経っても鳴り止まない。仕方なく手に取り、ディスプレイを確認する。ゴシック体で『河本彩』と書かれた文字が、目に飛び込んできた。
 女性だ。
 祐希の心臓は跳ね上がった。
 いよいよ勝手に出られない。電話を持ったまま羽柴の姿を探すが、一向に戻ってくる気配もない。手の中の携帯は小刻みにバイブしながら、早く取れと訴えかけている。
 ──あとで揉めても、知らないからね!
 腹をくくった祐希は、通話ボタンを押した。
『──もしもし』
 かわいらしく、耳に心地よい女の声。のどの奥に奇妙な苦味がひろがる。
『もしもし? 羽柴くん?』
「──はい」
 意を決して応答すると、相手はうろたえた声を上げた。
『あれ、間違えたかな。すいませ……』
「いえ、わたし羽柴さんの同僚の者ですが、いま席を外されてるんです。戻られたら折り返しお電話してもらいます」
『あ、そうですか……。じゃあけっこうです、用件をメールしておきますんで』
 相手はそう言うと、ていねいにあいさつして電話を切った。
 ──誰だろ。やっぱ彼女、かな……
 羽柴に彼女がいるという話は、聞いたことがない。同僚からも、もちろん本人からも。
 ディスプレイに表示された通話時間をぼんやり見ていると、羽柴が戻ってきた。
「羽柴さん、お電話ありましたよ。鳴り止まないんで代わりに出てしまいました」
「電話?」
「河本さん、て女性のかたです」
 名前を伝えると、羽柴はわずかに目を見開いた。どんな顔をするのか確かめてやろうと思ったのだが、それほど表情は変わらない。携帯を手渡すと、彼は着信記録をチェックしはじめた。
「用件はメールで送りますっておっしゃってました」
 祐希がそう言うのとほぼ同時に、さきほどとはまた別の着信音が鳴る。すぐボタンを押して音を止めると、羽柴はこちらに目もくれずに部屋の外へ出て行った。
 ひとり取り残された祐希の耳に、さきほど聞いたかわいらしい女性の声が、いつまでも反響していた。


 昼食を取ったあと大部屋に戻ると、羽柴の姿はなかった。空っぽの机には、何枚かの書類やファックスが重なり合っている。
「羽柴は午後から半給を取ってるぞ。なにも聞いてないのか?」
 背後から粘着質な声が飛んできた。祐希はいったん視線を上へやり、聞こえないよう鼻を鳴らしてからふり返った。
 木下警部補は、四係に三人いる主任のひとりである。正確な歳は知らないし知りたくもないが、おそらく三十代半ばというところだろう。
 祐希はこの木下が苦手だった。若くして警部補になるのも納得の有能ぶりだが上昇志向がきわめて強く、上にはへつらうが部下には冷淡という男で、御しにくい羽柴をとくに目の敵にしており、事あるごとにねちねちと絡んだ。
「いいえ、なにも」
「ふん、いつも仲良しのおまえに一言もなしか。意外と女がらみだったりしてな」
 木下はねばっこい笑みをつくった。本人はニヒルに笑っているつもりだろうが、彫りの浅いのっぺりした顔では、たいした効果は出ていない。
 彼は祐希にもまた絡む。しかしそれは羽柴と組んだゆえのとばっちりというよりも、女性に対する嗜虐性が向けられているだけのようだ。欲求不満なんじゃないの、といつも思う。
「同報が入った。傷害らしい。久々の留守番だってのにかなわんな、まったく」
 ぶつぶつ言いながらも、木下はどこか楽しそうだ。目障りなやつがいなくて晴れ晴れしており、同時に手柄を横取りされる心配もないからだろう。木下が羽柴のことを嫌う一番の理由は、彼がトラブルメーカーのくせに検挙率は高いのが気に入らないせいだというのは、四係の者はみな知っていた。
 出動の準備をしながら、祐希は木下の「女がらみだったりしてな」という台詞が引っかかった。
 あながち勘繰りではないような気がしたのだ。

     三

 垂れこめた暗雲が、もとより暗い冬の夜空をさらに重苦しいものにしている。一月の凍てついた風をまともに受けた耳たぶが痛む。今にも雨か雪が降りそうなほど、天気は荒れていた。だが今日こそは、この荒天が味方となるだろう。
 彼は今日、ずっと屋外にいた。
 事前に恋人である彩の携帯を盗聴し、待ち合わせ日時や場所は確認しておいた。もし待ち合わせ場所に間に合わなくても、レストランの名前は盗聴で確かめたので、そちらに直行してもよかった。さいわい会社の用事は早くすんだので、待ち合わせ場所を張ることはできた。
 それから相手の男の車を追いかけ、入ったレストランとその後に向かったカフェとを外から監視した。そうして今は、人気のないこの公園へとやってきた。時刻は、午後十一時半すこし前。
 時折、俺はなにをしているのだろうという自問が沸く。誰よりも優れたこの俺が、こそこそ恋人の尾行をするなんて情けない。だが、知らないところで笑われる屈辱に比べれば、何倍もマシである。
 公園のすぐそばに、彩の部屋がある。先日、ここへ来るのを拒まれた。
 このあと恋人は、男を部屋に入れるのだろう。考えたくもなかったが、嫌でも考えがそちらに向かってしまう。
 ──俺は入れなかったのに、他の男を連れ込むなんて、いい度胸してるじゃないか
 おととい彩に電話したときの反応が、頭をかすめた。
『十五日は名古屋に出張だから、なにかお土産買ってくるよ』そう話したとき、彩はほんのすこし間を置いてから、いってらっしゃい、と答えた。その間に、安堵の吐息が含まれていたようだった。
 ほかの男と会う日に、彼氏は出張。
 そりゃあ、都合がいいだろうよ。浮気をするには。
 ふたりは車を降りてゆっくりとした足取りで公園内を歩き、池のほとりにある街灯の下で立ち止まった。肩をならべて柵にもたれ、話しこんでいる。
 彼はすこし離れた木陰にひそみ、ふたりの様子をうかがった。
 細かい表情までは見えないものの、彩はひどく深刻そうにしている。なにか相談しているのか、それとも愚痴をこぼしているのか。
 対する相手の男は──遠目からでも、かなり見目のよいのがわかる。
 年齢は自分とそう変わらないくらいだが、百六十センチそこそこの恋人より頭ひとつ分背が高く、街灯の頼りない明かりの下でも、端整な面差しは際立っていた。コートのタイプや足許からみてスーツを着ているようだが、サラリーマンにしてはどこかうさんくさい印象だ。いったい何者だろう。
 距離があるのと、強風にあおられた木々のざわめきとで、ふたりの会話は聞こえない。彩の携帯はバッグの中にあるから、盗聴器では聞き取れないだろう。これ以上近づくと気づかれる恐れがあるため、このままここで様子を見るほかはない。
 一日じゅう寒空の中にいたせいで四肢は完全に冷えきり、感覚がなくなりかけていたが、一方で頭の芯は奇妙に冴えていた。
 恋人の裏切りの元凶があの男であることは、もはや疑いようもない。
 彩は俺を裏切ったのだ。
 昔の男と会い、俺をあざ笑い、あげく自分の部屋へ連れてゆくのか。
 彩の部屋には何度も入っているので、内部は細かいところまで覚えている。いやでもイメージが沸いてきた。振り払いたくても、羽虫のようにまとわりつく。
 脱ぎ捨てられた衣服、よじれるシーツ、男の裸の背中にまわされる白い腕、割られた膝、快感にのけぞる顔──。
 俺よりもいいのか、その男のほうがいいのか?
 具体的な妄想にとらわれ、こめかみの辺りがチリチリする。
 ──そんなこと、許されるわけがない
 ぎり、と奥歯を噛みしめると軍手をはめた右手を後ろ手に回し、背負ったデイパックの口からあらかじめはみ出させておいたロープの一端をにぎった。
 そのとき、彩が目頭を押さえた。傍らの男がなにごとか言うが、彼女はうつむいて小さくかぶりを振る。男がコートのポケットからハンカチのようなものを取り出し、手渡した。彩はいったん辞退したものの、結局受け取り目許を押さえている。
 男はなぐさめているのか、ややかがんだ姿勢で語りかけている。ここからでは角度的に表情は見えない。
 やがて彩は面を上げ、うなずいた。男の顔をじっと見上げると、さっぱりとした屈託ない笑顔をうかべた。ちいさく折りたたんだハンカチをにぎりこぶしの中に包み、そのまま男の胸を小突く。
 ふざけるな。
 おまえは俺の女だろう。
 なんでそんな男といっしょにいるんだ。
 俺の目を盗んで、そんな男と──!
 彼は喉元まで出かかった声を、どうにか飲みこんだ。いいようのない昏い感情がざわざわと背筋を這い上がり、うなじの毛を逆立てる。
 そのとき、男の様子が変わった。
 反対側のポケットから携帯を取り出し、謝るポーズを見せてから背を向けて電話に出た。手早く応対したのち、男は携帯をしまいつつ彩になにごとか言うが、対する彼女は首を振りながら自分の家の方角を指差した。さしずめ、送る送らないの押し問答をしているのだろう。
 やがて男が根負けしたらしく、なんどか振り返りつつ車を置いた方向へと駆け出していった。彩は、手を振って見送っている。
 男が去ってもしばらく彩は所在なげに突っ立っていたが、バッグから携帯を取りだしてディスプレイを確認したのち、手袋を取り出した。ゆっくりと歩きつつ両手にはめている。
 ごう、と、ひときわ強い風が吹きつけ、木々が切なげに哭いた。
 彼の胸に荒れ狂う嵐のごとき、咆哮。
 いまだ。
 いましかない。
 あの裏切り者の女を手にかけるのは、今しかない。
 彼は、木陰から足を踏み出した。鼓動がうるさくて、もはや風の声すら聞こえない。極力足音を立てぬよう慎重に歩を進めつつ、手にしたロープの端を引き出して両こぶしに巻きつけた。
 殺せ。
 殺してしまえ。
 裏切られ、笑いものにされるなんて、耐えられない。
 俺の側から離れようなんて、不良品だ。いっそこの手で壊した方がよい。
 あと五メートルほどに迫ったとき、異変を感じた彩がおびえた顔でふり返った。心底おどろいたのか、目が大きく開かれていた。
 かつて愛したその瞳は、今は別の男を映している。
 俺を映さないのなら、もうなにも映さなくていい。
「かず……!」
 名を呼びかけた彩の細い首にロープを回して交差させ、両端をつかんで渾身の力で左右に引いた。
 あっという間に暗がりでもそれとわかるほど顔色が変わり、舌が飛び出した半開きの唇から、ぐうっ、とくぐもった声がもれる。ロープが食い込んだのどには、ゴム風船の結び目みたいなしわが寄っていた。
 彩の両手が、戒めを解こうとのどをかきむしる。しかし、手袋に包まれているせいで食い込んだロープには届かず、むなしく宙を掻くだけだった。
 ──早く、早く死んでくれ!
 彼は折れんばかりに歯を食いしばり、懸命に手中のロープを引き絞った。力を入れすぎたせいで、軍手の手のひらには滑り止めがついているにも関わらず、何度か手が滑ってしまう。
 目はかたくつぶっていた。美しかった彩のすさまじい瀕死の形相を、これ以上見ていられなかった。
 永遠にも思える長い時間が過ぎ、彼はようやくロープをゆるめた。背後の柵にもたれた彩の身体がくず折れ、どさりと地に落ちた。
 あまりに強く締めていたため、ひじがきしみ腕に力が入らない。滑稽なくらい膝が笑い、立っているのがやっとだ。一月の厳寒のなかだというのに、額や背中は汗で濡れていた。
 ぐずぐずしてはいられない。うつぶせに倒れている彩の身体にかがみこんだ。
 今にも起き上がってきそうで、触れるのにたいそう勇気がいったが、目をつぶり一気に抱えた。信じられないほど重く、ただでさえ力が入らない腕が抜けそうだ。以前も抱きかかえたことがあったが、これほど重くはなかった。
 ふと、そのときの情景がフラッシュバックした。
 あれはいつごろだったろう。たしか部屋で映画かなにかを観たあとで、シーンの再現をしようとふざけてお姫様抱っこをしたのだ。叫び声を上げて首筋にしがみついてきた細い腕の感触がよみがえり、胸がつかえた。
 あの頃の彩はよかった。
 素直で可愛くて、人付き合いも得意で、学歴も悪くない。勤めている企業さえ良ければ、どこへ出しても恥ずかしくない彼女だった。
 だが、もう過ぎたことだ。
 あの頃には戻れないし、変わってしまった女に未練もない。
 そうだ、俺は不良品を始末しただけ。
 こんなことで人生を棒に振るつもりはない。
 彼は残りの気力を振りしぼり、抱えた身体を街灯のない暗がりへ移してから、柵の向こうに押し上げて慎重に池へ沈めた。水音を立てないよう気をつけたつもりだったが、予想外に大きな音がして心臓が縮み上がる。折りよく強風にあおられた木々のざわめきがかぶさり、カムフラージュしてくれた。
 漆黒の水面はかつて彩だった肉体をたちまち飲み込み、冷たい底へと引きずり込んでゆく。気泡が徐々に小さくなり、やがて消えてしまった。ロープをあえて首に巻いたままにしておいたのは、不用意に持ち帰ってそこから足がつくことを恐れたからだ。
 死体が完全に沈んだのを確認した彼は、どけておいた彩のバッグを開けた。
 手探りで文庫らしき本やポーチなどのすき間から携帯を取り出し、アドレス帳から探し当てた番号にダイヤルする。そのまま明るく照らし出されたディスプレイを、たっぷり二十秒ほどにらんだのち、電話を切った。耳に当てなくても相手が出ないのはわかっていた。
 その拍子にストラップについた大きな玉が、手の甲に当たった。ストラップをちぎろうと引っ張ったが、細いひもは意外に頑丈でビクともしない。刃物もないし、この暗闇でストラップを外すのは不可能だ。
 しばし悩んだが、そのままにしておくことにした。
 ストラップは以前彩につけさせたものだ。急になくなっていれば、あらぬ疑いを呼ぶことになるかもしれない。そのままの方がかえって自然だろう。どうせ正体は誰も知らないのだし、水に漬かれば役に立たぬのだ。
 そう思い直し、バッグへ戻した。
 そのままバッグも池へ放り込もうとしたが、街灯の下になにか落ちているのが目の端に入った。近寄って確かめると、それは先ほど彩が男から受け取ったハンカチだった。
 手に取ったとき、ひらめいた。
 ちょうどいい、このハンカチを使わせてもらおう。
 いったんファスナーを閉めたバッグの中にハンカチを入れ、再度閉めなおす。
 予定にはなかったが、うまくいけばあの男に罪をかぶせることができるかもしれない。そうでなくても、警察の目を逸らすことくらいはできるだろう。要は、どれだけ時間を稼げるかだ。
 そうしてすべての作業を終わらせ、押しつぶして中の空気を抜いてからバッグを池へとそっと沈めた。
 この間、誰も公園へ来なかったのは幸いだった。
 いまにも雨が降りそうな荒天は、やはり彼の味方についた。
 住宅街のど真ん中、真冬の夜の公園をうろつくやつはいないだろうと踏んでいたが、それでも犬の散歩など可能性がないとは言い切れない。
 もう一度あたりを見回し、通路は避け木々の間を縫うようにして公園をあとにした。
 ようやく人っ子ひとりいない道路へ出たとき、彼は自分が知らぬうちに涙を流していることに気がついた。

     四

 ハンドルを握る手に、力がこもる。
 無線からはひっきりなしに情報が飛び交い、せまい車内は混乱と喧騒をきわめていた。
 二日前に発生した傷害事件は、早々に解決をみた。またもや在庁番へと戻った四係を待っていたのは、第三方面下北沢署管内で発生した殺人容疑事件だった。管内の代沢公園にある池から女性の遺体が発見されたという。首にロープが巻きついていたことから、他殺の疑いが極めて強いということで、捜査一課へ出動要請が出たのだ。



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